第二話 エスカレートする要求と法事の計画
嵐の前の静けさ、という言葉があるけれど、牧村家のそれは、粘着質な湿気を帯びた不快な静寂だった。
義姉一家が襲来したあの夕食会から数日後。私は義母の悦子に呼び出され、リビングのローテーブルの前に正座させられていた。目の前には、古いカレンダーと数枚のチラシが乱雑に広げられている。
「いい、里美さん。今度の日曜日は、お義父さんのお父様……つまりお祖父様の七回忌よ。牧村家にとって、どれだけ大事な日か分かってるわよね?」
義母は老眼鏡の位置を直しながら、威圧的な視線を私に向けた。
分かっているも何も、一ヶ月も前からこの日のために有休を取るよう強要されていたのは私だ。
「はい、存じております。準備も進めておきます」
「口で言うのは簡単なのよ。前回、三回忌の時は仕出し弁当のランクが低くて、親戚の叔母様に嫌味を言われたのを忘れたの? 嫁のあなたがしっかりしていないから、恥をかくのは私たちなのよ」
三回忌の仕出し弁当を選んだのは義母自身だ。「予算がないからこれでいいわよ」と言ったのを、私は鮮明に覚えている。けれど、それを指摘すれば「口答えするな」と倍の小言が返ってくるだけだ。私は黙って頷く。
「今回は絶対に失敗は許されないわ。本家の伯父様もいらっしゃるし、真由美の嫁ぎ先のご両親も顔を出すかもしれない。とにかく、牧村家の格を落とさないように、最高のおもてなしをするの。いいわね?」
最高のおもてなし。その言葉の裏にある「労力」と「金」の匂いに、私の胃がきりきりと痛む。
「具体的には、どのような手配をすればよろしいでしょうか」
「そうねえ、まず食事は『料亭・松風』の会席膳。お一人様八千円のコースでお願い。それから引き出物はカタログギフトじゃなくて、ちゃんとした品物を用意して。老舗の佃煮セットなんかがいいわね。あとはお茶菓子、お花、お坊さんへのお布施の準備……ああ、それと家の掃除! 畳の表替えまではしなくていいけど、ふすまの張り替えくらいは自分たちでやりなさいよ。業者呼ぶとお金かかるんだから」
矢継ぎ早に繰り出される指示。メモを取るペンが追いつかないほどだ。
ふすまの張り替えを「自分たちで」と言うが、義父も義母もしないことは明白だ。つまり「里美、お前がやれ」という意味である。
しかも、『料亭・松風』は地元でも有名な高級店だ。親戚は二十人近く集まる予定になっている。単純計算で食事代だけ十六万円。引き出物やお布施を含めれば、軽く三十万は超えるだろう。
「分かりました。手配を進めます。……ところで、その費用についてですが」
私が恐る恐る切り出すと、義母は露骨に不機嫌な顔をして鼻を鳴らした。
「あんたねえ、また金の話? さもしいわねえ。お義父さんが退職金で家のローンを完済してくれたおかげで、あんたたちは家賃も払わずにのうのうと暮らせてるんでしょう? 牧村家の行事なんだから、嫁が費用を工面するのは当たり前じゃない。それをいちいち『費用は』なんて、親戚の前で言ったら笑われるわよ」
論理のすり替えが鮮やかすぎて、眩暈がする。
家のローンを完済したのは確かに義父だが、その後のリフォーム代や固定資産税、日々の維持費を出しているのは私だ。それに、法事の費用は施主である義父が出すべきものではないのか。
「ですが、三十万を超える出費になります。今月の生活費と合わせると、私の貯金を切り崩すことになりますが……」
「あら、里美さんは稼いでるんでしょう? 家でパソコンカタカタやってるだけでお金が入るなんて、いいご身分よねえ。私たちが若い頃は、汗水垂らして働いたものよ。楽して稼いだお金なんだから、こういう時くらいパーっと使いなさいよ。それが『感謝』の表し方ってものでしょう?」
義母は嘲るように笑い、テーブルの上のチラシを私の胸元に押し付けた。
「楽して稼いだ」。その言葉が、私の心の中で冷たく凍りつく。
納期に追われ、睡眠時間を削り、腱鞘炎になりかけながら入力した数字の羅列。それが、この人たちには「遊び」に見えているのだ。
「……分かりました。手配しておきます」
私は低く答えた。
ここで感情的になってはいけない。まだ、その時ではない。
私は心の中で『生活台帳』のページを開き、新たな項目を追加した。
『法事費用一式:推定350,000円』
『立替強要・感謝の強要:精神的苦痛レベルMAX』
