エルディアスの生き様
夜風を裂き、石畳を叩く蹄音が続いていた。
ルミナは鞍の前に座り、背後からエルディアスの大きな腕に包まれるようにして支えられている。その腕は手綱を握りしめ、幾度の戦場を越えてきた重みが宿っていた。
「しっかり掴まっていろ」
耳元で響く声は低く、荒々しくも安心を与える響きだった。
ルミナは乱れる呼吸を抑え、震えながら応える。
「はい……!」
その声には恐怖ではなく、決意が込められていた。孤児院の子どもたちの顔が脳裏に浮かぶ。マルティナの優しい笑顔。ミレイナの温かい手。リオの澄んだ瞳。みんなを守りたい。その一心だけが、彼女の心を支えていた。
だが、馬の吐息は白い煙となり、脚は限界に近づいていた。巨体が大きく揺れ、地面を蹴るたびに苦痛の嘶きが漏れる。
「あと少し、持ってくれ……!」
エルディアスの手綱を引く腕に力がこもる。その腕に抱かれるようにして、ルミナは必死に前を見据えた。
――大クスノキのみんな。どうか、無事でいて。
だが運命は無情だった。
次の瞬間、前脚が折れ、馬が大きく前へ崩れ落ちる。
エルディアスは咄嗟にルミナを抱き寄せ、自分の体を下にして地へ叩きつけられた。石畳が砕けるほどの衝撃に鎧が悲鳴を上げ、胸の奥で嫌な音が走る。
「ぐっ……!」
息を詰まらせる声と共に、伯爵の胸に鋭い痛みが走った。折れた肋が肺を圧迫し、呼吸すらままならない。
ルミナは転がりながらもなんとか立ち上がる。無傷だった。エルディアスが全身で庇ってくれたから。
振り返った先で、伯爵は胸を押さえながらもなお立ち上がろうとしていた。血が鎧の隙間から滲み、手綱を握った右手だけがなお強く震えていた。
「エルディアス様!」
叫ぶ声に、老将は苦悶の息を吐きながらもかすかに笑みを浮かべる。
「……旗印の乙女は、地に伏してはならん。行け、ルミナ」
その言葉は、痛みに喘ぎながらもなお誇りを失わぬ老将の矜持だった。
「いやです! 一人では……!」
ルミナは涙を流しながら叫ぶ。だが、エルディアスは首を横に振る。
「お前には、守るべき者がいる。私ではない。孤児院の子どもたちだ」
その言葉に、ルミナは唇を噛む。そうだ。みんなが待っている。私が行かなければ。
苦しげに嘶く馬が、折れた脚でもがいていた。
エルディアスは黙って剣を抜き、短く目を閉じる。
「すまんな……」
鋼が閃き、馬は静かになった。
ルミナは目を逸らし、涙を拭った。悲しい。辛い。だが、立ち止まってはいられない。
「行きます」
震える声で言い、ルミナはエルディアスの腕を支えた。
「行くぞ」
伯爵はルミナを促し、二人は徒歩で最後の中継地点へ向けて歩き出した。歩みは重く、老将の呼吸は荒い。だが背は曲がらず、ただ前を見据えていた。
ルミナは小さな体で、エルディアスの巨体を必死に支える。力ではかなわない。だが、支えたい。この人は、私を守ってくれた。今度は、私が支える番だ。
「大丈夫ですか……?」
「……案ずるな。まだ、死なん」
エルディアスの声は掠れていたが、その瞳は揺らがない。
しばらくして、街道の先に灯が揺れる。
迎えに出た厩舎係が馬を引きながら駆け寄ってきた。
「――伯爵様!」
声を張り上げ、係は駆け寄る。
そこには、血に濡れた胸を押さえ、なおも歩みを止めぬエルディアスの姿があった。ルミナが肩を支え、必死に歩いている。小さな体が、大きな体を支えようと懸命に踏ん張っている。
「落馬で……肋を……」
ルミナの声は震えていた。しかし彼女の瞳には涙ではなく、決意が宿っていた。
伯爵は血に濡れた口端を歪め、苦笑を浮かべる。
「案ずるな……まだ、死なん。だが……」
かすれる声で続ける。
「旗印は……地に伏してはならん。ルミナを……先へ……」
係は震える手で伯爵の肩に布を当て、必死に声を抑えた。
「……畏まりました。すぐに救護を――」
その瞬間、伯爵の眼が鋭く閃いた。
「救うべきは……この娘だ」
短く、しかし確かな言葉だった。
ルミナは歯を食いしばり、深く頷く。庇護の影から解き放たれた彼女は、いまや己の足で立たねばならなかった。
「エルディアス様……」
ルミナは伯爵を見上げる。その瞳に、感謝と決意が宿っていた。
「ありがとうございます。私、行きます。みんなを、守ります」
その言葉に、エルディアスは満足そうに頷いた。
血に濡れた胸を押さえ、エルディアスは荒い息を吐いた。
「……私は間に合わせると誓った」
声は掠れていたが、その瞳は揺らがない。
「約束は果たすぞ。それが――私の生き様だ」
伯爵は、係が連れてきた馬に自らルミナを乗せた。その後ろに痛みに耐えながら跨がり、手綱を握る。右腕だけで手綱を操り、左腕でルミナを支える。
「しっかり掴まっていろ」
「はい!」
ルミナは頷く。もう震えていない。この人の背中がある限り、怖くない。
「必ず、大クスノキへ……!」
短く吐き出す声は鋼のように固く、ルミナはその背にしがみついた。
二人を乗せた馬は、夜風を裂いて再び走り出す。折れた馬を置き去りにしても、誓いだけは置き去りにしない。
エルディアスは痛みに耐えながらも、手綱を握り続ける。血が流れ続けている。呼吸が浅い。だが、止まらない。
ルミナは前を見据える。青のリボンが風に揺れ、切りそろえた裾が翻る。小さな体が、大きな決意を抱いている。
――みんな、待っててね。今、行くから。
純粋な祈りが、夜風に乗って大クスノキへと届く。
それが、エルディアスという男の生き様であり、ルミナという少女の純粋さだった。




