お兄さんって、オトナっぽいですよね
夏希ちゃんの胸のふくらみをチラ見していたことがバレてしまった俺は、主導権を完全に彼女に奪われてしまっていた。
夏希ちゃんは、ソファに座ったまま俺にいたずらっぽく言い寄ってくる。
「お兄さんって、オトナっぽいですよね」
初対面の女子高校生に、俺は問い詰められている。
こんなことよくやれるよな、この子。いや、俺が弱すぎるのか?
「そ、それがどうしたんだよ」
俺は自然と、目をキョロキョロと右にやったり左にやったりしてしまう。
「オトナは、子供の身体になんて興味ないですよねえ?」
彼女の顔がジリジリと近づいてくる。
透き通る肌に、ぱっちりと大きな丸い目。この子、顔が強すぎる。
俺が女の子の顔をこんなに間近で見たことがあるのは、満員電車だけだ。あと一応妹も。
妹といえば、明美はいつになったら戻ってくるんだ?
あと十五分ぐらいか?
こんなところ見られたら、終わりだぞ、俺。
とりあえず、抵抗しないと。
「な、何が言いたいんだよ」
目を見て話すのは難しいが、せめて語気を強めて返してみる。
「さっき、アタシのおっぱい、見てたじゃないですか」
「みみみ、見てないよ」
いや、見てたのは本当なんだけど、馬鹿正直に「見てました」って言うやつはいないだろ。
というか、見てたっていっても一瞬だけだったのに、なんでバレてるんだよ。
まいったな、完全にペースを握られてしまった。二回表、先発投手の俺は早くもマウンドを降りたくなってしまった。
動揺した俺は、とりあえず手に持っていた缶ビールを、すぐ近くのテーブルの上に置いた。
「オトナが子供の身体に興味ないなら、アタシはオトナってことで良いですか?」
「さっきから何言ってるか分からないんだけど……」
夏希ちゃんはソファに座っている俺に、横からどんどん近づいてくる。
彼女の膝がソファを沈めると、俺の身体も少し傾く。
俺が横に逃げても、追いかけてくる。
何度も、何度も。
俺の肩が壁にぶつかったことに気づいた。
ついに、俺は壁際まで追い詰められてしまった。
彼女の長い髪が肩から落ち、俺の首をくすぐる。
こんな可愛い子が、俺に近づいていい距離じゃない——
そんなことを思っていると、夏希ちゃんは、大きな目を半分閉じて、口を開いた。
「アタシ、早くオトナになりたいんです」
そう言って、彼女は自分の唇を舌でペロリと舐めた。
な、何を言ってるんだこの子は。
オトナになりたいって。それって、まさか、まさかな。
俺の目の瞬きが止まらない。呼吸がしづらい。
目のやり場に困るどころか、目のやり場がない。
右を見れば、ソファの背もたれに置かれた手。
左を見れば、ソファの肘掛けに置かれたもう片方の手。
下を見れば、制服のスカートと細い太もも。
上を見れば、マスカラをした長いまつ毛の奥の茶色い瞳。俺を狙う、妖艶な女豹のような顔。
見慣れたはずの天井が、何度昼寝したか分からないこのソファが、会ったばかりの彼女に支配されてしまっている。
「お、俺……酒臭いよ?」
混乱した俺は、わけもわからず、思ってもないことを口走ってしまう。
——リビングが沈黙に支配された。
あれ、俺いま何でこんなこと喋っちゃったんだ?
