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ケイティが仕事に向かった後、レンブラントは古い家を見渡した。
とんでもなく古い。歩けば床がたわみ、隅の方には何かに齧られたのか穴が開いている。二階の天井には染みがあり、その染みは壁にも広がる。雨漏りしている様子だった。
「………」
ご飯、美味しかったなぁ、と思い出す。
食べたことのない味だった。
王子と食べた食事も美味しかったが、ケイティの食事はどこか狩人を思い出させた。狩人の出してくれた小さな温かい椀。それはレンブラントが生涯忘れることのない味である。
ケイティはパンもくれた。
この家や仕事をしている様子を見る限り、きっと暮らしも貧しいのに。
「ネロ」
「なぁに」
「ケイティが困っていることはなんだ。俺は飯を食わせてもらった恩がある」
「困ってること?う~ん…」
ネロは唇を尖らせる。足りているものより足りないものの方が多すぎた。何だとあえて尋ねられると困る。
「じゃあ、これはママが困ってるというよりも僕かもしれないけど、しょっちゅうママを狙って悪い奴らが来るから困るよ。床の穴とかからも入ってきちゃうんだから」
「なぬ」
「あの隅の穴からぶっとい角が出てきたときには僕おわった、って思ったことある。角の生えた蛙だったから助かったけど。雨の降った後にズルズルの変なのも天井から来たこともあるよ。ママの身体に巻き付いて取るのが大変だったんだ。ママ、本当にモテるから」
「アレは仕方ない。お前、力の使い方もわからないのにちゃんとママを護れていてすごいな」
レンブラントが頭を撫でてやるとネロは喜んだ。
「本当に!?」
「ああ。だけどお前ならもっとうまく使えば色んなことができる力がある。まずはその中の奴をちゃんと支配下におかないとなぁ」
「どうするの?」
「城に帰るまでおしえてやろう。ケイティへの礼もしたい」
「お家に帰っちゃうの?遠い?」
「アンはまだ帰らないよ!!」
ぷくりと頬を膨らませたアンをぎろりと睨むと、レンブラントがちょいちょいとアンを呼ぶ。
「なんもしないから、ちょっと来い」
ネロの部屋を借りて二人きりになり、床の上で座り込み向き合った小さなアンは開いたままの動物図鑑を横目に見ている。
「もう無理に連れて帰らない。そろそろ話しても良いだろ?なんで城を出た」
「………」
「何がそんな悲しい。俺はお前を絶対に連れて帰る。お前は特別だから、上手くサポートもしてくれる。一緒に装置に入りたい」
「それだよ」
「え?」
「ねぇ、なんでレンはあの幸せ装置を作るの」
なぜ今更そんな質問をするのかと、レンブラントは眉を上げる。
「王子との約束だから」
「でもその人、死んで随分経つし、約束だってレン以外誰も知らないってイーサンが言ってたよ。約束を守る必要がない」
アンはレンブラントに内緒でイーサンから見せてもらった過去の出来事を思い出す。自分の主人は馬鹿だと思った。
「ん~…まー、それはそうだなぁ。でも俺が約束を履行したいんだよ。親友との約束なんだ。頼まれた!」
「親友…親友って、そんな途方もない頼みをしてくるの?装置に入ったら僕たちはずーっと眠るように生き続けるんでしょう?」
「それは俺が途方もない力を持っているから。俺にしかできない」
「…………百歩譲って、装置を完成させるのはもう良い…と言うよりどうでも良いけど…僕が納得いかないのはレンだよ」
「ん?」
アンがじっとレンブラントを見つめ、膝立ちになって目線を近づける。
「僕達は良いんだ。僕もハイもサムも…ネイフンまでみんなみんな、レンがいれば。僕らは始めからレンのものなんだもの。レンが僕らを作ったんだ、レンさえいればいい…だけど、レンは違う」
何も感情を浮かべない群青の瞳が、アンの言葉を聞いている。
「結局僕らはレンの一部でしょう?だとしたら結局装置を動かすのはレンひとりなんだって、気づいたんだ。ねぇ、レンは永遠の時間をたったひとりで生き続けるつもりなの…?」
「……寝ているんだ。寝ていれば何人いようがひとりだ」
金色の瞳からぽろりと涙が零れる。
