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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第四章 新たな生活

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光は風とともに

夜明け前の空気はまだ冷たく、砂に染み込んだ夜露が靴の裏に張りつく。訓練場の柵が風に鳴り、鉄の匂いと乾いた木の香りが混ざっていた。空は淡く白み始めているが、太陽はまだ顔を出さない。兵士たちのざわめきが遠くから響き、世界の端で朝が始まる。


エルディアス軍の訓練場。その中央に、十人の影が整列していた。リリエンガルデの十人――ヴェイル、マイ、ヒトミ、サヤカ、サオ、セイカ、スズカ、レイ、サキ、アンリ。誰も口を開かない。彼らの視線は、一人の少女に集まっていた。


白銀の髪を持つ少女――ルミナ。彼女は両手で木剣を握りしめ、細い肩を震わせていた。指先は冷え、剣の柄が汗に濡れて滑る。鎧の縁が朝の光を受け、淡く輝いている。その光は美しかったが、彼女の内側には安らぎはない。胸の鼓動がうるさい。まるで世界の音がそれだけになったようだった。


柵の向こう、少し離れた場所にエルディアスが立つ。腕を組み、じっと見つめている。灰色の瞳は冷静で、まるで風の流れそのもののようだ。その視線を感じるたび、ルミナの背筋が伸びる。逃げる場所などどこにもなかった。


「ルミナ、構えを取れ。」


その声は低く、しかしよく通った。命令でも叱責でもない。静かに、重く、彼女の心に届く声だった。ルミナは唇を結び、小さく頷く。木剣を胸の高さまで持ち上げた。足を開く。呼吸を整える。だが心は落ち着かない。指が震える。風が頬を撫で、髪を揺らした。


「相手はサヤカだ。」


名を呼ばれた瞬間、空気が変わった。周囲の視線が揺れる。金色の髪を結んだサヤカが一歩前に出る。陽の光が彼女の瞳に反射し、わずかな光を散らした。彼女の口元には小さな笑みがある。余裕と自信に満ちたそれは、見る者の心を圧するほどだった。


「では……参ります。」


木剣が軽く構えられる。肩の力の抜けたその姿は、まるで舞うようだった。対するルミナは、足の裏で砂を噛む。体がこわばり、重心が定まらない。サヤカの瞳がわずかに細まる。風が止まった。


「始め。」


エルディアスの合図が響いた。瞬間、サヤカの体が風とともに消えた。砂が跳ね、光が閃く。木剣が走る――速い。反応するより先に、音だけが耳に届いた。ルミナは反射的に剣を上げる。*キンッ*。乾いた金属音が響いた。衝撃が肩から背中に抜け、足が沈む。体が浮く。次の瞬間には、サヤカの剣が喉元に止まっていた。


「一本。」


その声は冷静だった。サヤカの瞳には情けも誇りもない。ただ事実を告げるだけ。ルミナは何も言えず、息を詰めたまま立ち尽くす。視界の端でヴェイルがわずかに眉を動かした。マイが無言で見守る。ヒトミが指先を握り、スズカが息を呑む。その静寂の中で、風が戻ってきた。


「もう一度。」


エルディアスの声。ルミナは顔を上げる。呼吸を整えるが、喉が乾いて声が出ない。木剣を握り直す。掌が痛い。手の皮が剥けそうだ。サヤカは構えを直し、再び間合いを詰める。砂が静かに沈む。ルミナの足の裏が冷たい。太陽が少し高くなり、影が短くなる。


「行きます。」


サヤカの声が鋭く響く。次の瞬間、木剣が光を裂いた。風が押し寄せる。*ガンッ*。腕が痺れる。*ガンッ*。足がずれる。*ガンッ*。体が揺れる。連続する衝撃。音だけが世界を支配する。ルミナは息を詰め、受けるのがやっとだった。頭の中が真っ白になる。視界の端で、砂が跳ねる。陽光が乱反射して目が痛い。サヤカの姿が霞んで見えた。


「っ……!」


声が漏れる。呼吸が乱れ、胸が焼ける。汗が首筋を流れ、鎧の内側に染み込む。サヤカが体を引く。木剣の切っ先がルミナの肩に触れた。小さな痛み。だが心は折れそうだった。


「まだ……です。」


ルミナは震える声で言った。サヤカが軽く頷く。「では、もう一度。」その声に、情けはなかった。


砂の上で木剣が跳ねた。乾いた音が訓練場に響き渡る。サヤカの体はほとんど揺れず、しかしルミナの肩は大きく傾いた。腕の痺れが指先にまで広がり、木剣を握る力が抜けそうになる。だが落とさない。歯を食いしばる。唇の端を噛み、鉄の味が舌に広がった。


