第8話 小烏瀬弥子
ゴールデンウィークに遠野に行くことになった経緯を、少し説明しておく必要がある。
理由は二つあった。
一つ目は、夕海香里が現役女子高生であるということだ。
東北への数日の取材旅行となると、当然学校を休まざるを得ない。それを社会人が強要するのは色々と不味い。
大の大人が女子高生を連れ回すことの是非については、考えないことにする。考え始めると筆が止まる。私は潔白でありやらしいこと、もといやましいことは何もないとここに記しておく。
二つ目は、仕事だ。
座敷わらしの記事が没になった以上、新しい原稿を書かなければ生活ができない。オカルトライターとは聞こえこそいいが、要するにフリーランスだ。仕事がなければ収入がない。収入がなければ家賃が払えない。至極単純な話だ。
というわけで、私はゴールデンウィーク前の平日、取材のアポを入れていた。
相手は怪談師であり創作者でもある、佐々々木紀律という人物だ。
佐々木喜善——遠野物語の語り部として柳田國男に話を提供した、日本のグリムとも称される人物——にちなんだペンネームだという。
本人曰く「遠野の継承者」だそうだが、業界内での評判はあまり芳しくなかった。遠野に関するノンフィクションを謳いながら、実際には取材が杜撰で、地元の人間に確認もせずに書く、話を盛る、ひどい場合には作る——そういう評判が出回っていた。
それでも一定の読者はいる。遠野物語の現代的解釈、という切り口は、それなりに需要があるからだ。
そして怪談師、怪談作家というものは「事実や聞いた話を脚色して盛り上げるものだ」という認識、自負が強い。また「実在の人物に対する配慮」という伝家の宝刀もある――要するに、怪談作家というものは誤解を恐れずに言うと、嘘つきばかりで、嘘が許される仕事だから仕方ない、というものだ。偏見かもしれないが。
閑話休題。ともかく私は遠野の取材をした手前、彼の著作に気になる点があった。それを確認するついでに、新しい企画の糸口を探すつもりだった。
◇
佐々々木紀律のマンションは、高円寺の古い建物の一室だった。
インターフォンを押すと、返事がなかった。
もう一度押した。
やはり、ない。
嫌な既視感があった。
「……まさか――」
ドアノブに手をかけると——動いた。
鍵がかかっていなかった。
匂いがした。
甘い匂いではなかった。
これは、ただの、人間の死の匂いだった。
私はドアを開けた。
薄暗い部屋。本棚が壁を埋め尽くし、机の上には原稿用紙と資料が積み重なっていた。遠野の写真集、民俗学の論文のコピー、付箋だらけのノート。
その床に、男が倒れていた。
顔が——
顔が、平坦だった。
まるで紙面のように。
額も鼻も頰も、全てが同じ高さに押しつぶされたように、内側から均されていた。立体感がなかった。人間の顔から、奥行きだけが消えたような、そういう歪み方だった。
机の上の原稿用紙に、白い糸が一筋、絡みついていた。
私は部屋に入らずに、警察に電話した。
◇
パトカーが来るまでの間、私は廊下で待った。
今回は香里がいなかった。一人だった。
山村の時より、静かだった。
静かな分だけ、余計に考えた。
佐々々木紀律。遠野についてある事ない事書いていた作家。
山村パターソン。遠野のものを無理やり奪った男。
厚楽良子。遠野のどぶろくを買い叩いた女。
斉藤義彦。遠野の名前を偽って商売した男。
三上小五郎。遠野を口実に人を騙した男。
全員、遠野と関わっていた。
全員、何かを——していた。
考えたくは無かった。最後の、新しい犠牲者、佐々々木紀律――
作家。
遠野について書いていた、怪談作家――オカルト作家。
誰かと、似ていないだろうか。
そう、それは――
私は、考えるのをやめた。
遠くからサイレンが響いて来た。
◇
「またあんたか」
いがぐり頭の刑事は、私の顔を見るなりそう言った。
栗下林太郎。改めて私に名乗った彼は、山村の現場でも顔を合わせた、くたびれたコートの中年刑事だ。
「またあなたですね」と私も言った。
「死体を見つけるのが趣味か」
「趣味で見つけたいものでもないですが」
「わかってる。ただの悪態だ」
もう彼は私に対する敬語、いや丁寧語を使う気配も無かった。
栗下はポケットに手を突っ込んだまま、部屋の中を見た。