その日の夜から、地獄のような準備期間が始まった。
日中は在宅の仕事をこなし、夕方からは法事の準備に追われる。
ふすま紙をホームセンターで買い込み、夜な夜な一人で張り替える。慣れない作業に指先が荒れ、腰が悲鳴を上げる。
リビングでは、義父と義母がテレビを見ながら大笑いしている。「おい、茶が入ってないぞ」という声が聞こえるたびに、作業を中断して急須にお湯を注ぎに行く。
「ありがとう」の一言など、もちろんない。
法事の三日前。
私が引き出物の発注確認をしていると、玄関のドアが開く音がした。義姉の真由美だ。
彼女は実家に来るたびに、何かを持ち帰るか、何かを要求していくハイエナのような存在だ。今日は何だろうと身構えていると、彼女は私の部屋のドアをノックもせずに開けた。
「ちょっと里美さん、話があるんだけど」
腕組みをして立っている真由美の表情は、どこか勝ち誇ったような色を帯びていた。
「何でしょうか、お義姉さん。今、法事の最終確認をしていて忙しいのですが」
「その法事のことよ。お母さんから聞いたわ。あんた、費用のことで渋ったんですって?」
義母が早速、娘に告げ口をしたらしい。「渋った」のではなく「相談した」だけなのだが、彼女たちのフィルターを通すと事実は歪曲される。
「渋ったわけではありません。ただ、金額が大きいので相談を……」
「はあ? あんた、この家に住まわせてもらって何年目? 二年でしょ? 毎月家賃十万だとして、二百四十万は浮いてる計算になるじゃない。たかだか三十万くらいの出費でガタガタ言うなんて、恩知らずにも程があるわよ」
真由美は私の部屋にずかずかと入り込み、デスクの上の見積書を勝手に手に取った。
「へえ、結構いい値段するじゃない。でもさ、これくらい出さないと恥ずかしいのよ、私たちが。あんたみたいな身元の知れないフリーランスが嫁に来て、親戚中が心配してるんだから。『ちゃんと牧村家の嫁として務まってます』ってアピールするチャンスじゃないの。ありがたく思いなさいよ」
ありがたく思え。チャンスを与えてやっている。
彼女たちの思考回路は、どこまで行っても自分本位だ。私が稼いだお金を搾取することを、あたかも「教育」や「恩情」であるかのように振る舞う。
「それにね、私も今回は子供たちの服とか新調しなきゃいけないから物入りなのよ。本当なら少し包もうと思ったけど、あんたが払うなら私は出さなくていいわよね。実家の行事なんだから、同居してる嫁が全部持つのが筋ってもんでしょ」
真由美は見積書を放り投げると、私の顔を覗き込んでニヤリと笑った。
「期待してるわよ、里美さん。あ、当日の私の着付けも頼むわね。美容院代もったいないし、あんた着付けできたわよね?」
言いたいことだけ言って、真由美は部屋を出て行った。
残された私は、床に落ちた見積書を拾い上げる。
紙がくしゃりと音を立てた。私の握力が、無意識のうちに強くなっていたのだ。
二百四十万。彼女はそう言った。
私がこの二年間で負担した生活費、リフォーム代、家電の買い替え費用、そして家事労働の対価。それらを合計すれば、とっくにその倍以上の金額になっている。
『生活台帳』の貸借対照表は、すでに赤字などというレベルではない。牧村家は私に対して、返済不可能なほどの負債を抱えているのだ。
「……いいでしょう」
私は誰もいない部屋で呟いた。
払ってやる。全額、一円単位まできっちりと。
中途半端に拒否して、彼らに「金がないから質素にした」と言い訳の余地を与えてはいけない。
最高級の料理、最高級の引き出物、完璧な設え。
誰も文句のつけようがない完璧な法事を演出してやる。
そしてその費用のすべてを私が負担したという事実こそが、彼らを追い詰める最強の武器になるのだ。
領収書の宛名は、すべて「牧村里美」で切ってもらう。それが私の、反撃の狼煙だ。
法事の前日。
すべての準備を終えた私は、深夜のリビングで夫の帰りを待っていた。
日付が変わる少し前、亮介が疲れ切った顔で帰宅した。
「ただいま……うわ、すごい荷物だな」
リビングの隅に積み上げられた引き出物の山を見て、亮介が目を丸くする。
「お帰りなさい、亮介さん。ちょっと座ってくれる? 大事な話があるの」
普段とは違う私の冷徹な声色に、亮介はネクタイを緩める手を止めた。
彼は何かを察したのか、おずおずとソファに座る。私は彼の対面に座り、一枚の紙をテーブルに置いた。
