第1話 皿が一枚多い
皿が一枚多い。
食堂に足を踏み入れると、空いた椅子がまず目に入った。夫の席だ。皿の上のパンには手がつけられておらず、スープの湯気はとうに消えている。
給仕が控えていた。
「奥様、おはようございます。旦那様は離れで召し上がられたそうでございます」
「そう。離れの方は」
「お部屋でお済ませになったようで」
「何時に運んだの」
「六つ半頃に台所へお声がかかりました」
こちらの膳より先だ。
「旦那様のぶんは」
「そのあとに離れへお運びいたしました」
「お盆は戻った?」
「まだでございます」
「下げに行く時刻は決めているの」
「お声がかかり次第でございます」
六年目の朝も、リーゼルの目は空いた席から先に動かなかった。
食堂には椅子が三つある。主人の席、女主人の席、来客用の席。来客用の椅子にも皿が出ていた。離れの方のぶんだ。それも手がつけられていない。
「来客用のお皿も」
「いつもどおりお出ししてございます」
離れの方から、花の香がかすかに届いた。
「今朝の花は何」
「白百合だと伺っております」
花の名前より値段のほうが先に浮かぶ。
「仕入れはどこから」
「城下の花屋でございます」
「三人分用意して、使われたのはひとつだけね」
「昨日もそうだった?」
「はい。この一月、食堂でお召し上がりになったのは奥様だけでございます」
給仕が目を伏せた。
「離れの方のお膳は月に何度出している」
「朝と昼で六十ほどでございます」
「半年で三百六十ね」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいわ。いつもどおりにして」
空いている場所は、埋まっている場所より先に見える。帳簿を開けば空欄が先に見え、食堂に入れば空いた椅子が目に入る。もともとそういう目をしている。
(いいわ。洗い物が一枚減る)
女主人の席にひとりで着き、パンをちぎった。冷めかけたスープを匙で掬い、口に運ぶ。ぬるい。
「温め直しましょうか」
「いいわ。そのまま」
「パンはいくつ焼いた」
「六つでございます」
「三人分ね」
冷める方が多い。
「余ったぶんはどうしているの」
「台所で頂いております」
「離れの方の朝のお膳は、誰が決めているの」
「台所が直にお好みをお伺いしております」
リーゼルは匙を置いた。
「わたしを通さなくていいの」
「奥様にはお手間をおかけするなと旦那様から」
給仕の声が小さくなった。
「いつから」
「四年ほど前からでございます」
「台所の品書きは控えているの」
「月ごとにまとめてございます」
台所が運んでからずいぶん経っている。
夫のぶんまで温めて運んだ台所には申し訳ないが、使われない皿を下げる権限は台所にはない。主人が離れで食事を取ると決めた朝、食堂の皿は一枚多いまま残る。誰も下げない。リーゼルも下げない。下げれば、最初からなかったことになる。
パンを最後のひと切れまで食べた。食事を残すのは好きではない。商家の娘だった頃、母が言っていた。食卓に残したものは誰かが片づける。自分で片づけないなら、最初から皿に乗せるなと。
匙を椀の縁に揃えて置いた。給仕が近づいてきた。視線が夫の席に走って、すぐに戻る。
「お下げしてよろしいですか」
「わたしのぶんだけ」
「旦那様のお皿は」
「そのままでいいわ。旦那様が戻られたら、温め直して差し上げて」
「畏まりました」
「あの方がこの食堂にいらしたことは」
「……一度もございません」
「離れの方のぶんも、そのままにして」
「はい」
戻ることはまずないと分かっていても、そう言っておく。空欄は勝手に消してはいけない。帳簿と同じだ。消してしまえば、そこに何があったか——何がなかったか——誰にも分からなくなる。
リーゼルの皿だけが下げられていった。自分の場所だけが片付き、夫のぶんと離れの方のぶんはそのまま残る。冷めたスープと、手のつけられていないパンと。朝の光が、使われなかった皿の縁を照らしていた。
家令が食堂に入ってきた。
「失礼いたします、奥様。本日の御用をお伺いしたく」
「帳簿部屋へ行きます。昼のお膳は三人分、いつもどおりに」
「畏まりました。離れの方からお花代の請求が届いておりますが」
「伝票はベルントさんの机に置いて」
「畏まりました」
「午後は帳簿部屋にいます。来客があればお断りして」
「畏まりました」
「旦那様のご予定は」
「お昼前にお出かけと伺っております」