「知り合いか」
「取材相手です。アポを取ってありました」
「遠野関係か」
私は少し間を置いた。
「……なぜそう思うんですか」
「被害者が遠野に関係した著作を多数出している。それだけだ」
栗下は事務的に言った。しかし私には、それが全てではないように聞こえた。
事情聴取は三十分で終わった。山村の時よりも短かった。栗下が手慣れてきたのか、私が手慣れてきたのか。どちらも笑えない話だ。
「ここまで連続して出て来るとアレだな。あんた、犯人かそれとも探偵か。どっちだ?」
揶揄するような栗下の声が私の背中に響く。
私は答えた。
「ただの、脇役ですよ。昔から、今この先もずっと、俺が主人公になる事はない――」
◇
マンションの前に出ると、野次馬が数人、規制線の外から様子を見ていた。
私はその中に、一人の少女が立っているのに気づいた。
黒い長い髪を切り揃えた、セーラー服の女の子だ。その服はここらでは見た事のないものだが、高校生くらいだろうか。トートバッグを膝に抱えて、マンションの入口をじっと見ていた。
野次馬の他の人間と、目つきが違った。
野次馬は興味本位で見る。彼女の目は、違った。
何かを——確認するような目だった。
妙に気になり、私は近づいた。
「すみません」
声をかけると、少女はこちらを向いた。驚いた顔ではなかった。まるで、声をかけられることを予期していたような、そういう顔だった。
「佐々々木紀律さんを……知っているんですか」
少女は少し間を置いてから、頷いた。
「……知っています。取材に来ていました」
「取材?」
ご同業……には見えないが。ライターにしては若すぎる。
いや、バイトという線もあるか。
「文化祭の企画で、遠野の本を書いている方にお話を聞きたくて。土日を使って東京まで来たんですが……」
少女はマンションの入口をもう一度見た。
「こういうことになっていて」
「東京まで来た……ということは、遠野から来たんですか」
少女は頷いた。
「小烏瀬弥子といいます。遠野の高校に通っています」
遠野。
私はその言葉を、もう何度聞いただろうか。
今まではその言葉は、こちらが情報の端々から見つけて拾い上げるだけのものだった。
しかし、それがあちらから――。
「佐々々木さんの本に、気になるところがあって」と彼女は続けた。「遠野のことをある事ない事書いているところがあって。直接確認したかったんです」
「ある事ない事……具体的には?」
「いくつかあります」
彼女の声は静かだったが、その奥に何か固いものがあった。怒っている、とも少し違う。ただ、譲れない何かがある、という感じだった。
「遠野のことを、嘘で書かれるのは……嫌なんです」
その一言は、簡単な言葉だったが、妙に重かった。
私はしばらく彼女を見た。
黒く染めた髪の根元が、夕方の光の中でわずかに緑がかって見えた。
「オカルトライターの先生、ですよね」
彼女が唐突に言った。
「……そうですが、なぜ」
「月刊レムリアで記事を読んでいました。SNSも。座敷わらしに関しての取材もしているって」
「没になりましたけどね」
私は苦笑する。
あの渾身の記事はお蔵入りだ。
「正直に書いてくれていると思って。岩手のことを、ちゃんと見ようとしていると思って」
ちゃんと見ようとしていると思って。
その言葉が、胸に引っかかった。
褒め言葉として受け取っていいのかどうか、私にはわからなかった。
「……ありがとう」
私はそれだけ言った。
見てくれている人がいる。それだけで救われた気がした。
「しかし、大変な事になったな。俺もそうだけど、君も無駄足だったわけだ、取材」
私はため息をついた。さて、どうするか。
すると、彼女は言った。
「収穫は、ありました」
彼女は、私を見ていた。
「佐々々木先生が導いてくれたんでしょうね。遠野について取材をしている、ライターの先生とこうして知り合えた。
千載一遇、色々と答えてもらいます」
……ああ、これは。
ご同業の匂いが、気配がした。この子は私に取材する気満々だ。
まあそれはそうだろう。わざわざ東北から東京まで来たら取材目的の作家はなんか不審死してて空振りなど、やるせないだろう。
なんということだ。
取材にきたつもりが、逆に捕まってしまったのだ。




