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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第三章 大クスノキ襲撃

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守る街

大クスノキの街は、いつもなら夕餉の匂いで満ちる刻限に、焦げた油と鉄と汗の匂いへと裏返っていた。


昼には子らが石を蹴り、老人が軒で将棋を指し、女たちが井戸で笑い合った広場。今は倒れた屋台が盾になり、転がった樽が車輪を奪い、赤い液体が石畳の目地に溜まっていく。葡萄酒か血か、嗅ぎ分ける余裕のある者はいなかった。


領兵は角ごとに詰所を拠点にしようと試み、短い号令を飛ばすが、声は人波と炎のはぜる音にちぎられた。旅人の中には刃を持つ者、杖で殴る者、鍛冶屋の槌のまま立ち上がる者もいた。だが列は細く、すぐ途切れる。誰もが背後の家族、店、荷、明日の糧を背負っている。逃げる者の流れと、立ち向かう者の流れが交差するたび、通りは濁流のようにうねった。


鐘楼が遅れて鳴り始めた。一打、二打。間のびした金音は秩序ではなく、恐怖の輪郭を街に描く。犬が遠吠えし、鳥が屋根からばらばら飛び立つ。誰かが戸を打ちつけ、誰かが窓を釘で留め、誰かがその釘を見つけられずにただ祈る。




そのとき起きた最初の"崩れ"は、南の石橋だった。


橋の真ん中あたりで、乾いた音が二つ連なり、遅れて鈍い唸りが底から立ち上がる。足を踏み出していた襲撃者の靴裏が宙を掴み、十数の影が同時に空へ浮いた。水音。砕ける叫び。濁流の茶色が瞬く間に泡立ち、剣も兜も、名も、全部ひとつの色に呑まれた。


「……今、橋が……!」


最前の領兵が振り返る。誰も答えられない。ただ、前へ詰める敵の列が一度だけ痙攣する。その瞬間に、負傷者を二人、若者を一人、誰かが肩で担ぎ上げた。


屋根の上、でもいは小さな石を指で弾いた。


石は弧を描いて橋の継ぎ目――水の浸食で脆くなった一点に吸い込まれる。乾いた音。それだけで、石橋の均衡が崩れた。重みを支えていた要の石が割れ、連鎖するように橋全体が崩落する。


でもいは目を細める。構造の弱点を見抜く目。それが、でもいの持つ力だった。




北の倉並びでは、屋根が落ちた。


屋内に潜んでいた影が瓦礫と土煙に飲まれ、外にいた仲間は駆け寄る途中で次々と足を止めた。沈黙。次いでむせる咳。


領兵はその隙に路地の口へ樽を転がし、通りを細く区切った。


「こっちだ! 担げ、急げ!」


怒号が、かすかに指示へ変わる。ほんの数息分。だが、命には十分な幅だった。


屋根瓦の陰で、でもいは短く息を吐いた。


さきほど投げた石は、梁の腐食した継ぎ目――そこに当たった。ほんの小石一つ。だが、当てる場所さえ正しければ、建物は自らの重みで崩れる。長年の雨漏り、虫食い、歪み。街の傷を見抜き、そこを突く。小さな身体でも、構造を理解すれば、巨大なものを動かせる。




露店が密集する市場では、柱が一本、ぽきりと折れた。


屋根布が大きくたわみ、雨水を吐き出すみたいに火の粉と埃を吐いて、襲撃者の頭上へ落ちる。視界が奪われ、踏み絵のように踏み合いが始まる。その下から、子を抱いた母が、背を低くして這い出た。顔は煤で黒く、眼だけが異様に白い。


「こっちへ!」


名も知らぬ男が腕を伸ばし、母は子を先に渡した。手と手が一度で絡まず、二度目で掴む。掴んだ先へ、体が続く。


柱が折れた理由を誰も問わない。問えば、足が止まる。止まれば、今度こそ飲まれる。


でもいは次の石を拾う。柱の根元――地面との接点、そこが湿気で腐っている。そこに石を当てる。小さな衝撃。だが、柱は支えを失い、重みで自ら折れる。


魔法のように見える。だが、魔法ではない。街の呼吸を読む技術だ。どこが弱り、どこが歪み、どこが崩れるか。それを知っているだけ。




不可解な崩れは、別の通りでも連なった。


石畳の角が沈み、追いつめる側の足首をひねらせる。狭い路地の壁がわずかにこぼれ、瓦片が肩の骨に痛みを刻む。井戸端の滑車がほどけ、桶と綱が騒音を撒き散らす。


何もかもが、たった数歩、数秒、数人ぶんの余白を生んだ。その余白で、街は呼吸を繋いだ。


「街が……守ってくれてるのか」


誰かがぽつりと漏らす。


それは答えのない言葉だったが、耳に入った者の足に、ほんの少しの力を返した。返された力が、次の者の背を押す。押した背が、次の者の手を引く。小さな連鎖が、瓦礫の陰でいくつも芽吹いていた。