中庭を抜けて東の棟へ向かった。庭師の植えた秋薔薇の蕾が朝露に濡れていた。苗木の代金は帳簿に書いてある。この家のことで、リーゼルの知らない数字はほとんどない。
帳簿部屋は母屋と離れのあいだにある。伯爵邸でいちばん日当たりの悪い部屋だが、紙が焼けないぶん帳簿には都合がいい。
窓から見えるのは中庭の石畳と、その向こうの馬車置き場の屋根だけだ。馬車置き場の先に、河港の橋の欄干がかすかに覗いている。通行税が伯爵領の収入の六割を占める橋だ。四つある枠のうち三つが埋まっている。三つ目の馬車の紋は一年前に塗り替えられた。伯爵家の鷹ではない。百合だ。離れに住む人の家紋。
帳簿には書いてある。『寵姫様の馬車の塗り替え代 四百グルデン』。リーゼルの字で。四百グルデンは職人の月給二十人ぶんだ。それを帳簿に書いたとき、何も言わなかった。何も言わずに数字を書いた。数字は嘘をつかない。
扉を開けると、ベルントが先に来ていた。灰色の上着の袖口にインクの染みを幾つか増やしたまま、帳簿に向かっている。先代の伯爵の時からこの机に座って二十六年になる人だ。
「おはようございます、奥様」
「おはようございます、ベルントさん」
机にはもう帳簿が開いてあった。
「お早いのね」
「五つ半に参りました」
「昨日の書簡は」
「出しております」
「月末の締めまでは日がございますが」
「まだ先ね」
補佐官の目が一瞬だけこちらを見た。月末でもないのに来た、と気づいている。
「ええ。今日は金庫を開けます」
「鍵は、いつもの引き出しに」
「ありがとう。先月の通行税の端数は合いましたか」
「北岸の荷揚げ分だけ三クロイツァーの差がございます」
「照会は」
「出しております。明後日には戻るかと」
「照会先は北岸の帳場ね」
「はい。荷揚げ場の帳場でございます」
「端数が合わないのは初めてですか」
「いえ。北岸は荷揚げの記録が遅れることがございます」
「月末の締めには間に合いますか」
「間に合わせます」
「お願いします。それと、持参金の残高に変わりは」
「先月末から動きはございません」
「商会からの月報は」
「昨日届いております」
「利率に変わりは」
「据え置きでございます」
「橋の修繕費は」
「月初に親方へ手形を出しております」
「去年と同じ額で」
「二割ほど上がっております。石の値段が」
「北岸の切り出し場ね」
ベルントのペンが止まった。
「帳簿に書いてあるわ。親方にはよろしくお伝えして」
「見積もりが届いたらわたしにも見せて」
「畏まりました」
「工期は秋のうちに終わりますか」
「親方はそのつもりでおります」
「離れのお花代の伝票が来ています。家令から」
「先ほど確認いたしました。先月の倍になっております」
「品目は」
「百合と白薔薇でございます」
「月ごとに増えているわね」
「……はい」
「帳簿に載せてください」
「畏まりました」
「離れの出費は先月でいくらになりました」
「二百三十グルデンと少しでございます」
「去年の同じ月は」
「百六十ほどでございました」
「四割増えているわね」
「年間ではいくらになりますか」
「このままなら三千を超えるかと」
ベルントは短い首肯を返し、自分の仕事に目を戻した。上着はいつも同じ灰色で、袖口はいつもインクで汚れている。言葉は少ないが、この人のインク壺は帳簿部屋で一番早く空になる。
「ベルントさん、伝書の控えを」
「机の上に置いてございます」
リーゼルは自分の机に着いた。横に並んだ二つの机。帳簿部屋にはこの二つしかない。壁の棚には六年分の帳簿の写しが並び、窓際の小卓にインク壺と替えのペン先が置いてある。ほかには何もない。飾りのない部屋だ。この家でリーゼルが一番長くいる場所だった。
六年前、この部屋に初めて足を踏み入れた。ベルントが一人で机に向かっていた。
「わたしが帳簿を見ます」
ペンの音が一拍だけ止まった。こちらを見て、何も言わなかった。翌朝にはもう一つ机が運び込まれていた。
何も言わない人だった。けれど、机は運んだ。それからずっと、隣の席で帳簿を繕っている。六年のあいだ、この人の席が空いた朝は一度もない。
袖口を折った。帳簿にインクがつかないよう母に教わった癖で、もう考えずにやっている。引き出しを開け、金庫の鍵を取り出す。
「金庫を開けます」
「どうぞ」
今朝は、月末の帳簿締めではない。
