第百三十五話 ケンとアリエッタの剣
承前
ユーキを追ってローゼン大森林に分け入っていたのはケンだった。
ユーキがクルティスと共に出掛けた直後にクリーゲブルグ領からの便が着き、領主のクリーゲブルグ辺境伯からユーキ宛の書簡が届けられた。
辺境伯は前領主が違約を犯したその当の相手であり、国王の裁断は下ったが領主同士での直接の決着と和解はまだ行われていない。書簡の到着をユーキ殿下に速やかに知らせなければならないが、殿下の行先がローゼン大森林とわかると全員が躊躇った。
ユーキ殿下が時折大森林に入っていることはクーツやアンジェラ、フェリックスやベアトリクスたちは知っているが、随行するのはクルティスだけ、それも森の傍までである。他の者は皆、黒く深き魔の森には近付きたくもないのだ。
領間の訴訟に関するであろう重要な書簡が着いたことは一刻も早く知らせる必要があるとわかってはいるが、皆、顔を見合わせるばかりで、帰ってくるのを待ちたいという雰囲気を漂わせている。
ケンはその話を聞いて呆れた。
ローゼン大森林からは遠く離れた山奥のネルント開拓村育ちのケンは、魔の森の噂を良く知らない。魔が棲むと言われても、ただの迷信としか思えない。それよりも書簡のことをユーキ殿下に早く知らせることが大事だ。
それに、村からの訴えを取り次いでいただいたことの感謝を辺境伯閣下に直接に伝えることを、殿下にお願いもしたい。
そう考えてケンが知らせの役を買って出ると皆はほっとした顔になったが、同時に心配げでもある。ケンは笑って「大丈夫ですから」と言い置いて邸を出て、ローゼン大森林への道を走った。
ローゼン大森林の側では、クルティスが馬を立ち木に繋いで、一人で剣の型稽古をしていた。
ケンは立ち止まり、乱れた呼吸を整えながら声を掛けた。
「クルティスさん、殿下はどちらに?」
クルティスは剣を振る手を止めなかった。ケンの方を見もせず、そのまま稽古を続けながら、声だけで応えた。
「暫く前に、森に入って行かれた。何か用事?」
「クリーゲブルグ閣下からお手紙が届いたそうなので、お伝えに」
「じゃあ、ここで待ってればいいんじゃないかな。多分、遠からず出てこられると思うし。何だったら、一緒に稽古しながら待っていれば?」
「いえ、急いだほうが良いと思うので、捜しに行きます。殿下の御馬の足跡を辿れば大丈夫だと思うので」
それを聞いて、クルティスは稽古の手をぴたりと止めた。ケンに真っ直ぐに向き直ったその顔が真剣なものに変わっている。
「行くのは構わないけど、この森は大切にして樹を傷付けたり汚したりしないように。それから、誰かに出会ったら、妖魔様だと思って敬し奉って逆らわないようにすること。そうしないと、出てこられなくなるかもしれない」
「クルティスさんは妖魔の伝説を信じているんですか?」
ケンは驚いて尋ねた、クルティスさんには剣術を教わっているから知っている。武術の達人だ。その人でも、やはり妖魔の話は怖れるのか。
「俺には良くわからない。けど、ユーキ様にそうするように命じられているから。後、ヴィオラ様とその友達の小煩いのにもそう教わった。この領の人たちがこの森を畏れ奉って立ち入らないようにしているんだから、それを無下にしない方が良いとも思うし。それに、敬って困ることがあるわけでもないから。そうだろ?」
なるほど。言われてみればそうだ。わざわざ森を汚す必要も無い。現在の剣の師匠の言葉でもあり、ケンは素直に従うことにした。
「わかりました。そうします。森の中に道はあるんでしょうか」
「うーん、俺はもっと北の方でユーキ様と一緒に一度入ったことがあるだけだから。ユーキ様はいつも無造作に入って行ってるからなあ。行けばわかるんじゃないかな。もしシュトルツの足跡がわからなくなったら、すぐに引き返してきた方が良いと思う。気を付けて」
そう言ってまた剣を振り始めたクルティスに「はい」と返事をすると、ケンは彼から離れて森の縁に立った。
