でもいvsドレヴ
瓦礫の間を、でもいは走った。
息が切れる。
火の粉が頬を掠める。
視界が揺らぐ。
それでも――その背中だけは、見失わない。
「ドレヴッ……!」
崩れた梁を飛び越える。
倒れた樽を蹴り越える。
路地の先。
炎に照らされて、黒い影が止まった。
肩に担がれた子どもの腕が、力なく揺れている。
ドレヴが、ゆっくりと振り返った。
煤けた顔。
髪に灰。
片手には刃こぼれした斧。
「……なんだ、坊主か」
でもいは叫んだ。
「その子を離せ!」
喉が焼ける。
胸が痛い。
けれど、目だけは逸らさない。
ドレヴは鼻で笑った。
「離せ? はっ……お前、何様のつもりだ」
斧の先で、地面の瓦礫を突く。
「腹が減ってる時に"正義"で飯が食えるか?」
「そんなこと言ってるんじゃない!」
「なら何だ? "良心"か? "希望"か?」
火の粉が舞い上がる。
二人の影が伸びる。
「そんなもんで腹が膨れると思うなよ」
でもいは一歩、近づく。
「ドレヴ……お前がそんなことを言うなんて……」
「信じるな」
ドレヴの声は冷たい。
「俺も信じたくなかった。だが、これが現実だ」
「……!」
「俺には……子がいる」
その声には、怒りよりも悲しみがあった。
「腹が鳴るたびに、泣く声が聞こえる。俺はもう、他人の子より、自分の子を選ぶ」
炎に照らされた瞳が赤く光る。
「……当然だろ」
でもいは動けなくなる。
――父親の本音だった。
「……坊主。お前はまだ若い」
ドレヴは斧を構え直す。
「夢を見ていられるうちは、それでいい」
「ドレヴ……」
「俺はもう、夢を見るには歳を取りすぎた」
決意の光が、刃に宿る。
でもいは、小刀を抜いた。
震える手。
深く息を吸う。
「……坊主、どけ」
「嫌だ」
ドレヴの眉が、一瞬だけ動いた。
でもいの目は、恐怖の奥で強く光っていた。
「俺はもう"坊主"じゃない」
「……そうか」
沈黙。
燃え尽きた梁が崩れ落ちる。
火の粉が舞い、夜が二人を赤く染めた。
ドレヴの斧がわずかに上がる。
でもいは一歩も退かない。
二人の間に、風が通り抜ける。
そして――
火花が散った。
ガキィンッ!
小刀と斧が激突する。
衝撃。
でもいの小さな体が後ろに弾かれる。
「ぐっ……!」
石畳に膝をつく。
手が痺れる。
――力が、違いすぎる。
ドレヴが踏み込む。
斧が振り下ろされる。
「終わりだ、坊主!」
でもいは転がって避ける。
ガンッ!
石畳が砕け、破片が飛び散る。
その隙に――
でもいは腰の袋から石礫を掴む。
ヒュッ!
投げる。
ドレヴの頬を掠める。
「ちっ……!」
さらに二つ、三つ。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!
石礫が空を切り、ドレヴの足元、肩、額を狙う。
ドレヴは斧で払う。
カンッ、カンッ!
だが――
でもいの狙いは、ドレヴではなかった。
最後の石礫が、ドレヴの背後の梁を叩く。
ミシミシッ……
「……!」
ドレヴが振り返る。
梁が傾ぎ、瓦礫が崩れ始める。
ドガガガッ!