夏希ちゃんは、時間差で「ふっ」と鼻を鳴らした。
「ふふっ。あはっ。あははははっ!」
彼女は、腹を抱えて大笑いし始めた。
「な、なんだよ。そんなに笑わなくたっていいじゃないか」
夏希ちゃんはソファに座り直して、「ひー」とか言いながら深呼吸をし、笑いを落ち着けていた。
ハの字に寄せた眉で俺を笑う彼女を見て、思った。
夏希ちゃんほどの可愛い女の子が、俺みたいな大学デビューをしそこなった——というかしようとすらも思わなかった俺に近づいてくるなんて、おかしいと思ってたんだ。
「お兄さんのことが気になってる」とか、「オトナになりたい」とか、そんなの全部、俺のことを面白がってるだけなんだろ。
まだニヤニヤ笑っている彼女は、口元に手を当てて、俺の方を向き直って話しかけてきた。
だから、その人を揶揄うような目つきをやめてくれないかね。
「お兄さん、アタシに何されると思ったんですか?」
「し、知らないよそんなこと!」
俺は緊張して、声が上ずってしまった。
やべ、声でかすぎたかな。
再び、リビングが沈黙する。
春なのに、暑くなってきたぞ。
夏希ちゃんは一瞬固まったあと、目を丸くして、慌てて話し始めた。
「ご、ごめんなさい。失礼ですよね、こんなこと。とっくに怒られてもおかしくないのに。つい……」
「い、いや、なんというか……退屈にされるよりは……ちょっと揶揄いすぎじゃないかとは思うけど」
「許してくれるんですか?」
「ま、まあ。険悪な感じにはなりたくないし。妹の友達と」
「……優しいんですね」
急に褒められてビックリした俺は、夏希ちゃんの顔を見る。
薄い唇で優しく微笑む表情を見るに、冗談ではないみたいだが、本当に褒められるようなことなのだろうか。
「え? 何でそうなるの?」
「アタシって、相手がどう思ってるかあんまり考えずに、やりたいことやっちゃうんですもん。いっつもそう。今も、お兄さんが嫌がってそうだったのに」
「……俺も、その勇気と元気が欲しいよ」
「ふふっ。……やっぱり優しいじゃないですか」
「よく分からないな」
「アタシが自分のことを否定しても、今みたいに肯定してくれるじゃないですか」
「優しくなんて、ないよ……君には、妹と仲良くして欲しいだけだし……」
「優しいです、よっ」
手をついた俺の小指の爪に、夏希ちゃんは小指を重ねてきた。
ソファに置いた手が軽く沈みこむ。
なんかもう、ソファが沈むとドキドキする癖みたいなのが、ついてしまいそうなんだけど。
ただでさえ初対面の女の子と話して緊張しているのに、急に距離を詰められて、いきなり褒められて。
なんか香水もつけてるみたいだし。これ以上、俺に近づかないでくれ。頼むから。
俺は君をどういう目で見ればいいか分からなくなってくるんだよ。
「ちょ、ちょっと、近いよ」
「えー? 恥ずかしいんですか?」
「そ、そりゃそうだよ」
「なんでですかぁ?」
「そんなの、君が……えっと……」
「んん?」
「……か、可愛いからだろ」
「え〜? 嬉しい〜! また褒めてもらっちゃったぁ!」
「わ、分かってて言わせただろ」
「そうです〜、分かっててやってます〜♪ 」
この子、さっき俺が嫌がってないか不安になってたんじゃないのかよ?
完全に調子に乗られている。『ただし美少女に限る』ってやつだぞ、こんなことは。
夏希ちゃんは再び、ずいっと近寄ってきて、追撃してくる。
「ねえねえ、アタシのこと可愛いって思うんだったらぁ〜? ねっ?」
肩と肩が当たる。
思わず肩を引く。
それでも追いかけてくる。
そして、俺の腕に、ポヨンと柔らかいものが当たった。
ま、まずい。ちょっと、もう無理。さすがに。
陰キャはここでマウンドを降りさせてください。二回表を投げきれず、降板です。
もう今すぐにでも逃げ出したい。でも、ドキドキして緊張して、動けない。脇から冷や汗が止まらない。
と、とにかく話をそらそう。
「こんなところ、明美に見られたらどうするんだ」
「まだ全然戻って来ませんよ?」
「い、いや、そもそも、見られなくたってな。こんなのは、ダメだろ」
夏希ちゃんは、追撃をやめない。
俺の耳元に顔を近づけてきた。
俺の耳に、彼女の鼻がかすかに当たる。あたたかい吐息が、耳をくすぐる。
そして、囁かれる。
透き通った声が、俺の鼓膜を叩いてきた。
「バレなきゃ、大丈夫ですよ?」
俺はその言葉を聞いた瞬間、急に冷静になった。
彼女のペースに飲まれ、大事なことを忘れていた。
——もし妹の明美に、このことがバレたら?
明美はショックを受けて、この家に居場所がなくなってしまうかもしれない。もしそうなってしまったら……。明美は、まだ高校一年生になったばかりなんだ。
「バレたときのことを考えろよ……」
「そんなの、その時に考えればいいんですよっ」
ああ、この子は、お痛が過ぎるかもしれないな。
「そんなお気楽な考えだと、明美を悲しませるぞ」
俺はソファから立ち上がりながら、キッパリとそう言った。
「えっ……」
戸惑う夏希ちゃんを置いて、俺はリビングを去ることにした。




