第百九十七話 クレベール王子と笑顔
王国歴224年5月中旬
ケンがピオニル領に戻る数日前のことである。
クレベール王子はフルローズ国への旅程として主街道の東回りを選び、その途中でピオニル領に立ち寄った。
ユーキは大歓迎して邸に迎え、数日の滞在を望んだが、クレベール王子は先を急ぐからと一夜の宿だけを求めて宴席等は固辞した。ユーキとしては残念であるが止むを得ない。せめてものことをと、応接室でアンジェラの淹れた飛び切り美味しいお茶を飲みながら、ピオニル領の監察を共にしたベアトリクス・ディートリッヒを加えてその時の思い出話などを語り合った。
そこへ領主補佐のフェリックス・ヴァイツがクレベール王子への伺候を求めに現れた。クレベールはそれに応じて同席を許し、気軽に声を掛けた。
「ヴァイツ卿、久し振りだな」
「殿下、どうぞフェリックスとお呼び捨て下さい」
「では、そうさせてもらおう」
「有難うございます。はい、殿下が受けられた内政の講義に陪席させていただいて以来と存じます」
「そうだったか。随分以前のことになるな」
「御無沙汰を致し申し訳なく思います」
「気にすることはない。日に焼けて良い色の顔だな。元気そうで何よりだ。この地で随分活躍しているという噂は聞いているぞ」
「畏れ入ります。貴族らしからぬ顔の色ではありますが、ユークリウス殿下に御指導いただきながら、外回りをのびのびとやらせていただいている賜物と内心誇りにしております」
笑顔と明るい声での返事に、クレベールは驚いた。
この男、以前は青白い色の顔の眉根に皺を寄せてせかせかとしていて、笑顔など見せなかったのだが。難しい顔をして常に黙って何かを考えているのが偉いと思い込み、理と知では誰にも負けぬと他を見下げていた男が、見違えるような変わりようだ。
「それは結構だな。随分と幸せそうにみえるが」
「そうですね。国王陛下とユークリウス殿下の御信任をいただき、興味深く働き甲斐がある仕事に安心して全力で取り組める。自分で自分の背中に重しを載せていた以前には感じられなかった喜び、それを得られる幸福を沁み沁みと噛み締めております」
フェリックスが顔を綻ばせて答えると、ユーキがこれも笑顔で嬉しそうに口を挟んだ。
「フェルは最近、良く笑うよね。ここに来たばかりの頃はずっと苦虫を噛み潰したような顔をしていたけど」
「否定できないですね。ユークリウス殿下の御様子を拝見していると難しい顔をしている自分が馬鹿らしく思えてきまして」
「フェル、それはどう言う意味かな?」「興味深いな。フェリックス、私としても是非聞かせて欲しいものだな」
「それは、それぞれの御想像にお任せしたいと思います」
フェリックスが澄まし顔で言うと、クレベールもユーキも愉快そうに笑った。フェリックスも一緒に笑った後に、真面目な顔に戻って付け加えた。
「実際に、笑顔でいた方が仕事が進むように思えます。相手がいる場合は特にそうですね」
「なるほどね。フェルが笑顔で皆を幸せにして、それで皆の仕事が楽しく進むわけだね」
ユーキが感心したように言う。
クレベールもフェリックスもベアトリクスもそれを聞いた途端に心の中では「(それは貴殿だろうな)」「(それは貴方のことです、殿下)」「(それは殿下ですわ)」と同じ感想を抱いたが、口には出さない。その代わりにクレベールが少しお道化た調子で言った。
「それは良いことを学んだ。私も真似をさせてもらうことにしよう」
「翳のある美男子として名高い殿下が意外な笑顔を見せられたら、悶え狂う令嬢が続出するでしょうね。各家の平和のために、控え目になさるのが良いと思います」
空かさず、またも澄まし顔で口を挟むフェリックスに、クレベールは「ううむ」と唸った。
「貴公、本当に変わったな。王族を揶揄えるようになるとは、驚いた」
「殿下、私は最近フェルに毎日のように揶揄われています。こういうところは前のままでいてもらいたかったです」
ユーキがクレベールに同調しても、フェリックスは動じない。
「申し訳ない事ではありますが、ユークリウス殿下の御膝下で御薫陶を受けるうちに開花した才能ですので、お叱りは受けかねます」
平然と返され、ユーキも苦笑するしかない。
クレベール王子が安心したようにフェリックスに言った。
「フェリックス、どうやらこの地に腰を落ち着けて、領政に身を入れていると見たが」
含み笑いで言うその顔を見て、フェリックスはスタイリス王子の弟であるこの王子の言葉の意味をすぐに覚った。
「はい、あれこれと忙しくやらせていただいています。王都に戻る時間はなかなか取れそうにありません」
「結構なことだ。私の兄が貴公の講義を楽しみにしていたが、空望に終わりそうだな」
「御兄君には御期待に応えられず、申し訳なく思っております」
「いや、気にすることは無い。ここで全力を尽くすことこそが国王陛下の御心に適い、貴公にとっても将来の大きな糧になるだろう。脇目を振る時では無かろう」
「はい、お心遣い有難うございました」
フェリックスはそう礼を言い、クレベールと目配せを交わしてから続けた。
「今後も、ユークリウス殿下の御膝下で御指導を受け続けることが、今の私の希望です」
「それが良かろうな。要らぬ重しを負わぬ幸せか。私もこれからはそれを存分に味わわせてもらうとしよう」
クレベールが片側の口角を上げて見せる。ユーキとフェリックスが曖昧に微笑んでも、クレベールは気にせずにフェリックスに向かって続けた。
「私もいつかは貴公のような配下を得たいものだ。それを楽しみに、フルローズ国に赴くことにしよう」
満足そうに言ったその言葉を聞いて、今まで静かに微笑んで会話を見守っているだけだったベアトリクスが口を挟んだ。
「失礼ですが、クレベール殿下」
「何かな、ディートリッヒ嬢」
「殿下が彼の国でお求めになられるのはなかなか言うことを聞かぬ配下ではなく、もっと美しいものだとのお噂ですわ。その時にこそ、御笑顔を御存分に発揮されるべきかと」
ベアトリクスの澄まし顔をまじまじと見たクレベールが、ユーキに向き直って呆れ声で言った。
「ユークリウス殿下、フェリックスが揶揄に目覚めた原因がわかったぞ」
「お察しの通りです。御理解いただけて幸いです、殿下」
「右から、左から、か。何と言っていいかわからないのだが。……まあ、あれだな。頑張れ」
「……励みます」
翌朝、クレベール王子は供の者を引き連れて爽やかな笑顔でユーキの邸を出立した。ただ、領境まで騎馬を並べて見送ったユーキを最後に呼び寄せて耳元で囁いた時だけは真剣な面持ちだった。
「私を急に国外に出したのだ。国王陛下はすぐにでも次の手を打たれるだろう。気を緩めぬことだ。フルローズ国のことは引き受けた。ユークリウス殿下、国の中は貴公と可憐な婚約者殿に任せたぞ」
そう言うとクレベール王子はユーキの胸を拳で軽く叩いて愉快そうに声を上げて笑い、晴れやかな顔でフルローズ国を目指してクリーゲブルグ辺境伯領へと消えて行った。