「僕はそんなのいやなんだ。僕にはレンがいる。だけどレンには?レンの一生は王子の為に使われて、今度は死んでからもずーっと顔も知らない人達のために使うの?」
「別に使われてなんかない。お前、死ぬのが怖いのか?そんなに長く生きて…第一、死ぬわけじゃない。装置に入れば全自動だし」
生きているよりずっと楽だ。レンブラントは思う。
「違う、そんなんじゃない!レンが一緒なら死んだって良いんだ」
こぼれる涙を小さな手のひらで拭いながら、アンが首を振る。アンは主人の側にいれば、それだけで他に何も要らなかった。だけど自分の主人はその気持ちを知らない。この幸せを一度も経験したことがない。
「レン…ケイティを食べなよ」
「は?食べる訳ないだろう。俺は人は食べない」
レンブラントの呆れたような声が降ってくる。
「本当は食べたい癖に!!」
「アン」
「僕は納得いかない!だから帰らない」
「………」
「だけどレンもここにいて?僕を置いていかないで。勝手に帰って僕の代わりを作らないで!!」
アンが胡坐をかいたレンの膝の中に座り、ぺたりと体温のない背中を腹につける。
「はー…なんだ我儘な。わかった、帰る時はもちろんお前も一緒だよ」
大きな手が小さな背中を優しく撫でる。アンは再び涙を拭った。
****
その日のケイティの仕事は病院での清掃だった。ネロの件でよく病院通いをするようになってツテが出来、紹介で働いている。病院の清掃は普通の掃除よりも細かく手順も多いので給料が良かった。
廊下や机、フロアの掃き掃除の後で拭き掃除、さらに消毒、天気が良ければ屋上で消毒した布類を干す。今日は天気が良かった。
陽の光に透ける包帯がたなびく様子を見ながら三角巾を取り、クルクルと巻いてポケットにねじ込む。
夕方からの午後の診察が始まるまでの仕事はあらかた終わった。少し休憩するのに、屋上の端で座り込んだ。考えるのは、もちろん昨日の夜からの出来事。
こうして日常の仕事に戻ると、本当に夢だとしか思えなかった。
帰ったらいつものようにネロはベッドの中で億劫そうな顔をしているんじゃないかしら。
だけど鞄の中にある造花と交換した手間賃が現実なんだと教えてくれる。
レンブラントとアンは家に帰ったらまだいるのだろうか。
治癒を信じきれない思いと期待が綯い交ぜになり、二人への礼がまだ出来ていない。心から礼を言いたいのは山々だが、いかんせん数年にわたる苦労が大き過ぎた。癖になった心配はこびりついて剥がれてはくれなかった。
もし、本当にネロが強い身体を手に入れたとしたら。
ドキドキしながら、ケイティはほんの少し想像してみる。
まずはネロを学校に行かせてやりたかった。まだ半日しか行ったことがないのだ。熱を出して寝込み、それから医師の許可なく登校しないように言われた。勉強して友達と遊んで、走り回って楽しんでほしい。
そうしてもう少し逞しくなったら、ケイティも掛け持ちではなくキチンと手に職をつけて働いてみたかった。十六でネロを産んで以来、その時できる仕事しかしてこなかった。社会経験は長いが自分には専門性や知識がない。いつまでも体力も続かないだろうから、ネロが巣立った後、年寄りになっても危なげなく続けていける仕事に就いておきたかった。自分はこの先もずっと独り身だろうから。
出席は叶わなかったけれど、かつての同級生から結婚式への招待もあった。そういう友達は大体みな今頃から出産を迎える。
ケイティが子育てと仕事に忙殺されている間に誰かと出会って恋をして、結婚をして。
包帯が隣の包帯と踊るように舞う様子を眩しく見つめて、ケイティは想像をやめる。
立ち上がって尻を払い、階下に戻って備品の確認の仕事を始めた。
夜を前に仕事を終え、病院から出た所でケイティは驚く。
「レンブラントさん!」
歩道に立つ木にもたれて、レンブラントが立っていた。
「ああ。迎えに来た」
「誰をですか?」
「君に決まってる」
そう言われるとそうだろうが、ケイティは何と答えていいのかわからない。
「あ…りがとうございま、す?」
「なにが?」
「………」
二人で首を傾げ合って、まぁとにかく帰ろうと促し合う。
「夕飯の買い物をして帰ります」
「ああ。必要はない。アンがネロと作ってる」
「えっ」
そんな子供たちに料理を!!