樹々は鬱蒼と茂り、中を覗くと昏い。見上げると何本もの大木が風でその身を大きく揺らしながら圧し掛かってくるようで、気圧されてしまう。妖魔が棲むというのも強ち嘘ではないのかも知れないと思えてきて、自然にケンの頭が下がった。
「入らせていただきます」
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「あらあらあらー」
森の中の湖面を退屈げに揺蕩っていた、碧い髪の女がいきなり奇声を上げて水を撥ね上げた。
驚いた水鳥が一斉に羽搏いて逃げ惑う。その羽音を気にする様子もなく、女は岸辺に向かって抜き手を切って急いで泳いだ。
「久し振りの良い男じゃない。今ならローゼンは領主君と一緒にアイヒェの所でおしゃべりに夢中で気付いてないみたいだから、邪魔されないし。どうやら領主君の臣下らしいけど、ちょっと揶揄うぐらいなら構わないでしょ。ウンディーネの魅力を存分に発揮してメロメロにして見せてあげるから。みんな、手を出しちゃ駄目だからねー」
女の嬉しそうな言葉に応えて湖に波が立ち、樹々が揺らいだ。
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ケンはユーキ殿下の愛馬シュトルツ号を追って森の中を進んだ。
外からは薄暗く見えたが、暫く進んで目が慣れてくると意外に明るく、地面も柔らかくはあるが足元を遮る蔦や茂みは少なく歩きやすい。目当ての蹄跡もくっきりと付いており、ずっと途切れずに続いている。
先を急ぐとやがて目の前が開けて湖の畔に出た。
辺りを見回すと、立木に繋がれた月毛のシュトルツ号がいた。のんびりとして、草をもさもさと食んでいる。殿下がおられる気配は無い。足跡を捜すと、湖の岸辺に沿って再び森の中へと入っている様だ。それを追ってケンがさらに進もうとした時、いきなり珍妙な声が聞こえてきた。
「らっららー、らーららっらー」
響いた調子っ外れの声の方を見ると、湖岸に生えた大木から水面擦れ擦れに迫り出した太い枝の上で、背の高い女性が俯せに寝そべって湖面を見下ろし、片手を差し伸べて水面を弄っている。
碧い長い髪が時折風に流れて湖面に落ち掛かりそうになるとそれを細い指で大きく掻き上げ、その度に白く細いうなじが曝される。透けそうで透けない白い薄物の服の裾からは、これも真っ白い両の脛が伸び、声に合わせて左右交互にゆっくりと曲げ伸ばしされている。その動きで腿がちらりちらりと覗いては隠れ、煽情的なことこの上ない。恰も女性の美しさを讃えて描かれた一幅の名画のような光景に、年頃の男ならば心奪われてしまうのも仕方がない。
但し。
「らーらーらー、らーらららー」
声が無ければ、だ。
「この清きー水面に映るー、儚くーも美しいー、女性はいーったい誰かしらー。らーららー、世ーにも美しいー、この世でもっとーもー美しいかもー」
ぶち壊しである。
これは、歌、だろうか。声そのものは澄み渡って綺麗なようにも思えるが、調子はがたがた速さもばらばらで、歌と称していいのかわからない。その上に音程も合っていない。というか、どういう戦慄、もとい、どういう旋律なのかもわからないので、音程が合っているかどうか誰も判定できないのだが。
この聞こえるものが旋律であるならば、はっきり言って、汚い。綴られている内容も、詩とか詞とかの言葉を用いてはその筋から抗議があって然るべしだろう。酷い歌もあったものである。この女が何者かは知れないが、仮に妖魔であってもセイレーンやローレライではないことだけは断言できる。
だが、女は只管気持ち良さそうに歌っており、湖面に映る己が姿を見てうっとりと、陶酔に浸っている様だ。
ケンはそちらに近付いて行って声を掛けることにした。ユーキ殿下の行先を知らないか尋ねるためが半分で、この騒音を止めてもらうのが四分の三である。
「あの、そこの女の方」