屋根の上、でもいはそれを聞いた。


街が守っている――違う。自分が街を使って、守っている。だが、そう思われるならそれでいい。名を出さず、顔を見せず、ただ結果だけを残す。


でもいは次の石を拾う。手のひらに収まる小石。それを、構造の弱点へ投げる。石畳の支えが削れた一点。壁の継ぎ目で水が染み込んだ箇所。滑車の綱が擦り切れかけた部分。


見える。すべて見える。街の傷が、でもいには見える。


小さな掌の爪は割れ、血が滲む。足首が痛む。だが、止まれない。また一つ、石を投げた。また一つ、構造が崩れた。また一つ、誰かが逃げた。


重いものは持てない。大人のように戦えない。だから、街に手伝ってもらう。小さな力で、大きな結果を生む。それが、でもいの戦い方だった。


「街が……応えてくれてる」


小さく呟き、でもいは次の屋根へ跳んだ。小さな身体は軽く、屋根から屋根へ跳ぶのに向いている。大人には真似できない道を、でもいは選ぶ。




だが黒い奔流は、止まらない。


崩れた列を自分で踏み固めるみたいに、彼らは前へ重なってきた。口の端から泡が糸を引き、眼は焦点を結ばない。痛みに反応するはずの筋肉が、別の合図で動いている。


「ひゃははははっ!」


笑う。血の味を笑うのか、倒れた者の体温を笑うのか、自分の心臓の速さを笑うのか。頬に裂けた傷口から息が漏れ、笑いは風笛のようにひゅうひゅうと鳴った。


「下がれ、持たんぞ!」


盾の列が押し返され、腕が痺れ、握りの皮がずるりと回る。槍の石突きが継ぎ目に噛まず、土に遊ばれ、刃が空を切る。押す音と、割れる音と、誰かの名を呼ぶ声。名は返ってこない。名は杭に結わえられたまま、夜に引かれている。


崩れは起き続けた。


鐘楼に繋がる細い階段。でもいは目を細め、一段だけを見つめる。そこだけ、雨水が染み込んで石が脆くなっている。小石を投げる。当たる。かすかな音。それだけで、階段の一段がぽろりと欠けた。


駆け上がる足が一瞬だけ躓く。その瞬間に、別の手が綱を掴んで鐘を鳴らす。金音が空へ飛び、遠い通りで別の誰かの耳を打つ。金は恐怖を数える音から、いつの間にか「まだ生きている」という合図へ聴き変わっていた。


誰も気づかない。小さな石が、正確に弱点を突いたことを。




「誰か、助けてくれ……!」


老婆が両手を組んで膝を折る。指は節くれ、爪は土で黒く、祈りの言葉は震えて千切れる。


「神でも、人でも、なんでもいい……!」


青年が背を壁に預け、折れた槍の柄で地を叩いた。叩く音が自分を叱咤する太鼓になり、歯の根を合わせる合図にもなる。


「お願い、どうか……」


母が子の頬を胸に押し付け、目を閉じる。涙は出ない。涙は水で、今は火が欲しい。火は暖かさではなく、前へ出る勇気のほうの火だ。


祈りは街のあちこちで自然に零れ、拾われ、重なった。誰も聖句を知らなくても、言葉は祈りに形を与える。名前を呼ぶ声、誰とも知らぬ誰かへ手を伸ばす声、空へ投げられて戻らない声。それらが鐘の音に混じり、夜気に漂い、家と家のあいだの闇に残滓を残す。


襲撃者はなお笑い、なお進み、なお倒れ、なお起きた。指の骨が曲がったまま刃を握り直し、膝が逆へ折れかけても足を出す。


「普通じゃない」


という言葉が通りで連発され、やがて言葉自体が役に立たぬ石ころみたいに足元へ散った。普通かどうかはもう、いずれにせよ関係がない。来るものは来る。だから守る。守れなければ、次に繋ぐ。それだけが、今は正しい。




その頃、孤児院の前は嵐の縁だった。


門は閉じられ、窓は内側から棒で押さえられている。外を駆け抜ける足音が土壁を震わせ、時折、門板へ蹴りが入る。だが本格的に破られる前に、足音は別の方向へ離れていく。


門の向こうの路地で何かが倒れ、怒鳴り声が逸れ、追う声が遠ざかる。


偶然。いや、偶然という名の技。でもいが投げた石が、路地の積み荷を崩し、襲撃者の足を止めた。


屋根の上、でもいは孤児院を見下ろす。中から、子どもたちの小さな祈りが聞こえる気がした。


「ルミナ……助けて……」


その名を、でもいも知っている。だが、今ここにいるのは自分だ。ルミナが来るまで、この場所は守る。名もなき影のままで。誰の礼も受けず、誰の恨みも買わず、ただ街の弱点を突いて、牙を折るために。


でもいは次の石を拾った。夜は長い。援軍まで、あと四つ半の鐘。鐘が鳴るたび、街のどこかで灯りが一つ消え、一つ点く。消えた灯の前では、人がうずくまり、点いた灯の内では、人が息を継ぐ。その差を、少しでも広げる。


それが今夜、でもいにできるすべてだった。

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