第1話 この傷は、魔物の爪ではありません
「この傷は、魔物の爪ではありません」
私がそう言ったとき、ダンジョン第十一層の空気が、少しだけ冷えた気がした。
岩壁に残った、三本の線。
深さはどれも同じ。間隔も、ぴたりと揃っている。
私はしゃがみ込み、鞄から黄色い番号札を一枚取り出して、線の真下に立てた。
――1番。
「灰原さん」
背後で、ため息が聞こえた。
「もういいよ。KAGAMIの判定、出てるから」
振り返ると、迷宮探索者協会DX推進室の木戸室長が、タブレットをこちらに向けていた。
ダンジョンの中だというのに、灰色のスーツに革靴。靴底には、泥ひとつ付いていない。
白い画面に、青い文字が浮かんでいる。
【事故解析AI KAGAMI】
【判定:事故(ハウンド種による襲撃)】
【確度:98.2%】
「九十八パーセント。分かる? ほぼ確実ってこと」
「はい。分かります」
私は二枚目の番号札を、床の血痕の横に置いた。
2番。
三枚目は、少し離れた足跡の前に。
3番。
「ハウンドの前足の指は四本です。内側の一本は短くて、壁まで届きません。だから残る傷は三本。そこまでは、KAGAMIの言う通りです」
「じゃあ合ってるじゃない」
「指の長さが、違うんです」
私は1番の札の上、三本の線を指でなぞった。
「生き物の指は、真ん中が長くて外側が短い。だから引っかき傷は、真ん中の線がいちばん深くなります。でも、この三本は深さが全部同じです。幅も、四・二センチで揃っています」
「……それが?」
「この傷を付けたものには、指の長さの違いがありません。爪ではない、何かです」
木戸室長は、無言で画面をスクロールした。
「でも、KAGAMIは九十八パーセントって言ってる」
「残りの一・八パーセントで、人がひとり亡くなっています」
言ってから、少し言い過ぎたかな、と思った。
思っただけで、撤回はしなかった。
亡くなったのは、二十歳の新人探索者だった。
遺体はもう地上へ運ばれている。この場所に残っているのは、彼が最後に見たものの痕跡だけだ。
それを読むのが、私の仕事だった。
「灰原さんさ。前から言おうと思ってたんだけど」
木戸室長は、タブレットを脇に抱え直した。
「事故調査課、今月で廃止になるから」
洞窟の奥で、水の落ちる音がした。
「KAGAMIの本格導入が決まってね。映像とセンサーの記録を入れれば、三分で判定が出る。灰原さんたちが一件に三日かけてたのが、三分。人件費は年間八割減」
「……そうですか」
「契約、今月末で満了ってことで。お疲れさまでした」
「今月末、というと」
「今日」
私は足元の番号札を見下ろした。
1番、2番、3番。
まだ、4番を置く場所を探している途中だった。
◇
迷宮探索者協会、事故調査課。
地下二階のいちばん奥にある、窓のない部屋だ。
机が四つ。そのうち三つは、もう空だった。
先輩たちは先月までに、別の部署へ移るか、協会を辞めていった。
段ボール箱に詰めるものは、多くない。
ルーペ。メジャー。紫外線ライト。七年分の調書の控え。
それから、角が丸くすり減った、古い鑑識鞄。
この鞄の持ち主は、私ではない。
志摩鉄二さん。
八年前、新人だった私に「現場の読み方」を一から教えてくれた人だ。
内ポケットには、志摩さんが使っていた番号札の束が入っている。
1番から20番まで。
ただし、17番だけが欠けている。
七年前、第二十八層の落盤事故で志摩さんが亡くなったとき、遺品の鞄から17番の札だけが見つからなかった。
――現場は嘘をつかない。嘘をつくのは、記録のほうだ。
志摩さんの口癖だった。
「あの……灰原さん」
顔を上げると、入口にひょろりと背の高い青年が立っていた。
首から下げた社員証に、「DX推進室 真壁瑛人」とある。
KAGAMIを作った人だ。
「すみません。僕のせいで、こんなことに」
「謝らないでください」
私は段ボールの蓋を閉じた。
「真壁さんのAIは優秀です。私が三日かかる仕事を、三分でやります」