と思ったが、アンは二百五十歳だったのを思い出した。
「あ~、大丈夫。激辛はやめろと言っておいたから」
「ふふふふ…」
なんだか妙におかしくなって笑いがこみ上げてくる。あんな小さな子が自分より背の高い台所で一体どうやって食事を作っているのだろうか。想像もできなかった。
「おかしい?」
「だって、アンの背が届くかしら?」
「んー…足だけ長くするか鍋やフライパンを遠隔操作するかどっちかだな」
「足だけ長く!?」
「うん。できると思う」
想像して肩を揺らすケイティに、レンブラントもつられて笑う。
「他に寄り道するところは無さそう?」
「そうですね、そういうことならありません」
じゃあ帰ろうか、と横を歩いているレンブラントがケイティの腰に手を回した。
え?もう帰っている途中ですよ、と言いかけたケイティの目の前にレンブラントの鎖骨が来た瞬間、二人は家の玄関扉の前にいた。
「えっ」
「あ、そうだ。家を新しくしておいた」
「え?」
ほら、と薄暗い夕方の中、指差された目の前の家をケイティが見上げる。
ケイティの家は、役所でタダ同然でもらい受けた空き家である。街の中心から離れた近隣住民のいない一軒家で、若い母親を噂したり詮索したりする者もいない、ポツンと立った家。通りからも外れているので泥棒も気づかない。気づいたとして入る訳もないくらいボロいのだが。
だが今、ケイティの目の前にはどう見ても高級な造りの立派な豪邸が立っていた。
「…レンブラントさん、まさか、またあの造花みたいに」
群青の瞳が頷く。
「パンの礼だ」
「え~~~~~~っ!!」
惣菜パンへの感謝には大きすぎる御返しにケイティは開いた口が塞がらない。
「ちょっと、ちょっと待ってください」
「気に入らなかった?やっぱり本人に聞くべきだったな。南国風とかにしようか?」
「えっと、違う違う、そうじゃなくて! その、これじゃあパンと釣り合わないわ」
「確かにそれは思う。だけど最初に城に作り替えたらネロにそれはやめておけと」
「あなたの中で惣菜パンの価値はどれだけなのよ!」
「この家以上の価値がある」
「そんなわけ……こんなの、私、逆にお礼を返せないわ」
「お礼にまたお礼なんかしていたら終わらないだろ」
「いやだって」
言い募ろうとすると、はたとレンブラントがケイティを見た。
「…あー、つまりそうか。嬉しくなかったかな」
しょんぼりして気が付いたと言わんばかりに肩を落とす男にケイティが慌てる。
「まさか、そんな!ううううれしい、嬉しいですよ!」
「そうか?それは良かった!!中もケイティが好きそうだって聞いた内装にしておいた。床の穴はもちろんない。家から半径五十メートルは魔物も許可なく入ってこれないように守りもかたくしたし、家中どこを歩いてもフカフカ、転んでも大丈夫。風呂も年中温泉を引いてきて一日中入れるし、ダイニングテーブルも何皿でもおけるし、ベッドもみんなで寝れるくらい大きくした!」
「………」
「ケイティ?」
またもや固まって動けなくなったケイティをレンブラントが嬉しそうに抱っこしようとするので、ハッとして飛び退る。ちょっと唇を尖らせた男が先に立ちドアを開ける。
「ともかく入ろう。おかえり、ケイティ」
「……た…ただいま…」
いや私の家なんだけど…思いながら戸をくぐり、見渡して眩暈がした。
立派な玄関には大きな姿見、クロゼットが備え付き、良い匂いのする花がキラキラした花瓶に生けられ出迎えてくれる。
かつては薄暗く、人が一人動けるくらいだった小さな玄関はどこにもない。
「おかえり、ママ!」
「おかえり、ケイティ~!」
手を繋いだ二人がパタパタと出迎えに来てくれる。
玄関への感想は後回し、抱き着いてくる二人を抱きしめて頬にキスをする。
「ただいま!二人で夕食を作ってくれているって聞いたわ」
「そうだよ、辛くないよ!!」
「僕も手伝ったー!アンね、料理について色んなこと知っていて切るのも一瞬だし、あっという間に作っちゃったよ」
「ふふん!」
「それはすごいわね。でも何を作ってくれたのかしら。野菜は庭にあるけど、大したもの家にはなかったでしょう」
「レンが保存部屋を作ってくれて、いっぱい城から運ばせたから食べ物一杯あるよぉ」
「そうだよ、ママ。なんかすごくひんやりした部屋なんだ。入れると魔術が動いて野菜とか肉とかの時間を止めてくれるんだって」
「どういうこと?」
「見ればわかるよぉ!」
呑気なアンの声にレンブラントを振り返ると、『いいなぁ、アン』と言いながら男はじとーっと小さな生き物を見ている。
玄関から広い廊下を歩いて扉を開くと居間だった。これまでは仕切りもなく居間に玄関が付いてるくらいだったが、居間にはスプリングの効いたソファに大きなローテーブル、猫足のチェストに気の利いた絵画、壁沿いに続く長い掃き出し窓、透かし編みのレースのカーテンに厚みのある美しい模様と色のカーテン…