「らららー、この美しいー女性は誰かしらー」
女はこちらに向こうとしない。その代わりに声がケンの呼び掛けに被せるように大きくなった。『美しい』のところは特に強い。気が付かない振りをしているのが明らかだ。
やはり女性は苦手だ。
ケンはネルント開拓村のマリア姉ちゃんを思い出して深い溜息を吐きそうになった。子供を産み、もう『姉ちゃん』と言う齢ではなくなっても、『マリア小母ちゃん』と呼ぶと竜が火を噴いたかのような勢いで怒られた。
面倒臭いが、相手の期待を上回っておいた方が後々が楽になるのだろう。
「あの、そこの若く美しく儚げな女性の方」
声をそれらしく作って言うと、女はやっとその緑味掛かった水色の瞳を嬉しそうにこちらに向けた。
「あら、『若く美しく儚げな』って、私のことかしら」
「はい、ここには貴女のように若く美しく儚げな方は他にいません」
「まあ、嬉しいことを言ってくださること。それは世界で一番という意味かしら?」
「それはわかりません。俺は世界中の女性を見たわけではないので」
「では、貴方の知る限りで?」
少し執拗いのではなかろうか。ケンは飽きてきた。
「はあ、会った限りにおいては」
有りの儘を告げると相手の声から少し力が抜けたのを感じ取ったのだろう、女はちょっとムッとしたようで、眉間に小さく皺を寄せた。
「あら、では、もっと美しい女性を聞いたことがあるとでも?」
「はい。私の主は、婚約者の方を世界で一番美しいと思っておられます。仕える私としてもそれを信じております」
ケンの淡々とした言葉を聞いて、女は鼻白んだ。
「そう、素晴らしい忠臣振りね。主が聞いたら喜ぶでしょうね」
少々機嫌を損ねたようで失敗したかなとケンは思ったが、取りあえず騒音は消えた。
最大の目的を果たしたら、次はもう一つの用を済まさなければならない。
目の前にいるのは見た目嫋やかな美女だが、妖しげなこの森の奥でそんな恰好で平気な顔をして遊んでいる以上、只の女ではない可能性が高い。クルティスさんが言っていた通りに妖魔であるなら、関わりは少ない方が良い。こちらから声を掛けておいてこう言うのも何だが、触らぬ妖魔に呪い無しである。早く尋ねてこの場を離れよう。
「実はその主を捜しているのですが。この森に入ってきたと思うのですが、お見掛けになられませんでしたか?」
「どんな人?」
「金褐色の髪で、背は私より少しだけ低いです。顔は……」
「少し甘め。童顔っぽいけど、きりっと引き締まった顔付きの、良い男?」
「はい、その方です。どちらへ行ったか御存じですか?」
それを聞いて、女の顔が残念そうになって黙り込んだ。
「……(ふーん。案の定、あの子の家臣か……。じゃあ、湖に引っ張り込んだらローゼンに怒られちゃうわね。ちっ、久々の若くてあたし好みの凄く良い男なのに。あー、勿体ない。腹立つから、ちょっと遊んであげようかしらね)」
「あの?」
ケンに声を掛けられて、女は我に返った。
「あ、あら、失礼。ええ、見ましたわよ。あちらの方へ行かれました」
女は手を上げて森の奥の方を指し示した。だが、その手は定まりなくふらふらぐらぐら動いていてどこを指しているのか良くわからない。
「ええと、あちらとは……」
「あちらね。この指の差す方」
やっと女の手が止まった。と言っても、その手は一杯に拡げられていて、五本の指が五本とも違う向きを指している。
ケンが顔を顰めると、女は急いで人差し指以外を閉じた。しかし一本残ったその指がまたくるくる回っている。どうやらまともに答えるつもりはなさそうだ。ケンが諦めて「有難うございました」と言って立ち去ろうとすると、女は慌てて「お待ちなさい」と引き止めた。
「わかり難くて、ごめんなさい。でも、この森は道が細くて見え辛い上に、あちらこちらで別れているの。案内も無く行くと必ず迷ってしまいます。お一人で行くのはお止しなさい」
「ですが、急いで伝えなければならないことがあるのです」
