旗印の再誕
――夜。軍の治療舎は、薬草と油の匂いが混ざっていた。
幕の外では、まだ眠らぬ風が砂を渡り、
東の空の底だけが、かすかに青みを帯び始めていた。
夜露が葉に落ちる音が、遠い鐘のように響く。
夜は終わろうとしているのに、まだ完全には明けない。
その狭間で、世界がひとつ息を止めている。
幕が風に鳴り、蝋燭の火が細く長く伸びて、白布の上の男の頬を照らした。
エルディアス。包帯の下に走る傷は深く、呼吸は浅い。それでも、彼は目を開けば軍の地図を探す人だった。戦場の音が遠ざかっても、彼の中では、まだ戦が続いている。
今宵だけは机が遠く、代わりに花が一輪置かれている。その花は、ルミナが大クスノキの丘で摘んだもの。淡い色をしているが、強い。炎の夜をくぐっても、枯れなかった。
扉を開ける前に、ルミナは一度だけ深く息を吸った。墓の風の匂いを胸いっぱいに残したまま、幕を押し分ける。
「……伯爵」
エルディアスのまぶたが微かに動き、視線が彼女を捉える。痛みを押し殺した目の奥に、薄い光がひとすじ宿った。
「来たか」
「墓へ行ってきました。……ムギトさんのところへ」
その名を口にした瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがほどけていった。声は落ち着いていた。揺れていた水面が、逆に深く澄んでいくような感覚。
「ミレイナさんが言いました。『あの人は、私から元気をもらってたんや』って。……私、やっとわかりました。人は、誰かの元気で生きてる。私も、ムギトさんの笑顔で毎日を越えてました」
エルディアスは目を閉じ、短く息を吐く。蝋燭の影が頬骨を滑り、また戻る。
「伯爵。私はもう、泣いてるだけの旗印ではいたくありません」
ルミナは歩み寄り、机の花のとなりに小さな布切れを置いた。焦げ跡の残る旗の切片。焼けただれても、布はまだ旗の端の形を保っている。それは、もう一度立つと誓うための、彼女の印だった。
「……私を、鍛えてください」
沈黙が幕の内側に降りた。風の音が少しだけ遠のき、心臓の鼓動が耳の奥で大きくなる。エルディアスは目を開き、ゆっくりと上半身を起こそうとした。痛みが表情を掠める。ルミナは思わず身を乗り出したが、彼は静かに手を上げて制した。
「理由を」
「名を背負うなら、ふさわしくありたいんです。『旗印の乙女』を信じてくれる人がいるなら、その信じてくれる人のために、強くなりたい。――そして、強さを分けられる人でありたい」
蝋燭が小さくはぜた。光の粉が宙に散って、すぐに闇へ沈む。
「……愚直だな」
「はい」
「愚直であれ。最後に立っているのは、たいてい愚直な者だ」
エルディアスは震える腕で手を伸ばした。指先に、戦場の記憶が残っているかのように硬い。しかし、その掌に触れた瞬間、ルミナは温かさを感じた。人の体温は、言葉よりも早く届く。
「お前を、私が預かる。甘くはないぞ。」
その声には、鉄のような重みと微かな温もりがあった。戦場を生き抜いた者だけが持つ、厳しさの中の優しさ。
「この手の下にいる間、剣は教えの半分にすぎない。残り半分は、倒れても旗を離さぬ心の鍛え方だ」
「……はい」
涙は出ない。ただ視界が、静かに滲む。ルミナは深く頭を垂れた。
「必ず、強くなります。強さを――人に分けられるように」
「よし」
短い言葉に、承認の重みがあった。その声の奥に、もうひとつの祈りがあった。“お前には、生きて届いてほしい”――そう聞こえた。
エルディアスは枕に背をあずけ、呼吸を整えながら続ける。
「明日の朝、クラリッサに言って、基礎をやり直せ。立つ、歩く、見る。――旗は最短距離で走らない。風を読む。風を使う。お前は、風の中に立つことを覚えろ」
ルミナは頷き、旗の切片を胸に抱いた。布の焦げた匂いが、墓の風に混ざる。生と死の匂いが、はじめて同じ場所で静かに息をしていた。
「伯爵。次にここへ来るとき、もっと胸を張って報告します」
「待っている。……旗を掲げろ、乙女。手が震えても、構わん」
治療舎を出ると、夜の気配は薄まりはじめていた。東の端に、細い光の糸。丘の方角から吹いてくる風が、髪をやわらかく梳く。
その風の中に、かすかに人の声が混ざった気がした。――貴方は、行動で示す人だ。ルミナはその声を胸の奥で確かめる。でもい。あの人の面影が、静かに胸を通り抜けた。
彼のように、言葉ではなく、行動で示す。それが私にできる、最初の一歩だ。
指先の焦げが、今度は痛みではなく、合図に思えた。風が変わる。夜明けの光が、ゆっくりと地を染めていく。ルミナの胸の奥で、――“旗”が、静かに息をした。
――夜が明ける。
風は墓の丘を渡り、焦げた旗布を揺らした。
ルミナは立ち上がり、静かに胸に手を当てた。
その瞳の奥で、朝の光が宿る。
新しい一日が、彼女の中で始まっていた。
帝都・軍政尚書室
報告書を置く音が、広い部屋に響く。
書記が一礼して下がると、静寂だけが残った。
火皿の炎が小さく揺れ、蝋の香が漂う。
レギウスは書類を見下ろし、短く呟いた。
「……エルディアスの功績は大きい。」
その一言だけで、部屋の空気が変わった。
副官が息を呑み、次の言葉を待つ。
窓の外では、雪が細く舞っている。
白の向こうに、旗がひとつ、朝風に揺れた。
「――旗印の乙女ヴェントレアは、連邦王国の宝だ。」
それだけ。
命令も署名も要らない。
その言葉が帝都を走り、次の朝にはすべてが動き出す。
火皿の炎が消える。
蝋の香だけが、静かに残った。
(第四章へ)
この章のルミナは、ようやく「旗印の乙女」という名前の本当の意味を知りました。
それは、英雄でも聖女でもなく、
誰かの心の中に、明日を信じる小さな灯を残す人。
そういう存在だと、彼女は気づいたのだと思います。
ムギトの死は、ルミナにとって“敗北”でした。
けれどその敗北の中で、
彼女は「誰かの笑顔が誰かを支える」ことを、ミレイナの言葉から教えられました。
彼女がエルディアスに「私を鍛えてください」と言ったのは、
力が欲しかったからではありません。
守りたかったものを、二度と見失わないための“強さ”を求めたのです。
旗を掲げるということは、
誰かの希望になると同時に、誰かの悲しみも背負うこと。
ルミナはそのことを、まだ知らないまま、それでも歩き出しました。
この章は、彼女が“信仰の象徴”から“意志を持つ人間”へと変わった夜です。
彼女の言葉「私を鍛えてください」は、
世界に向けた挑戦であり、
物語の中で彼女が初めて自分の意思で選んだ“明日”です。
次章では、エルディアスの庇護のもとで、
彼女が学び、悩み、そして再び世界へ踏み出す姿を描きます。
――ルミナの決意が、読んでくださったあなたにも少しでも届けば嬉しいです。