サヤカは深呼吸ひとつして、再び間合いを詰めた。音もなく滑るような動き。ルミナは剣を構える。視線を剣先に固定しようとする。だが次の瞬間には視界の中心に金色の残像が閃いた。木剣が跳ぶ。風が鳴る。砂が散る。*ガンッ*。腕が弾かれた。体が一歩、二歩と後退する。


「ルミナ、呼吸を忘れるな。」


エルディアスの声が響く。落ち着いた声だが、そこに情けはない。ルミナは息を吸おうとするが、喉が詰まって空気が入らない。心臓の鼓動が耳の奥を叩く。目の前の世界が狭くなる。サヤカの動きが読めない。剣がどこから来て、どこへ行くのか見えない。光と影だけが交錯する。


*ガンッ!* また弾かれる。腕が痛い。肩が震える。サヤカは一歩退き、静かに息を吐いた。「集中しすぎです。体が止まってる。」その言葉が、刃のように突き刺さった。


集中しているのに、なぜ動けないのか。集中しなければ見えないはずなのに、何も見えない。頭の中で矛盾が渦巻く。ルミナは木剣を構えたまま、次の一撃を待った。風が止まり、音が消える。砂の上で、彼女だけが呼吸を荒げていた。


「孤児院で戦った時、どうした?」


エルディアスの声。ルミナは歯を食いしばった。「……真っ暗で、何も見えませんでした。気づいたら、体が勝手に動いてて。」


「ならば、その時を思い出せ。」


短く、それだけを言われた。だがその言葉が頭の中で重く響く。あの時の闇。血の匂い。泣き叫ぶ声。息の詰まるような夜。――思い出したくなかった記憶がよみがえる。暗闇の中、バルゴの影が迫っていた。見えなかった。けれど、確かに何かが“感じられた”。


*どうして、あの時は動けたの?* ルミナの手が震えた。視界の光が眩しすぎて、焦点が合わない。頭の奥で脈打つような痛み。砂の粒が光を弾き、世界が歪んだ。


「始め!」


エルディアスの声と同時に、サヤカが動いた。金の髪が閃く。木剣が風を切る。ルミナは受ける。*ガンッ*。また腕が痺れる。*ガンッ*。足が沈む。砂が跳ねる。息が止まる。*ガンッ*。体が傾く。頭の中が真っ白だ。集中しても見えない。見ようとすればするほど、狭くなる。視界の端が闇に染まる。


「集中……集中……」


小さく呟く。だが声は震えている。剣がぶつかる音にかき消される。心臓が痛い。喉が焼ける。体が限界を超え始めているのがわかる。サヤカの木剣が一閃。ルミナは受け止めきれず、弾かれ、砂の上に倒れ込んだ。


「やめだ。」ヴェイルが低く呟く。だがエルディアスは首を振る。「まだだ。」


ルミナはゆっくりと立ち上がる。膝が沈む。呼吸が荒い。肺が痛い。木剣の柄が重い。握りしめた手のひらに血が滲む。サヤカが一歩下がり、構えを直す。ルミナは息を整えようとするが、できない。空気が入らない。意識が遠のく。


「集中するのをやめてみろ。」


エルディアスの声。穏やかで、しかし有無を言わせない響きだった。ルミナは顔を上げた。汗が頬を伝い、目に入る。滲む視界の中で、エルディアスの姿がぼやけて見えた。*集中をやめる……? そんなことしたら、危ない。集中しなきゃ、見えない。*


サヤカが踏み込む。木剣が閃く。ルミナは反射で受ける。*ガンッ!*。衝撃。*ガンッ!*。体が沈む。*ガンッ!*。呼吸が乱れる。視界がぼやける。*集中しないと……見えません!* 叫びが喉を裂く。誰も答えない。風が通り抜けるだけ。


「もう一度。」


エルディアスの声が低く響いた。その声音に、拒否の余地はなかった。ルミナは唇を噛み、立ち上がる。体が重い。足が沈む。頭の中が真っ白になる。剣を構えようとしても、肩が痛い。*どうしたらいいの……集中しないって、どうすればいいの……* 心の中で問い続ける。答えは出ない。砂の音が耳を打つ。サヤカの木剣が再び迫る。


*ガンッ!*。受ける。*ガンッ!*。弾かれる。*ガンッ!*。手が滑る。痛みが走る。砂が跳ねる。陽光が滲む。ルミナの体がまた崩れる。膝をついたまま、彼女は息を荒げた。喉が痛く、胸が焼ける。目の奥が熱い。


「立て。」


エルディアスの声。命令でも叱咤でもない。ただ、そこにあるような声だった。ルミナは震える足で立ち上がる。汗が滴り、腕が重い。足が沈む。砂の上に小さな足跡がいくつも残る。目の前で、サヤカが再び構えた。彼女の目に迷いはない。リリエンガルデの仲間たちは黙って見ていた。ヴェイルの腕がわずかに組まれ、マイの拳が握られる。スズカが祈るように目を閉じる。サオの唇が動くが、声にはならない。