「ならば猶更。行き違いになっては、反って会うのが遅れますわ」
確かに、それはそうかも知れない。だが、ここでじっと待っていても埒が明かない。それなら森の外で待っていても同じことだったろうし。
「いいえ、ここで帰りを待つ方がきっと早いですわよ。あたしが一緒に待っていて差し上げますから」
そうだろうか。
ケンが考え込んでいると、女が話し掛けてきた。
「さっき、主の婚約者がどうとか言ってたけど、貴方はどうなの? お相手はいるの?」
いきなり言葉遣いが崩れ、不躾な問い掛けにケンは驚いた。この女、一体どういうつもりだ。いや、そもそも何者なのかもわからないのだが。
「いいえ、おりません。衛兵としての修行で手一杯で、それどころではないので」
「ふーん、いないんだー」
女は急に馴れ馴れしくなってきた。ニヤニヤと嬉しそうに笑いながらじりじりと近付いてくる。
ケンは思わず後退りしながら尋ねた。
「あの、貴女はどなたですか? ここで何をしているんですか?」
「あらー、自分は名乗りもせずに女性の名を聞いちゃうんだー」
「失礼致しました。私はケン・ジートラーと言います。ピオニル領の領主様に仕えている者です」
「ふーん、ケン、か。いい名前じゃない」
「有難うございます。貴女の名は?」
「そうね、アリエッタって呼んで」
「アリエッタ様、貴女は何者なんですか?」
「何者かしらねー。というか、何者だと思う?」
そう問いを放つと、アリエッタと名乗った女はさらに素早く、水馬が水面を跳ねるように近寄った。蛸が触手で貝を捕らえるように躱す間も無く手を伸ばしてケンの身体を引き寄せ、有無を言わさず撫で回し始めた。肩に置いた手を腕に滑らし、胸を擦り、背中に回しては腰に下ろす。相手が身動ぎしようが体を捻ろうがお構いなしだ。
いくら美女の柔らかい手とは言え、気持ち良いとは言い難い。かといって、得体の知れない相手を邪険にして怒りを買ってはならない。今の身の熟しも普通ではない。多分、というか、きっと妖魔なのだ。
「只者でないのはわかります。その手を止めてもらえませんか?」
「だーめ。何者だか当てたら止めてあげる」
「ス、淫魔か何かとしか思えません」
「うふふ、はずれー。残念でしたー。あの子たちはこんな人の少ないところにはいませーん。確か、王都にいるはずよ。夜な夜な、あっちこっちの寝室にお邪魔してイヤらしい夢を啜っているわ」
「でもやってることは淫魔と大して変わらないんじゃ……」
「あら、失礼しちゃう。ちょっと体付きを確かめてるだけじゃない」
そう言いながら、アリエッタはケンの腰に両腕を回して抱き着いてきた。ぴったりと密着した体の柔らかさにどきっとして、ケンは思わず女を両手で突き放した。
「きゃっ」と声を上げて女が離れる。その途端にケンは身体に違和感を覚えた。腰が軽い。気が付くと剣が剣帯から外され、女の手の中にある。
ケンの顔が真っ青になった。今日は、朝に殿下に挨拶する時に着けた父の形見の剣を、そのまま帯びていたのだった。
「お前、盗賊か!」
「あら、怖い。違うわよ」
「返せ!」
ケンが慌てて手を伸ばすと、アリエッタはひらりと身を翻して逃げ出した。
「待て!」
ケンが追い掛けると、アリエッタは嬉しそうに走る。
「きゃー、やっぱり、美女は良い男に追い求められちゃうのよねー」
勝手なことを放きながら、キャーキャーと声を上げ剣を右手で頭上に掲げ左手は薄物の裾を持ち上げて、時に振り返ったりくるりと回ったり、楽しげに逃げる。ケンが懸命に走っても、捕まえられそうになるとあと一歩のところで不思議に遠ざかって追い付けない。
必死に追ううちに湖の岸辺に近付いたところでアリエッタが石に躓いた。蹌踉けて遅くなったところを見逃さず、ケンは一気に飛び掛かった。
アリエッタは「あーれー」とあざとい悲鳴を上げるとケンと縺れあい抱き着き合いながら倒れ込む。その拍子に剣は手から離れ、放物線の弧を描いて湖の方へと大きく飛んだ。