「でも」
「ただ」
言うべきかどうか、少しだけ迷った。
「KAGAMIは、現場に来たことがありません。それだけです」
真壁さんは何か言いかけて、口を閉じた。
私は頭を下げて、部屋を出た。
◇
六畳一間のアパートに帰り着いたのは、夜の八時だった。
カップ麺にお湯を注いで、三分待つ。
KAGAMIなら、この三分で事故を一件、片付ける。
食べ終えてから、スマホを手に取った。
ダンジョンが現れて十八年。
探索の様子を配信するのは、もう当たり前になった。人気クランの配信には、毎晩何十万人もの視聴者が集まる。
協会の調書は、外に出せない。
でも、探索者たちが自分で公開した映像なら、誰でも見られる。
昨日の配信の中に、ずっと引っかかっていたものがあった。
中堅パーティ「灯火」の、第十四層の探索配信。
三時間の映像の、二時間十二分あたり。カメラが曲がり角を横切ったとき、画面の端に、岩壁の傷が一瞬だけ映る。
一時停止して、拡大する。
三本の線。
深さが揃っている。
幅は、画面に映った剣の柄と比べて、およそ四・二センチ。
私はしばらく、その画面を見つめていた。
それから、一度も使ったことのない配信アプリを開いた。
タイトルを、一文字ずつ打ち込む。
【迷宮鑑識】事故現場の読み方 第1回
配信開始のボタンを押す。
画面の右上に、数字が出た。
同時接続:0
「……こんばんは。元・迷宮鑑識官の、灰原です」
誰もいない画面に向かって、私は頭を下げた。
「今日は、ダンジョンの壁に残った傷の読み方を、お話しします」
灯火の映像を画面に映し、傷の位置に、黄色い番号札の画像を重ねる。
1番。
同時接続:1
コメントは、流れない。
画面の向こうの誰かは、黙って見ている。
同時接続:2
コメントが、ひとつ流れた。
『誰?』
「灰原です」
『地味すぎて草』
「この傷は、魔物の爪ではありません」
私は今日、第十一層で話したのと同じ説明を、もう一度した。
指の長さ。深さ。幅。
それから、この層で確認されている魔物の一覧を、画面に出す。
「第十四層で確認されている最大の魔物は、ハウンド種です。体長一・二メートル。爪の幅は、最大でも二・八センチ」
番号札の横に、数字を書き込む。
「四・二センチの傷を残す魔物は、第十四層には記録されていません。この層には、記録にない何かがいます」
『ネタ配信?』
「いいえ。本気です」
私は、小さく息を吸った。
「灯火の皆さん。もしご覧になっていたら、明日の第十四層の探索は、中止してください」
返事はなかった。
当たり前だ。見ているのは、二人だけなのだから。
十五分ほど話して、配信を終えようとしたときだった。
新しいコメントが、ひとつだけ流れた。
『あの傷、メンバー全員で配信を見返しても、誰も気づかなかったのに』
『なんで分かったんですか』
投稿者の名前は、「灯火_犬飼」。
灯火のリーダー、犬飼颯さんだった。
『明日の十四層、やめます。仲間を説得します』
「……ありがとうございます」
声が、少し震えた。
画面の数字は、まだ二のままだった。
それでも、二人のうちの一人に、届いた。
◇
配信を切ったあと、私はスマホの写真フォルダを開いた。
今日の昼、第十一層で撮った一枚。
解雇を告げられる直前、最後の仕事として記録した写真だ。
1番の札の上に並んだ、三本の線。
その隣に、灯火の映像の、第十四層の傷を並べる。
深さが同じ。
間隔が同じ。
幅は、どちらも四・二センチ。
第十一層の事故に、KAGAMIは「ハウンド種」と判定を下した。
第十四層では、そもそも何も起きていないことになっている。
私は鞄から、黄色い番号札を一枚取り出した。
机の上、二枚の写真のあいだに、そっと置く。
4番。
ようやく、置く場所が見つかった。
第十四層の傷は、遅くとも昨日にはあった。
第十一層の傷は、今日。
三つ上の階層へ、長くても一日で。
それは、地上に向かって登ってきている。




