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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
幕間 リリエンガルデの休息

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ヴェイルとアンリ 姫隊長と金の風

夜の大クスノキは、まだ煙の匂いをほんの少し抱いていた。

屋根に乗った煤が月のひかりを鈍らせ、風が通るたびに白い粉が舞い上がる。

騒ぎの消えた街は、梁のきしみや遠い犬の声までよく響く。

眠らないのは木と風と、屋上の二人だけだった。


ヴェイルは、いつもどおり兜を被っていた。

黒い長髪は兜の中に束ねられ、銀縁の指揮鎧は月を薄く返している。

立ち姿は静かで、刀身を抜かずとも近づきがたい。

だが、その沈黙の中でだけ、彼女は自分の息の速さを数えられた。


「――隊長」


背後の階段から、軽い金属の靴音。

声は明るく、まだ幼さを残す。

金髪のショートが月を散らすように揺れて、アンリが屋上へ顔を出した。


「こんな時間まで起きてるなんて、体に悪いですよ」


「あなたが言うの?」


「う……。すみません、眠れなくて」


アンリは耳の後ろを掻いて笑い、手に提げた布包みを高く掲げた。

固いパンと薄いチーズ、そして水筒。

戦の後の街で手に入る、いちばん素朴な夜食だ。


「姫隊長の見張り番、交代に来ました」


「……その呼び方はやめなさい」


「了解……したいんですけど、無理です」


「命令よ」


「駄目です。これは、あたしの勝手ですから」


ヴェイルは短く息を吐いた。

兜の内側に、白い吐息が擦れる。

怒ってはいない。ただ、困っている。

“姫隊長”という音は、彼女にとって複雑すぎるのだ。


アンリは並んで立つ位置を測るように一歩近づいた。

金と黒が、月の縁で並ぶ。

ふたりが並ぶと――何も知らない者には、金髪のアンリが姫で、

兜のヴェイルが護衛の騎士に見えるだろう。

その錯覚が夜風に浮かんで、アンリはちょっとだけ得意そうに笑った。


「ねぇ、アンリ」


「はい」


「どうして、あなたは私を“姫”なんて呼ぶの」


「綺麗だから、って答えたら怒ります?」


「怒らない。がっかりはする」


「じゃあ、違う理由を言います」


アンリは包みを足元に置き、風の方へ顔を向けた。

夜の匂いは、焦げと薬草と、遠い朝の前触れ。


「――あの夜、火の中から助けてくれたのが、隊長だったから」


ヴェイルの鎧が、月の光をひと呼吸ぶんだけ止めた。

動かない。けれど、確かに揺れた。


「……覚えてたの」


「忘れたら、叱ってください」


アンリは笑った。

笑いといっしょに、あの火の色が瞼の裏でよみがえる。



倉庫街の端。

灯りの落ちた夜に、火は突然、壁の裏から噴き上がった。

油と布と木箱が重なった場所はよく燃える。

細い路地に炎が伸び、穴のような煙が低く張り出す。


子どもは、煙の位置が見えない。

だから、息ができなくなる。

泣き出す前に目と喉が痛くなって、走る方向を間違える。


アンリは、その夜の小さな自分を知っている。

足は裸で、手のひらは煤で黒く、胸の奥は火の匂いでいっぱい。

声で叫ぼうとして、声が煙に飲まれ、

路地の突き当たりで壁に抱きついて、うずくまった。


そこで――手が、来た。


手袋の革の匂い。

汗と煙の混じった、人の体温。

抱き上げられた瞬間、背中がふわりと浮いて、

小さな骨が「まだ動く」と思い出した。


腕の主は、黒い髪をぐっとうしろに束ねて、

目の前の炎を真正面から見下ろしていた。

唇は固く結んでいるのに、目は、震えていなかった。

彼女は言った。


「目を閉じて」


それから――走った。

炎の間を縫うように、煙の筋の切れる位置を選んで、真っ直ぐに。

落ちる梁の火の粉を肩で受け、

吹きつける熱を、前を向いたまま割って進んだ。


外に出たとき、風が酸素の味を運んできた。

アンリはひとつ咳をしてから、肺をまるごとひっくり返すみたいに息を吸った。

外の空気は冷たくて、痛くて、泣けた。

泣くと、抱えられていた腕が下りて、地面の感触が戻ってきた。


助けてくれた女の人は、地面に膝をついたアンリの背を、

一度だけ強く、確かめるように叩いた。

そして、周囲の大人に向かって短く指示を飛ばした。

声に無駄がない。

声には、身分がない。

ただ、すぐに動くための音になっていた。


アンリは涙で霞む視界の向こうに、その横顔を見た。

火の明かりの中で、黒髪が揺れる。

額に汗が細い線を描き、頬骨に沿って消える。

火を映した瞳は、たしかに、綺麗だった。

だけど――綺麗だからではない。

あの瞬間、アンリは思った。

この人が「姫」に見えるのは、

火の中で自分より先に、誰かの方へ足を向けるからだ、と。



「ね?」


アンリは夜に話しかけるみたいに言って、ヴェイルを見る。

兜の奥は暗い。

けれど、視線は正面から、アンリに向いている。


「隊長があの時、姫に見えました。

 綺麗だったからじゃない。

 怖いのに前に行ったから、姫に見えたんです」


「……あの夜のことは、誰にも言ってないの」


「はい」


「どうして?」


「言葉にしたら、薄くなる気がして。

 それに、あたしの宝物だから」


ヴェイルの肩の力が、わずかに解けた。

兜が月光を外し、黒髪の陰が鎧の肩で揺れる。