「あ」
「あっ!」
ケンは急いで顔を上げたが、大きな水音が上がって消えた後はただ水紋が円く広がっていくだけである。急いで立ち上がって飛び込もうとしたが、後ろからアリエッタがケンの腰にしがみ付いて引き留めた。
ケンは振り返って怒鳴り付けた。
「俺の剣をどうしてくれるんだ!」
亡き父と、そして主であるユーキ殿下との絆の剣である。妖魔がどうこうの場合ではない。噛み付かんばかりの剣幕に、アリエッタはさすがにばつが悪そうな顔をした。
「ごめんなさい。おふざけが過ぎたわ」
「放してくれ!」
「駄目よ。この湖は急に深くなってるの。貴方、泳いだことなんて殆ど無いんでしょ? 溺れちゃうわよ」
「構わない。剣を拾いに行く」
「それはあたしが行くから。ここで待っていて」
そう言うとアリエッタは立ち上がり、湖面に身を投げた。これまた不思議なことに水音が上がらない。
手で一度水を掻いただけで剣が作った水紋の中心辺りにあっという間に辿り着き、身を躍らせて湖水の中に潜った。どうやら本気で捜しに行ってくれたらしい。
ケンが肩で息をしながら見ていると、暫くして湖面が盛り上がり、アリエッタが顔を出した。そのまま長い髪を水面に靡かせてこちらに泳いでくると岸辺に立ち上がり、手に持っていた剣を胸の前で抱えた。
水に濡れそぼった白い衣は女の体の柔らかい凹凸の線をはっきりと表し、さらに透けそうでいて透けない。濡れた碧い髪は滴り落ちる水と共に陽に輝いて七色の光を撒き散らし、美しい顔に謎めいた微笑を浮かべた姿は男を魅了して止まないだろう。
但し。
「其処な樵、其方の落としたりしは此れなる黄金の斧に確と違わざるや?」
悪ふざけさえしなければ、だ。
もう付き合う気にはなれない。ケンは眼に全力を込めて睨み付ける。
「悪かったわよ、一度やってみたかっただけなのよ。そんなに怒らなくてもいいじゃない。ちゃんと返すんだから。はい」
アリエッタは詰まらなそうに剣を差し出した。
ケンはアリエッタを油断なく睨みながら、受け取ろうとして手を伸ばす。
鞘を掴んだ瞬間に、アリエッタの手から青く鋭い光が放たれた。ケンは驚いたが手を引く間もなく光は消え、何事も無かったかのように剣は持ち主の手の内に戻ってきた。
「これは、本当に俺の剣?」
半信半疑で呟くと、アリエッタは遠慮のない声で返事をする。
「あー、良く見なさいってば。顔は良いのに眼は悪い?」
「顔は?」
「いや、詰まんないことに引っ掛かっていないで、さっさと確かめてみなさいよ」
ケンは手の中の剣をまじまじと見返した。
間違いない。柄や鞘の模様も、握り心地も……確かに父に貰った自分の剣だ。大切な父の形見が手の中に戻ってきたことで、ほっと一息を吐いた。
だが、水に落ちたものだ。鞘の中に沁み込んでいたら刃が錆びてしまう。
ケンは恐る恐る剣を鞘から抜いてみた。すると再び青い光が柄元から走り、剣身を震わせるように包んで消えた。
鞘を地面に置いて柄を両手で握りそっと顔の前に立てると、青い焔が剣身を廻ってゆらりゆらりと立ち昇る。
「これは一体……」
「綺麗でしょ?」
「……はい」
「でしょでしょ? そうよねー、やっぱり、赤より青の方がイケてるわよね、貴方に似合ってるわ」
「貴女がこれを?」
「ええ、あたしの力を籠めておいたわ。遊んでくれたお礼と悪ふざけをしたお詫びに、ちょっとした贈り物」
「貴女は……」
「もうとっくに察しが付いているんでしょ?」
「水の精、ウン……」
「おっと、そこまで」
ケンが四精のうちで水を司る妖魔の名前を口にしようとすると、途中で女が言葉を被せて遮った。
「あたし、正体を口に出されると拙いのよ。負けるわけがないのにせっかくの良い男と戦うとかバカバカしいし。勝ったところで貴方に手を出すと何かと面倒臭いし。いい? あたしは愛を司るアリエッタ。その力はアリエッタの力よ」
「何か、戦いに役立つ力でしょうか」