「くそっ……!」
ドレヴは担いだ子どもを庇いながら、横に飛ぶ。
その瞬間――
でもいは立ち上がる。
小刀を握り直す。
「……坊主。お前じゃ無理だ」
ドレヴが斧を肩に担ぎ直す。
「その子を……返せ……!」
「返さない」
ドレヴの声は冷たい。
「俺は、自分の子のために生きる」
「……!」
でもいが叫ぶ。
「分からない……! 自分の子を守るために、他人の子を犠牲にするなんて……!」
「なら、お前はどうする?」
ドレヴが問う。
「自分の子と、他人の子、どっちか一人しか救えない時――」
息を呑む。
「――お前は、どっちを選ぶ?」
でもいは答えられない。
「当たり前だが、自分の子だ」
ドレヴは肩の子どもを見る。
「悩むはずがない」
その声は、迷いがなかった。
「それ以外、選べない」
でもいは小刀を構える。
震える手を、必死に押さえる。
「……それでも、俺は止める」
「なぜだ?」
でもいは目を上げる。
その瞳に、強い光が宿る。
「俺は……チェスタ人を救いたいだけだ」
「……何?」
ドレヴの目が、大きく見開かれる。
「あんたが、この子を売れば……」
でもいの声が震える。
「チェスタ人は、また蔑まれる」
「……!」
「『チェスタ人は子どもを誘拐する』『チェスタ人は信用できない』――」
一歩、前へ出る。
「そう言われ続けて、もっと差別される」
ドレヴの顔が、わずかに歪む。
「あんたの息子も……その差別の中で、生きていくことになる」
「……坊主」
でもいは叫ぶ。
「あんたの息子が大きくなって――『父さん、チェスタ人って何で嫌われてるの?』って聞かれたら……」
ドレヴの手が、わずかに震える。
「あんたは、何て答えるんだ!」
「……っ」
「『チェスタ人は子どもを誘拐するからだ』って……そう言われた時……」
でもいの声が、夜に響く。
「息子の目を見て……『お前の父さんも、昔やったんだ』って……言えるのか!」
ドレヴの顔が歪む。
「……黙れ」
「あんたの息子が、学校で石を投げられて……『誘拐犯の子』って罵られて……」
「黙れ……!」
「それでも帰ってきて……『父さん、僕たちは悪くないよね?』って泣きながら聞いてきたら……」
でもいの目から、涙が溢れる。
「あんたは……その子を抱きしめられるのか!」
「黙れッ!」
ドレヴが吠える。
斧が地面を叩く。
ガンッ!
火花が散る。
「……俺は……」
声が震える。
「俺は……息子を……守りたいだけだ……!」
「だったら!」
でもいが叫ぶ。
「息子が誇れる父親で、いてくれよ!」
その言葉が、ドレヴの胸を貫いた。
「……っ」
斧を握る手が、震える。
「俺は……チェスタ人が、まともに生きられる世界を作りたい」
でもいは小刀を握る手に、力を込める。
「父さんが死んで……俺は一人になった」
炎がパチパチと音を立てる。
「差別されて、蔑まれて……それでも、生きてきた」
瓦礫が崩れる音。
遠くで戦う声。
「でも……このままじゃ、何も変わらない」
「……」
「チェスタ人は、ずっと差別され続ける」
ドレヴは沈黙する。
「だから……あんたを止める」
でもいの目が、炎を映して光る。
「あんたの息子が……胸を張って生きられる世界を……俺は作りたいんだ」
「……息子が……胸を張って……」
ドレヴが呟く。
その声は、震えていた。
「……坊主。お前、本当に馬鹿だな」
「知ってる」
でもいは小さく笑う。
「俺は、馬鹿だ」
一歩、また一歩。
「一人じゃ何もできない。でも……それでも、やるしかない」
ドレヴは長く息を吐く。
斧が、ゆっくりと下ろされる。
「……っ」
ドレヴの顔が歪む。
肩が震える。
「……クソが」
低く呟き、肩の子どもを下ろす。
そっと、地面に寝かせる。
「……持ってけ」
「ドレヴ……」
「早くしろ」
その声は、掠れていた。
「気が変わる前に……いや、もう変わっちまった……」
でもいは駆け寄る。
子どもを抱き上げる。
軽い。
温かい。
息がある。
「ありがとう……ドレヴ……」
「礼を言うな」
ドレヴは背を向ける。
「俺は……お前の馬鹿さに、負けただけだ」
その背中が、小さく震えている。
「……息子に、なんて言えばいいんだろうな」
その声は、誰にともなく呟かれた。
「……いや、もう分かってる」
ドレヴは顔を上げる。
「『父さんは、間違いそうになったけど……馬鹿な坊主に止められたんだ』……そう言うよ」
でもいは子どもを抱きしめる。
ドレヴの背中を見つめる。
「ドレヴ……あんたも、チェスタ人だ」
「……ああ、そうだな」
ドレヴは顔を上げる。
「俺も……チェスタ人だ」
「だから……一緒に、生きよう」
でもいは強く言う。
「チェスタ人が、まともに生きられる世界を……一緒に作ろう」
ドレヴは沈黙する。
そして――小さく笑った。
「……坊主。お前、本当に救世主みたいだな」
「そんなんじゃない」
でもいは首を横に振る。
「俺は……ただ、チェスタ人を救いたいだけだ」
その言葉に、ドレヴは目を閉じる。
「……ありがとな、坊主。お前は……息子の希望だ」
そして、炎の中へと歩いていく。
その背中を、でもいは見送る。
子どもを抱きしめ、ただ立ち尽くす。
炎がパチパチと音を立てる。
風が吹き抜け、灰が舞う。
でもいは、ゆっくりと孤児院へと歩き出した。
子どもを、返すために。
そして――チェスタ人を、救うために。
ドレヴの背中は、もう見えなかった。
だが、その背中は――確かに、軽くなっていた。




