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変な意味ではないんですよ、とケイティは念を押して繰り返す。
「常連のサムさんが、たまたま後を付いてきていて、その時にレンブラントさんと私が急に消えたって。どういうことなんだと問い詰められたので、困っちゃって。だからピュンて帰る時は他に誰も居ない場所に行ってから移動して欲しいんです」
もはやこの世は魔法などない世界である。レンブラントも心得ているのでケイティが一生懸命伝えようとする内容は勿論理解できた。できたが。
「たまたま、後を?」
「そう、偶然ですって」
ふ~ん、とレンブラントが唇を突き出した。
「魔物に浮浪者に常連客か。君には一体何層必要なんだよ」
「何層?」
抱き寄せたケイティの頭にまたひとつキスを落とす。
一つ目はあらゆる外敵、魔物、魔力から。二つ目は害意を持つ人間から。そして三つ目はおかしな色眼鏡の男除け。ある意味ケイティはこの国で…この世で最も無敵に近かった。レンブラントによって本人の知らぬ間にかけられた三層の護りは、生涯ケイティを包む。例えば何万の人々が一瞬で灰になる攻撃も、彼女には全部無効になったし、カモにしようと恋愛詐欺を仕掛けても通用しない。
頭を押さえて不思議そうな顔をしている美しい女は、あまり魔力云々を理解しようとはしない。三百年ぶりに世を見て理解したレンブラントが思うに、ケイティはかなりのリアリストだ。見えざる持たざる力に頼る発想もなく、見える存在にすら頼ろうとしない。それは頼った経験が無いからに他ならない。
だから、ケイティはレンブラントのことを全く普通の人間のように接してくる。多少、ほんの少し、乗り物のように思っているのかもしれないが…
レンブラントは周りをきょろきょろと見渡して隠れている男がいないかを確認する。目視でも魔力でも何も引っかかるものはなかったが、ひとまず店の近くから飛ぶのはマズイだろうと、ケイティの手を引いて歩き出した。
「君には後を付けてくるような男しかいないのかな」
「あはは。サムさんはたまたまですから。そんなんじゃないですって」
「他にもっと、マシなのは?」
「マシも何も、誰もいませんよ」
「そんなに綺麗なのに、誰も居ないのはおかしいだろ」
ケイティは目を丸くする。
「またそんな冗談を。大してパッとしませんから。恋人もいたことはないですし…早くにネロを産んだから、皆、私を残念そうな目でしか見ません」
「………」
黙り込んだレンブラントの反応を見て、ケイティは目をそらす。
恋人もいたことがないのに子供がいるなどおかしな話だ。きっと変な女だと思っているだろう。本当はこうして男の人と手を繋ぐのだってレンブラントが初めてだ。
「ケイティは」
「はい?」
「君は、この世で一番美しい」
「………ふふっ」
思わず噴き出したケイティが笑い続ける。
ちょっとシリアスになりかけたと思ったけれど、いっそ荒唐無稽な程の誉め言葉を浴びせて慰めようとする男が、不器用に見えて可愛らしかった。
「おかしいかな」
ケイティの笑い顔を見ながらレンブラントは自身が失敗したと悟り、頬を掻く。真実を言ったまでだったが、言葉選びがおかしかったのだろう。
「大失敗ですよ、あははは」
「はは…そうか…ふふ」
だけどやっぱり、ケイティが思い切り笑い続けるその顔は、世界で一番可愛いとレンブラントは思う。
ひとしきり二人で笑った後で、レンブラントが手を握りなおした。
「誰も居ない…二人だけになる場所?どこがいいかな」
「自分で言いだしておいてなんですが、街中ではなかなか難しいですね。あ、あの路地裏とかどうでしょう」
夕暮れ時は家路を急ぐ人や買い物帰りでどこも人が多い。なるべく人通りの少なそうな路地裏を選んで、入ってみた。綺麗な路地とは言えず人通りはないように見えたが、ひっそりと背中を丸めた老婆が椅子を出して座り、じっと外を見つめていた。
「ダメですね」
「彼女は何をしているのかな?」
くいくい、とケイティの手を引いて、耳元でレンブラントが疑問を口にする。
「ん~…日向ぼっこしていて、そのまま気持ちよくて座ったままとか」
「日向ぼっこってそんなに気持ちいいのかな」
「気持ちいいですよ。したことないですか? あ、もしかして待ち合わせかも」
「したことないなぁ。ずーっと地下で暮らしてたから。あの老婆が今から出かける?」
「お友達とご飯とか…今度日向ぼっこ、しましょうか」
ゆっくりと二人が前を通り過ぎる途中、老婆の側に猫が寄ってきた。老婆はポケットから何かを取り出して猫にあげる。嬉しそうに食べだした猫を、皺だらけの手がしっとりと撫でた。
「すごい、君の当たりだよ」
「猫がお友達」
くすくすと笑い合って、路地裏を去る。
「路地裏はダメだな。公園…も、子供が沢山いる」
「やっぱり難しいですね」
「家にもアンとネロがいるし、よく考えたら全然君と二人だけになれない」
「………」
結局、ぶらぶらと街外れまで歩くことにした。街から外れてしまえば、いくらでも二人きりになれる。
日の暮れた道、二人の横を乗合馬車が走っていく。
「レンブラントさんはお城に住んでいるのに、ずっと地下で暮らしているんですか?」
「ああ。王城でもそうだったから、その方が落ち着く」
「……王城?」
訝し気にケイティが尋ねると、男は爽やかに頷く。
「王城って、王都の、国王がいる?王城に住んでいたことがあるんですか?」