「え? 聞こえなかったの? 愛を司るあたしがそんな野蛮なことをするわけないでしょ。そもそも貴方、戦いの場でもその剣を抜こうとしなかったじゃない。本気で抜いたのが主に忠誠を誓う時だけだなんてね。今は亡き実のお父上からの授かり物だから大切にしてるんでしょうけど」
「何故それを」
「あたしを誰だと思ってんのよ。剣に尋ねりゃ答えてくれるわよ、それぐらい。でも別にいいんじゃない? 貴方は自分のために戦う気はない。人のため仲間のため、仲間を助けるためでなければ戦いたくないんでしょうから。それにその剣で戦うより、仲間と一緒に戦い、仲間を指揮した方が強いんだし。そんなことより、いい? あたしの力は愛の力。この剣に籠めた力は、貴方がいずれ大切な人と共に生きたいと願った時に本領を発揮するの」
「俺はそんなことを考えたことがありません」
「いずれよ、いずれ。それにもし一生そういう機会が無かったら、その時は叩き売っちゃえば? 妖魔の剣と言えば、金の斧より高く売れるかもよ? 一人淋しい人生のせめて最後を楽しく過ごすための老後資金にすれば?」
「俺は父の剣を売ったりしません」
「冗談よ、じょ・う・だ・ん。本っ当に堅い子ね。貴方の主より堅そうね。じゃあ、あたしも真面目に予言しておいてあげるわ。貴方は今後の一生に一度だけ、誰よりも大切な人を得るためにその剣を本気で抜くことになる。憶えておくことね」
「一生に一度……」
「もちろん、手入れとかで抜くのは回数に入れないから、大切にしなさいよ」
言いたいことを存分に言うとアリエッタは気が済んだようで、「ふんっ」と鼻息を鳴らした後に森の方を振り返った。
「あら、貴方の主が戻ってきたようね。それじゃ、あたしは行くわね。何かあったら、あたしのこの湖に会いに来てね」
「有難う、アリエッタ」
「らーららー、この清きー水面に映るー」
「有難う、清らなる湖の主、若く美しく儚げなアリエッタ」
「どういたしまして、黒狼の長、あたし好みのケン」
アリエッタは満足そうに嫣然と微笑むと湖に入り、「らーらっらーらー」と歌いながら優雅に泳ぎ出した。
陽の光を浴びて輝きながら湖面から現れては消えるその姿は謎めいて美しく、男ならば魅了されて知らず知らずに湖に歩み入って、水底に引き込まれたとしても不思議はない。
但し。
「限ーり無ーく美しいー」
歌が無ければ、だ。
やがてアリエッタは静かに水に潜ってその姿を消した。
ケンがそれをぼんやりと見送っていると、後ろから声が掛かった。
「ケン、来たんだ。何か用事かな?」
ケンが振り返ると、ユーキ殿下がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
「ユーキ殿下、クリーゲブルグ閣下からのお手紙がお邸に届いております。一刻も早くお知らせした方が良いと思って参りました」
「そう、有難う。じゃあ急いで帰ろう」
軽い調子で頷くユーキに、ケンは恐る恐る尋ねようとした。
「殿下、この森は……」
だが、その言葉は直様ユーキに遮られた。
「ケン、黙って」
「……」
強い調子で主に制止されて、ケンは口を噤んだ。ユーキは曖昧な微笑みを浮かべて静かに言った。
「ケン、ここで君に何があったかは聞かないよ。僕も言わない。この森で出会ったもの、見聞きしたことは、全て他言無用だから。わかるよね?」
「……はい」
「じゃあ、帰ろうか」
その夜、ケンは自室で一人切りになると、今日の出来事は本当にあったことなのかどうか確かめようと、半信半疑で剣を抜こうとした。
だが柄を持っただけで頭の中に「らーらっらー」という声が木霊し、鞘から刃を僅かに引き抜いただけで青い光が漏れ出して「あたーしのことをー、大事にしてねー」という怪しげな歌詞らしきものが聞こえたので途中で止めてしまった。
その後は湖の畔で聞いた歌声が耳から離れず、夜通し悶々として良く眠れなかったらしい。