「庭も新しくデッキを作ってもらったんだ!外でご飯が食べられる!ほら、見て」
掃き出し窓を開けると木製のデッキが続き、屋根が伸びている。ここにもダイニングテーブルセットが置かれ、食事ができた。
「まぁ…」
庭まで整えられ、細々と続けていた家庭菜園でさえレンガで区切られ柵も立ち、暗闇の中でも豪華に見える。
台所も風呂場も、数が増えた居室も全てケイティが感想も持てないほどの仕上がりだった。台所の奥にある保存部屋はその空間に食べ物を入れるだけで永遠に食べられるという。
「あの惣菜パンの値段を言いましょうか?」
ケイティは首を振りながらレンブラントを見上げる。
「ケイティ、金じゃない。現に俺は一文無しだ。あの時君が声をかけてくれて、パンをくれて…だからアンも見つかった」
「そんな意味のない一文無しは聞いたことがないわ。だいたい、こんなことまで出来るのにどうしてあの時あんなにお腹がすいていたんですか?食べ物の一つや二つ、いくらでも手に入れられたでしょう?」
「元から有るものなら大概のことはできると言ったが、俺は盗みや無銭飲食はしない。それは友との約束だから」
レンブラントがどこか自慢げに言う。
「そう。それは素敵なお友達ですね」
ふふふ、と笑いつつ褒めると、レンブラントが驚くほどに嬉しそうな顔を見せた。
「そうだろう!? ケイティ、君は話が分かる!!」
「あ~~っ!レン、ずるい!!」
レンブラントが腕を広げてぎゅーっとケイティに抱きつく。アンが横からケイティにくっ付いて、ネロがそんなアンにくっ付く。男の腕の中にすっぽり入ったケイティは目を白黒させた。一体いくつなのか知らないが、子供みたいな人だと思う。
「なぁケイティ、家はどうだった?」
ケイティを腕に閉じ込めたまま、レンブラントが頭の上で尋ねてくる。
「…ありがとう、レンブラントさん。とっても素晴らしいお家です!お返しがもう本当に何もできないくらいに、すごく嬉しい」
「じゃあ、パンと同じだ」
するすると腕を解いたレンブラントがはにかんで、よかった!と言った。
ケイティはそんな少年のような笑顔を見て、困ったような笑ったような顔で返した。
それからアンが作ってくれた異国の料理を食べた。いったい何を食べているのかさっぱりわからない品々に三人ともお腹を抱えて笑い、ケイティも久しぶりに少しお酒を飲んで楽しんだ。
「何から何までありがとう…本当にすごく…贅沢な良い思いをさせてもらったわ」
夢みたいな夜だった。
もう夢でもかまわないとさえ思う。それくらいに現実味のないパーティだった。
「あとはこれで…本当にネロがずっと元気でいてくれさえいれば」
「僕はもう元気だよ!ずーっとね」
「そう?」
その願いさえ叶っていれば、今この瞬間に目が覚めたって感謝しかなかった。
白ワインの入ったグラスを呷って、レンブラントがケイティに尋ねる。
「ケイティ、なにか困っていることはない?」
「困っていることですか?う~ん…特にないですね」
「そうか。じゃあ、何か願い事は?」
「願い事ですか?」
ネロとアンがわくわくしながらケイティを見る。
「私の願いは、ネロと幸せになることです」
レンブラントとアンが、その答えに顔を見合わせた。
「ママ、よく言うもんね、それ」
「そうか。それは良いことを聞いた」
「? そうですか?」
「ああ、良い願い事だ」
ほんの少し酒の入ったケイティが、なぁにそれ、とクスクス笑う。
「ケイティ、もう少しこの家に居ても良いかな?」
「良いも何も、この家はあなたが作った家じゃないですか」
少なくともケイティが貰った家ではもうなかった。
「少しネロに教えたいことがある。それが終わったら、アンと一緒に帰るよ」
「ええ、わかったわ」
「やったぁ!長くいてね、父さん!」
それから大きな風呂にケイティを除いた三人が入り、続けてケイティも信じられないくらいに気持ちの良い湯に浸かる。風呂には冗談みたいにライオンの口から湯が噴出していた。見たこともないが、王様の入るお風呂はこんなんではないだろうかと思う。
風呂が終わるとアンに手を引かれ、大きな家の中でどの間取り辺りかもわからぬ一室、長く長く横に伸びた巨大なベッドに放り込まれる。
「ママ、皆で寝るんだよ!」
「えぇ…私も?」
「アンはケイティの隣で寝る~!」
「僕も僕も」
長いベッドなのに意味がないくらいにひっついて、雲の上に乗ったような心地で横になった。
レンブラントはアンの隣、もう少し向こうで大の字になってもうほとんど寝かかっている。
皆がおやすみなさいを言うと、レンブラントがぱちんと指を鳴らした。灯りが消え、心地いい暗闇と静けさが部屋を包む。
四人はぐっすりと眠りに落ちた。