「王城の地下にな」
ケイティは動揺した。地下というのは地下牢とか、何か良くないことをした場合に住まう場所である。さすが魔物だけあって、何か罪を犯したのだろう。
「何か悪いことをして地下にいたのですか?」
「え?いや、どうだろう。悪さはしてないはずだけど。親友も一緒にいた」
「ああ、あの盗みはダメだと言ったお友達ですか?」
ケイティは食べ物を盗んだりしないと約束をした友達の話を思い出す。
「そう!そうだ。アレクは俺に、この国の法律を全部教えた。法律に背いてはいけないと」
「まぁ、法律を。博識なお友達なんですね」
「ああ。アレクは俺に色々教えてくれた。字も、本も、世の中の仕組みも」
「王城で勉強を?」
驚いて月明りの下、輝くように綺麗な男を見上げる。
「レンブラントさんは、なんなの?王族なんですか?」
「はは、まさか!実際は兵隊の一人だな。だけどアレクは俺を兄弟で、騎士で、親友だと」
レンブラントは目を細め、胸の中に満ちる郷愁と共に友を語る。
「そのお友達は、今は?」
「ずっとずっと昔の話だ。人の命は短い」
「…レンブラントさんは、何歳なの…?」
「さぁ、もう忘れてしまった」
風が吹いて、二人の髪を撫でていく。ケイティは髪を抑えるのも忘れて、深い群青の瞳に吸い込まれそうになる。強くて、お城にも住んでいて、なんでも知っている壮絶に美しい目の前の男は、だけど何にも持っていないようにも見えた。
実際に一文無しなのだが。
「ケイティ」
「はい?」
レンブラントが、優しく呼ぶ。
「二人きりになった」
「…ええ、そうですね」
もう馬車も走らず、誰も歩いていない。
「もうピュンと帰る?」
レンブラントが首を傾げて聞いてきて、ケイティも真似をして首を傾げる。
二人はちょっとお互いを見て、レンブラントが細い手を握りなおした。結局そのままお喋りをしながら家路を歩き続けた。
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「ねぇ、レン。ケイティを食べなよ」
「……」
「きっと、美味しいよ…極上の味がする…」
ケイティが仕事に行き、ネロが庭で水撒きの魔術の練習をしている間、机で書き物をしているレンブラントにアンが耳元で魔物らしく囁きかけてくる。
背中に上る小さな身体をポイっと剥がし、レンブラントは無視をして再びペンを走らせる。
「そんなわざわざ手書きでレシピなんか書いちゃって。魔法なら一瞬で終わるのに!それってまさかケイティを大事にしてるつもりとか!?あ~あ~、なんなの?本当は食べたいくせにさぁ!」
「うるさい」
「レ~ン~」
言葉とは裏腹に、アンが椅子に腰かける膝をよじ登り、レンブラントに抱き着いて甘えてくる。
食べたいか食べたくないかと問われれば、食べたいに決まっている。
あんなご馳走を前にして、食べたくない魔物はいない。あの魂を身の内に入れる想像だけで、頭から涎が出るほどに恍惚とするのだ。未だかつて一度も魂を喰ったことのないレンブラントでさえ、ケイティを前にすると時折かぶりつきそうな衝動に駆られた。
「お前、なんでそんな俺に喰わせようとする」
「前にも言った。レンはひとりぼっちだから。けどケイティを食べたら、多分魂が溶けてなくなるまでずっと一緒にいられる。装置に入っても淋しくない」
ケイティの魂は美しくて強い。あれほどの輝きならば喰っても潰えたりはせず、魔物の体内でしばらくは生き続けるだろう。身の内で愛でる魂を想像してレンブラントは震えた。
「俺は…食べない」
「なんで!!」
「…人は、食べてはいけないからだ」
「どうしてさ。人は鶏や牛や魚を食べる。魔物が人を食べるのも同じだよ」
「俺は…。お前らは魔素があれば十分に作っただろうに」
「それでもケイティがご馳走であることに変わりなんかない!僕だって齧りたいくらいなんだから。ねぇ、レン、食べなよ」
レンブラントは少し怒った顔をして首を振る。
「いい加減にしろ。食べない。どうしてケイティを連れて装置に入る必要がある。俺はお前達がいるから良いんだ」
「………」
アンはしょんぼりとして、膝を降りる。
「もうネロの学校が始まる。レンと僕が城に帰るのはすぐだ…レンの長い生も」
「そうだ。やっと」
レンブラントは立ち上がり、窓の外でびしょ濡れになっているネロを見つめる。ネロが視線に気が付き、楽しそうに手を振ってくる。
「あんな、宝物みたいな魂なんだ…誰にも汚されずにケイティは輝き続けて、ネロと幸せになって、老いて、また生まれ変わればいい。俺も何層も護りを作った。ネロもいる」
「レン」
「泣くな」
長い腕が、小さな身体を抱き上げる。
「今度はケイティの願いを叶えるつもり?」
「ああ。気が付いたんだ。彼女の願いを叶えることが俺にとっての幸せなのかもしれない」
「それが幸せなの?」
「こんな気持ちは初めてなんだ。魂もそりゃ綺麗だけど…ケイティが笑うともっと綺麗だ。ずっと笑っていて欲しいって思うから」
葉っぱのような小さな手のひらがあてた温かい胸からは、アンが予想していなかった温かくて満ち足りた気持ちが流れ出てくる。
ああ、レンは…
アンは初めてホッとして、涙を流した。
自分の主人がこんな気持ちを得てくれたなら、思い残すことはない。
「よかった…よかった、レン」
大きな手が黒髪を撫でる。
レンブラントは穏やかな顔をして、アンを腕に抱きながらまた机に向かった。