侵入者
孤児院の前――
石畳に広がる血の海。その中心に、ムギトの巨体が横たわっていた。
「ムギト……ムギトッ!」
ミレイナが震える手で夫の顔を覆う。血が止まらない。肩から、脇腹から、腿から――すべての傷口から赤黒い液体が流れ続けている。
「しっかりしてや……死んだらあかん……!」
リオは布を裂き、必死に傷口を押さえる。だが血は止まらない。布はすぐに赤く染まり、手がぬるぬると滑る。
「ムギト……お願い……目を開けて……」
ミレイナの声は涙で震えている。ムギトの顔は蒼白で、呼吸は浅く途切れ途切れ。かろうじて胸が上下しているが、それもいつ止まるか分からない。
「水……水を……」
リオが立ち上がろうとした、その時――
背後で、かすかな音がした。
扉が、ゆっくりと開く音。
ミレイナは振り返る。リオも振り返る。
そこに立っていたのは――バルゴ。
黒手団の斥候にして、誘拐を生業とする男。冷徹な目で、二人を見下ろしていた。
「……よう。番犬はもう、用済しみたいだな」
その声は冷たく、感情がない。
ミレイナは息を呑む。リオは小さく後ずさる。
バルゴはゆっくりと歩み寄る。靴が血溜まりを踏み、ピチャピチャと音を立てる。
「安心しろ。お前らは殺さねぇ。ガキどもも、今は要らねぇ」
その言葉に、ミレイナは眉をひそめる。
「……何が目的や」
「決まってんだろ。ルミナだ」
バルゴは薄く笑う。
「あの娘は、いい値で売れる。顔立ちも良い、気立ても良い。貴族の愛人か、金持ちの妾か――どっちにしろ、金になる」
「……!」
リオが声を上げる。
「ルミナを……売るつもりなの……?」
「そうだ」
バルゴは平然と答える。
「人身売買は儲かる。特に、こんな混乱の中ならな。誰も気づかない。誰も追ってこない」
ミレイナは歯を食いしばる。
「……させへん」
「ほう?」
バルゴは鼻で笑う。
「お前らに何ができる? 番犬はもう倒れてる。お前らは非力な女と子供だ」
その言葉に、ミレイナは立ち上がる。震える足で、バルゴの前に立ちはだかる。
「うちは……うちは、ここの子らの母親代わりや。子ぉを守るためなら、何でもする」
その声は震えていたが、目は揺らいでいなかった。
バルゴは目を細める。
「……邪魔するなら、容赦はしねぇぞ」
「かまへん」
ミレイナは腕を広げる。小さな体が、バルゴの前に立ちはだかる。
「ルミナは……この孤児院の、みんなの希望や。あの子を奪わせるわけにはいかへん」
リオも立ち上がる。震える足で、ミレイナの隣に立つ。
「私も……ルミナを守る」
二人の少女が、バルゴの前に立ちはだかる。
バルゴは舌打ちする。
「……面倒くせぇ」
その瞬間――
バルゴが動いた。
速い。あまりにも速い。
ミレイナの肩を掴み、壁へ叩きつける。ドンッと鈍い音。ミレイナが呻く。
リオが叫ぶ。
「やめて――!」
だがバルゴはリオの腕を掴み、同じように壁へ叩きつける。リオの小さな体が壁に激突し、息が詰まる。
「……邪魔だ」
バルゴは冷たく呟き、孤児院の奥へと進む。
地下への階段。そこへ、バルゴの足音が響く。
ミレイナは壁に背を預けたまま、震える手で立ち上がろうとする。だが体が動かない。痛みで視界が霞む。
リオも同じように、壁にもたれかかったまま動けない。
「ムギト……」
ミレイナが呻く。
だが、ムギトは答えない。ただ、血溜まりの中で、かすかに呼吸をしているだけ。
バルゴの足音が、階段を降りていく。
地下で、子どもたちの小さな悲鳴が聞こえた。
「いやぁっ――!」
「来ないで――!」
ミレイナは歯を食いしばる。涙が頬を伝う。
「ごめん……ごめんな……守れへんかった……」
リオも涙を流す。
「ルミナ……早く……来て……」
二人の祈りが、夜に溶けていく。
だが――
その祈りは、まだ届かない。
孤児院の地下で、バルゴの影が子どもたちに迫っていた。




