旗印の乙女はまだ立てない
焼け跡の匂いが、まだ町の空気に残っている。焦げた木と土の匂いが混ざって、胸の奥がざらつく。風が吹くたび、誰かの声の名残のような音が耳をかすめた。あの夜から、いくつの朝を越えたのか、もう覚えていない。ただ、どれだけ日が昇っても、あの炎の赤は、瞼の裏に残ったままだ。
私は、旗印の乙女と呼ばれている。最初にその言葉を聞いたとき、どう答えればいいのかわからなかった。ただ、嬉しかった。人に頼られるのは、悪いことじゃないと思った。“誰かの役に立てるなら”――その言葉が、私を支えていた。けれど、あの夜、私は守ると誓った人を守れなかった。ムギトさんが死んだ。ミレイナさんの泣き声が、夜風に溶けて消えた。それなのに、朝になると人々は言った。「旗印の乙女が町を救った」と。
違う。救ったのは、私なんかじゃない。あの人たちだ。エルディアスさん、クラリッサさん、ナナシさん、リリエンガルデの仲間たち。そして――でもい。私が信じきれなかった人。あの夜、彼を見た。鎖に繋がれ、兵士に押さえつけられていた。私を見た彼の瞳が、何かを言おうとして、何も言わなかった。私は動けなかった。その沈黙が、私を責めていた。
“違うなら、違うと言えばよかった。”今になって思う。チヤホヤされて、喜んでいた。人が笑ってくれるなら、それでいいと思っていた。でも――それは違った。本当は、あの時ちゃんと否定しなければいけなかった。旗印の乙女なんて呼ばれる資格なんて、私にはなかった。
私は、ただ逃げていたんだ。優しさのふりをして。笑っていれば、人の痛みを見ずに済むと思っていた。でも、見ないふりをした痛みは、いつか必ず戻ってくる。私の胸の中に、焦げた町の匂いと一緒に残っている。
ミレイナさんは言ってくれた。「あんたのせいやあらへん」その言葉が、どれだけ救いになったかわからない。けれど、ムギトさんが帰ってくるわけじゃない。赦されても、何も変わらない。温もりは戻らない。だからこそ、私は考える。――どうすればよかったのか。どう生きれば、あの人の死を無駄にしないのか。
クラリッサさんは、マルティナを守ってこの街に連れてきてくれた。ナナシさんは、軍を率いてこの街を救いに来て、今も忙しくしている。エルディアスさんは、怪我を負っても私をこの街まで連れてきてくれた。リリエンガルデのみんなは、最速で街を救いに行ってくれた。
――私は、一人じゃなかった。みんなの想いが、私を支えてくれている。
でもい。あなたなら、どうしてた?私はあなたを信じきれなかった。あの時、疑いの方が早かった。あなたの目を見て、ただ信じればよかったのに。
今の私を見たら、きっと言うんでしょ?……いや、あなたは言葉にしない。
――貴方は、行動で示す人だ。
信じるよりも、動く。疑うよりも、掴む。言葉よりも先に、前へ出る。それが、あなたの生き方。
私も、少しだけでも近づきたい。できないことを嘆くんじゃなく、できることを見つけて動く。誰かの想いを、背中で受け止める。――そうやって、私も行動で示したい。
伝説の旗印の乙女。あなたは、どうしてそんなふうに人の前に立てたの?迷わなかったの?誰かに名前を呼ばれて、違うと思ったことはないの?私は、毎晩それを考えています。あなたは私のように悩んだの?どうやって、それを受け入れたの?
街の人は、私を“旗印の乙女”だと言う。けれど、私はただの人間です。立ち上がるたびに傷ついて、失って、泣いて、また誰かに支えられて。そんな弱い人間です。それでもあなたのように呼ばれてしまう。私は、どう向き合えばいいのでしょうか。
クスノキセンセが言っていました。――旗は風がなければはためかない。旗が立っているように見えるのは、その背中を押す風があるからだって。
私の風は、なんだろう。ムギトさんの笑顔、ミレイナさんの涙、エルディアスさんの言葉、クラリッサさんの行動、ナナシさんの声、でもいの沈黙。それら全部が、私を動かす風なんだと思う。
旗は、自分で風を起こせない。でも、風が吹けば、まっすぐに揺れることはできる。私もそうなりたい。誰かの想いを受けて、ちゃんと揺れる人でありたい。
私は、ずっと人にやさしくすればいいと思っていました。笑って、手を差し伸べて、それでいいと信じていた。でも、違うんですね。人の想いを、正面から受け止めてこその優しさだって。痛い想いも、悲しい言葉も、全部受け止めて初めて、人の心に届くんだって。
だから私は、逃げません。人の想いに背を向けない。たとえその想いが私を傷つけても、それを拒まない強さを持ちたい。
まだうまく立てないけれど、きっと風は吹いている。だから私は、少しずつでも旗を掲げます。ムギトさんがくれた日常を、ミレイナさんが見せてくれた赦しを、エルディアスさんが教えてくれる覚悟を、でもいが信じてくれた優しさを、風として受け止めて――私は、立ちます。
旗は風がなければはためかない。けれど、風が止んでも、旗はそこにある。誰かの想いがある限り、私は倒れない。
私は、旗印の乙女。けれど、まだ立てない乙女です。それでも――風を感じる限り、私は、ここに在ります。