「あなた、意外とずるい」


「えっ、なんで」


「先に“宝物”って言ったから、私の言葉が負ける」


「はは。それ、勝ち負けの話ですか」


「指揮官はいつも勝ち負けよ」


「じゃあ、あたしの勝ちでいいです」


「強情ね」


「新米ですから」


ふたりは笑った。

笑い声は梁の上で丸くなる。

夜はその形を崩さずに、そっと抱えた。


アンリは包みからパンを割り、ヴェイルに差し出した。

ヴェイルは手袋を外し、素手で受け取る。

素手の感触は、兜の影でこっそりと生身を確認できる、ささやかな儀式だ。


「……ひとつ、話す」


ヴェイルが言う。

兜越しでも分かる真剣さだった。

アンリは背筋を正す。


「私は貴族じゃない。

 家柄はない。

 剣と足と、声の出し方だけで、ここまで来た」


「知ってます。隊の誰も、そこを疑ってません」


「けれど“顔が良いから選ばれた”と、陰で言う者はいる」


「……」


「私はそれを、許せない。

 前に出る時、顔で出るわけじゃない。

 決めるのは、足と、声と、背中だ。

 だから、兜を被る。

 自分のためにも、隊のためにも」


風が鎧の隙間を通る音が、わずかに高くなった。

ヴェイルの言葉は、兜の中でいったん静かに溜まり、それから外へ落ちた。


「本当は、怖いの。

 見られることが。

 見られて、測られることが。

 “綺麗だ”は、褒め言葉の皮をかぶった鎖になる。

 足首に掛けられて引かれる感覚が、ずっと嫌だった」


アンリはうなずいた。

軽はずみな慰めを探さない。

ただ、聞く。

それがいちばんの敬意になると、彼女はもう知っている。


「でもね、アンリ」


「はい」


「あなたが“姫隊長”と呼ぶときだけ、私は鎖を思い出さない。

 あの夜の火の色と、あなたの手の小ささを思い出す。

 “顔”ではない、あの手の重みを」


アンリは笑った。

目尻にできる皺が、月の形に似ている。


「じゃあ、呼び続けます。

 うるさいって言われても。

 姫隊長」


「命令違反ね」


「新米ですから」


また笑う。

その笑いの隙間に、アンリは拳を握って一歩前へ出た。

月の下で、金と黒がぴたりと並ぶ。

ふたりが並ぶと、見た目の順番はどうしても入れ替わる。

アンリが“姫”に、ヴェイルが“騎士”に見える。

でも、ふたりは知っている。

中身は逆でも、どちらでもいい。

並ぶことが、約束なのだ。


「――隊長」


「なに」


「まだまだ、あたしはひよっこで、守られてばっかりです」


ヴェイルは返事を待つ。

アンリは胸の奥まで空気を入れて、音に変えた。


「でも、いつか。

 いつか必ず、あたしが姫隊長を守れるようになりたい。

 それが、あの夜の恩返し!」


静かな屋上に、宣言が凛と響く。

遠くの夜回りの鈴が一拍遅れて鳴り、風が言葉の輪郭をやさしく撫でた。


ヴェイルは、兜の中で目を伏せ、それから上げた。

声は小さい。でも、揺れない。


「……あなたたちの“恩返し”は、いつも無茶」


「リリエンガルデですから」


「ふふ。そうね」


ヴェイルは右手を上げ、兜の留め金を外した。

金具がひとつ、夜に小さな音を落とす。

もうひとつ。

最後の金具を外して、兜を抱えた。


黒髪が、夜のうちにほどける。

肩に、背に、風に。

月の白が髪の一本一本に宿り、金の風とまざり合う。


アンリは息を呑んだ。

何度見ても、きれいだ。

けれど今、その言葉は鎖じゃない。

敬意の重さで、足場になる。


「ねぇ、アンリ」


「はい」


「私の顔を見たのは、あなたが最後でいい」


「……了解です」


「あなたが『守る』と言うなら、その日が来るまで、私は兜を被る」


「じゃあ、早く来させます。

 あたし、急いで強くなりますから」


「急がなくていい。

 でも、止まらないで」


「止まりません」


ふたりは屋上の縁に腰をおろし、短い夜食を分け合った。

パンは固いが、噛むほどに味が出る。

水筒の水は冷たく、喉から胸の奥へまっすぐ落ちた。


沈黙は、敵じゃない。

隣に誰かがいて、その沈黙を共有できるなら、

それはただの夜の一部になる。


やがて、屋根の向こうが白んだ。

鳥の声が一羽、二羽。

鐘が遠くで一つ鳴り、空気の匂いが焦げから土へと戻る。


ヴェイルは兜をかぶり直した。

金具が戻る音は、儀式の終わりと始まりの合図。

アンリは立ち上がり、肩の留め具を確かめた。

金髪が朝の最初の光をくわえて、短い影を地面に落とす。


「行こう」


「はい、姫隊長」


「その呼び方、朝のうちは許す」


「夜も昼も許してほしいなぁ」


「……検討する」


階段へ向かう足取りは、昨夜より軽い。

ふたりが降りていく背中は、金と黒の対照のまま、

同じ速度で、同じ方向を向いていた。


リリエンガルデの旗が、朝の風でふくらむ。

旗布の影が路地に落ち、通りの小石を順々に撫でていく。

街はまだ傷を抱えている。

けれど、歩ける。

歩く人が、ここにいる。


屋上には、風の音だけが残った。

夜の名残は薄れ、金の風が少し強くなる。

それを受けて、旗がもう一度ふくらんだ。


――約束は、風にほどけない。

炎の夜に結んだ結び目は、朝になっても、ほどけない。

守られた子どもは、新米になり、

新米は、いつか守る者になる。


そして姫隊長は、兜の下で、確かに笑った。



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