金庫は机の横の壁に据えつけてあった。膝の高さほどの鉄の箱で、扉は分厚い。この家で一番重い家具だ。鍵を差し込むと、重い鉄の扉がかすかな軋みとともに開いた。秋の朝の冷気をためた鉄が指先に触れた。中は暗く、紙の匂いがした。
一番上に、婚姻契約書の写しが載っている。
その下に帳簿が積まれていた。六年分だ。持参金の出納帳、伯爵領の収支簿、橋の通行税の記録。月ごとに締めて年ごとに綴じた冊子が、金庫の底まで隙間なく詰まっている。全部で七十二冊になる。最初の一冊はまだ白く、最後の一冊には六年ぶんの手の脂が薄く染みている。
どの冊子にもリーゼルの字がある。月末に数字を確かめ、日付を入れ、署名した。空欄を見つければ埋めた。誰のための支出であっても。持参金三万グルデンがどこに使われ、いくら残っているか。リーゼルはその全てを知っている。
(この帳簿がなかったら、この家の金庫は三月で止まるのに)
呆れに似た感情が浮かんで、すぐに沈んだ。何度も浮かんでは沈んだ感情だ。六年のあいだに数えきれないほど浮かんで、そのたびに沈めた。沈めるのは上手くなった。
リーゼルは一番上の契約書を取り出し、机の上に広げた。
表紙に父の字があった。
『ファルケ伯爵家・ヴァイデン男爵家 婚姻契約書 写』
父が自ら書き写した一通だ。原本は王都の王室記録院にある。写しは両家に一通ずつ。伯爵家の写しは書庫にあるはずだが、この人が開いたことがあるとは思えなかった。
紙の角が少しだけ丸くなっている。毎月の帳簿の出し入れで、金庫の一番上にあるこの束に指が触れてきた。めくりはしない。ただ触れるだけだ。それだけで紙の角は丸くなった。六年ぶんの手の跡だった。
最後の頁を開いた。
署名欄に二つの名前が並んでいる。
リーゼル・ヴァイデン。父の字で日付が添えてある。まだファルケの姓を名乗る前の、旧い名前だった。
ユリアン・ファルケ。筆跡は整っている。けれど名前の最後の一画が跳ねていない。夫の字には、いつも最後に小さな跳ねが入る。手紙でも、領の布告でも。この署名にはそれがなかった。
名前の横に、小さな字が一つ。
『代』
ベルントの字だった。委任状に基づく代理署名の印。細い、律儀な筆跡。
夫は、自分の婚姻契約書に、自分で署名していなかった。
「ベルントさん」
「はい」
「この署名は、あなたの字ですね」
隣の机でペンが止まった。
「……はい。旦那様の委任状に基づきまして」
「先代もそうしていらっしゃいましたか」
「先代も、そうでございました」
「委任状の原本は」
「金庫の底にございます」
「委任状は、いつお出しになったの」
「契約に署名する前日でございます」
「届けたのは」
「私でございます」
「この人はご覧になりましたか。一度でも」
「私の知る限りでは」
「六年、一度も」
「はい」
「書庫の写しは」
「手つかずでございます」
「埃が積もっているでしょうね」
「封は」
「綴じたままでございます」
そういうものだ。六年のあいだ、リーゼルはその言葉を何度か噛んだ。噛むたびに、味は薄くなった。
左手の薬指の指輪が紙の端に触れた。小さく、冷たい音がした。
——六年前の秋の夜だった。
婚礼の宴が終わり、寝室にはふたりだけが残されていた。
夫は窓の前に立っていた。背が高く、肩幅がある。蝋燭の灯りが横顔を照らしていたが、こちらを見なかった。花と蝋の煙が混じった匂いが寝室に漂っていた。
「少し話がある」
穏やかな声だった。窓の向こうを見たまま。
「はい」
リーゼルは寝台の縁に腰を下ろしていた。礼装の裾が床に広がっている。脱ぐより先に、この言葉が来た。
「領地が立ち直るまでは妻でいてくれ」
「承知しています」
「帳簿と金庫はすべて任せる。好きに見てくれて構わない」
「お任せいたします」
(帳簿は好きに見てくれ、とこの人は言った。帳簿を一度も開いたことのない手で)
「客の応対も頼む」
「はい」
「来客の名簿は」
「ベルントが持っている」
「使用人の采配も任せる。困ったことがあればベルントに」
間を置かずに続いた。
「領の事情はお父上にもお伝えしてある」
「はい。父から聞いております」
「持参金のことはベルントから聞いている。ありがたく思っている」
「ありがとうございます」
(ありがたく。三万グルデンを、ありがたくと一言で)
「家政のことは君の裁量でいい」
「不自由はさせない。必要なことがあればベルントに伝えてくれ」
「社交の場にも出てもらう。君にとっても悪くないだろう」
「はい」
ひとつ頷くたびに、次が来た。
「僕はあまり帳簿を見る性分ではないから」