ルミナは木剣を構えた。体が震える。心臓が速く打つ。だが、その音が遠くで響いているように感じた。*もう……考えるのをやめよう。* その瞬間、世界が静かになった。


――静寂。風の音も、足音も、すべてが消えたように感じた。陽光だけが淡く地面を照らし、砂の粒を黄金に染める。ルミナの瞳がゆっくりと動いた。サヤカの姿が見える。だが、それはもう速さではなく、流れだった。剣が、風が、光が、すべて同じ方向へ動いているように感じた。


呼吸が深くなる。重心が沈む。肩から腕へ、指先へ、全身が一つの線のように繋がる。思考が消える。恐怖も焦りもない。ただ、感じるだけ――風の軌跡、砂のざらつき、サヤカの動き。世界の中に、余白が生まれた。


サヤカが踏み込む。木剣が光を切り裂く。だがルミナの目には、その動きがゆっくり見えた。まるで時が遅くなったように。砂の粒が宙に舞い、太陽光がそのひとつひとつを照らす。風が輪を描くように流れ、サヤカの剣筋が光の筋になって見えた。


ルミナは動かない。待つ。呼吸をひとつ。風を感じる。木剣が振り下ろされる瞬間――体が動いた。意識の外、考えるよりも早く。盾を傾け、腕の力を抜く。相手の力が自分の中に入り、流れとなって抜ける。その瞬間、木剣が横に滑った。*コンッ*――乾いた、しかし柔らかな音。サヤカの剣が逸れ、空を切る。


光が走った。砂の上に、細い弧が浮かんだ。幻のようで、現実のようだった。反射ではない。誰もが息を止めた。風が止み、世界が凍りつく。空気の密度が変わる。時間が伸びたように、誰も瞬きをしない。


ルミナは剣を下ろした。体の中を風が抜けていく。胸の奥が静かだ。心臓がゆっくりと脈を打ち、血が穏やかに流れている。手の中の木剣が少し温かい。肩の力が抜け、息が静かに落ちた。砂の上を光が撫でる。


「……今、見えてました。」


自分の声が自分の耳に届くのが遅れて聞こえた。「集中すると、見えなくなるんだ。」


エルディアスが静かに歩み寄る。足音が砂を踏むたびに、小さな影が揺れた。「気づいたか。」


彼の瞳は冷たくも、どこか優しかった。ルミナは小さく頷いた。汗が頬を伝い、光に滲んだ。訓練場の空気が、ゆっくりと動き出す。


「今の……見た?」


マイが息を呑むように呟いた。スズカが目を瞬かせる。「剣が……光った?」ヒトミが囁く。「攻撃じゃなかった。流してた……」ヴェイルが腕を組んだまま、低く言う。「力で押してない。流れそのものだ。」サオが短く息を漏らす。「真似できるもんじゃねえ。」アンリが目を細める。「……でも、あれは偶然じゃない。」


エルディアスが頷いた。「誰もがやろうとしてできることではない。やはり……ルミナは特別だ。」


その言葉が風のように広がる。ルミナは顔を上げ、驚きと戸惑いの入り混じった瞳で彼を見る。「……特別、ですか。」


「お前は、自分を空にできる。だから見える。」


風が吹く。砂が舞う。太陽が昇り、光が訓練場全体を包む。ルミナはその光の中に立っていた。白銀の髪が揺れ、影が砂の上に弧を描く。その姿を、誰もが忘れられなかった。


エルディアスが背を向ける。「訓練は終わりだ。」


リリエンガルデの面々が、ゆっくりと動き出す。ヴェイルが肩を叩き、サヤカは小さく息をつき、無言で剣を納めた。ヒトミは笑わずに、ただ頷いた。マイはルミナを一度見て、何かを言いかけてやめた。皆の足跡が砂の上に残り、やがて消えていく。


静寂。風が戻る。砂の上に光の弧の跡が残る。ルミナはそれを見下ろした。太陽がさらに高くなり、影が短くなる。風が頬を撫でる。汗の跡が乾いていく。木剣をゆっくり下ろし、目を閉じる。


「……あの時も、こんな感じだった。」


小さく呟いた声が風に乗り、空に消えた。空気が澄み、遠くの鳥の声が聞こえた。ルミナはゆっくり目を開ける。空の青が深い。太陽が眩しい。けれどもう、怖くはなかった。風が頬を撫でる。光が髪を包む。手の中の木剣が、まだ温かい。


彼女は一歩、砂の上に足を踏み出した。足跡の先に、細い弧が残る。その弧がまるで風を導くように輝いていた。訓練場の旗が高く鳴る。ルミナはその音を聞きながら、小さく微笑んだ。



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