それは、明日の法事にかかる費用の明細書と、私が明日支払う予定の現金を下ろした通帳のコピーだった。
「これ……なんだよ、この金額」
「明日の法事の費用。総額で四十二万八千円。お義母さんとお義姉さんからの指示で、すべて私が手配したわ」
「よ、四十万!? そんなにかかるのか? いや、ていうか、これ母さんたちが出すんじゃないの?」
亮介の声が裏返る。彼は何も知らなかったのだ。いや、知ろうとしなかったのだ。
「お義母さんは一円も出さないと言ったわ。『住まわせてやっているんだから、嫁が出すのが当然だ』って。お義姉さんも、自分の出費があるから出さないって」
「そんな……でも、うちの親父、退職金あるはずだし……」
「ないわよ、そんなもの」
私は淡々と告げた。
「お義父さんの退職金は、家のローンの残債整理と、お義母さんが昔作った借金の返済でほとんど消えたの。あなた知らなかったの? この二年間、この家の家計がどうやって回っていたか」
私は手元のファイルから、もう一枚の紙を取り出した。それは『生活台帳』のサマリーページだ。
月々の光熱費、食費、固定資産税、修繕費。
すべての項目において、私の貯金からの持ち出し額が記載されている。
亮介の給料はわずかな生活費として入れられているが、義父母の浪費癖と、頻繁に来る義姉一家の接待費で、一瞬で消えている現実がグラフ化されていた。
「これ……嘘だろ? 俺、母さんから『里美さんは家事が好きでやりくり上手だから助かってる』って……」
「やりくりじゃないわ。私の独身時代の貯金と、今の稼ぎで埋め合わせているだけ。それを『やりくり』とは言わない。搾取と言うのよ」
亮介の顔から血の気が引いていく。
彼は親を信じたかったのだろう。あるいは、自分が妻に苦労をかけているという現実から目を背けたかっただけかもしれない。
紙を持つ彼の手が震えている。
「ごめん……俺、全然気づかなくて……」
「謝ってほしいわけじゃないの」
私は言葉を遮った。今さら謝罪などいらない。必要なのは「行動」だ。
「私は明日、この四十二万円を払います。文句も言わずに、完璧な法事を成功させる。……でもね、亮介さん」
私は彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「法事が終わったあとの食事会で、親戚の皆さんがいる前で、今後のことについて話し合いをさせてもらいます」
「え、親戚の前で? それはまずいんじゃ……内輪で話したほうが……」
「内輪で話して通じる相手だと思う?」
私の鋭い問いかけに、亮介は言葉を詰まらせた。
彼は知っているはずだ。両親の強情さと、姉の図々しさを。家族だけの閉じた空間では、私がどれだけ正論を言っても「嫁のくせに」の一言で握りつぶされることを。
「第三者がいる場でないと、まともな話し合いは成立しません。私はただ、事実を知ってもらいたいだけ。あなたが私の夫なら、明日は黙って私の隣に座っていて。……もし、親戚の前で私を悪者にしてお義父さんたちを庇うようなら、その時は私も考えがあります」
テーブルの上に、見慣れない緑色の封筒を置く。
中身が何か、言わなくても亮介には伝わったようだ。彼は息を飲み、視線を封筒と私の顔の間で往復させた。
「……分かった。分かったよ、里美。俺は、お前の味方だ。今まで守ってやれなくてごめん。明日は……ちゃんと話そう」
亮介は力なく、しかし決意を込めて頷いた。
それが、彼なりの精一杯の覚悟なのだろう。
私は小さく息を吐き、「ありがとう」と言った。
だが、心の中は冷え切ったままだ。
夫が味方についたことは大きな前進だが、まだ勝利ではない。
明日は戦場だ。
善意の皮を被った親戚たち、そして「住まわせてやっている」と信じて疑わない義父母たち。彼らの化けの皮を剥がすには、夫の同情だけでは足りない。
もっと確実で、もっと残酷な「証拠」が必要だ。
「もう寝ましょう。明日は早いから」
私は書類を回収し、ファイルを閉じた。
その厚みのあるファイルが、私の手の中で重く、そして頼もしく感じられた。
明日の今頃、この家は全く違う景色になっているはずだ。
嵐はもう、すぐそこまで来ている。
窓の外では、風が強くなり始めていた。ガタガタと鳴る窓枠の音が、まるでこれから始まる崩壊を予兆しているかのように聞こえた。