「君のほうが向いている」
褒めているのではなかった。
「書斎は自由に使ってくれ」
「お気になさらないでください」
「寝室は別にする。隣の部屋を使ってくれ」
「窮屈な思いはさせたくない」
膝の上で、指が裾の布をひとつ摘んだ。
穏やかな声は変わらなかった。穏やかなまま、続けた。
「だが、君を愛することはない」
息が止まった。
父が手渡した契約書の、紙の束の厚みだけが浮かんだ。
裾を握っていた右手の指が白くなった。膝の裏が冷えていくのが分かった。
愛することはない。婚礼の夜に交わした言葉がそれだった。挨拶もなく、名前も呼ばず、窓の前に立ったまま。
「……承知しました」
声は出た。震えなかった。震えなかったのは、覚悟していたからではない。声を出すのに精一杯で、震える余裕がなかっただけだ。
穏やかに言えるのは、ずっと前から決めていたからだ。リーゼルの返事は待っていなかった。待つ気があるなら、窓のほうを向いたまま言わない。
言い返す言葉はあった。この契約書には何が書いてあるか知っているのかと。署名欄に並んだ『代』の字を、見たことがあるのかと。
けれどリーゼルは、それ以上何も言わなかった。
言わなかったのは、怒っていなかったからではない。言っても届かないと分かっていたからだ。この人は契約書を読んでいない。読んでいない人に中身を伝えても、言葉は紙の上を滑るだけだ。
「今日は疲れただろう。部屋は隣だ」
窓のほうを向いたまま言った。気遣いではない。話は終わったという合図だった。
「朝食は食堂で取る。二人分、用意させてある」
「おやすみなさいませ」
父の声が浮かんだ。契約書を手渡しながら、父は言った。
「使わずに済むなら、それでいい」
窓の前に立つ夫の背中を見ていた。手が綺麗な人だった。ペンだこがない。帳簿を開かない手。契約書を読まない手。
蝋燭の灯りに照らされた指輪だけが、二人の手に同じものとして光っていた。同じ金属で、同じ細工で、同じ日にはめたもの。それだけが同じだった。
左手の薬指に、指輪の冷たさだけがあった。
——同じ冷たさが、指先から紙の上に伝わっていた。
リーゼルは目を上げた。机の上に契約書が広がっている。帳簿部屋の窓から朝の光が差し、紙の端を白く照らしていた。あの夜の蝋燭ではない。六年目の朝の光だった。
隣でベルントのペンの音が聞こえる。変わらない音だ。穏やかで、律儀な筆の走り。六年前と同じ机で、同じ灰色の袖口で、同じ音を立てている。
契約書の最初の頁に指を置き直した。
条項を、ひとつずつ数える。
第一条。第二条。第三条。
父が起草した条項だ。どの条文も覚えている。何が書いてあり、何が書かれていないかまで。
第四条。第五条。第六条。
指が行の上を滑っていく。父の字だ。商家の主人でありながら貴族の筆を持っていた父の、角の立った楷書。インクの色が少しだけ変わる箇所がある。一度にまとめて書いたのではなく、日を分けて書いたのだろう。
(お父様らしいわ)
第七条。第八条。第九条。
第十条。第十一条。
ここまで、指が止まったことは一度もない。何度数えても同じだ。これまでも何度か、この契約書を金庫から出して数えた。月末の帳簿を締めた後、一人で部屋に残った夜に。
——第十二条。
指が止まった。
父の字で書かれた条文の行の上で、リーゼルの右手の人差し指が載ったまま動かなくなった。紙の繊維が指先に触れている。父が選んだ紙だ。六年経っても色が変わらない、厚い上質の紙。
隣のペンの音が、ふと途切れた。ベルントがこちらを見ている気配があった。すぐにペンの音が戻る。補佐官は何も訊かなかった。六年のあいだ、この人はリーゼルが契約書を開いても一度も訊かなかった。
窓の外で鳥が鳴いた。朝の光が契約書の頁を照らしている。
契約書の上で、指は十二から動かなかった。
はじめまして、藍田 算です。
『離縁の条件は、六年前に揃っています』を開いてくださり、ありがとうございます。
主人公のリーゼルは、花の名前を聞くと値段が先に浮かぶ人です。
一緒に花屋へ行ったら、予算の相談には乗ってくれそうですが、こちらが花を選び終える前に仕入れ先まで尋ねていそうですね。
この先も、彼女の暮らしを一緒に覗いていただけたら嬉しいです。
本作は全二十四話で、完結までの原稿は書き上がっています。
契約書も帳簿も出てきますが、計算用紙はご用意いただかなくて大丈夫です。
どうぞ気楽に、物語の続きへお進みください。




