十話 約束。
孝介は異世界での冒険が始まった。
これだ。この感覚だ。思い出した。
勝手に力がみなぎってくる。無根拠に勇気が沸いてくる。今なら世界をこの手で救えそうな気すらしてくる。あの地獄を経験していなければ素直に受け入れられたのだろうか。脳裏にふとユキトとハルキがよぎる。さっきまで膝に手をついて冷や汗を流していた自分はどこへ行ったのだろう。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
やめてくれ。これは俺じゃない。俺の姿を借りた別の勇敢な人間だ。
そして、また脳内に声が響き渡る。
「さぁ、コウスケよ。この世界を救いなさい!」
誰だっけ。確か、天使の人とか。
「私は大天使ガブリエル。あなたを見守る者です。私と話したいときは心の中で私に語りかけなさい。」
孝介は言い切るよりも前に質問をする。
「あの、突然勇気や力がみなぎってきて、これは一体。」
「勇者の力です。貴方は勇者に選ばれたのです。私が授けたその力で世界を救いに行きなさい。」
勇者の力、この気持ち悪さの正体は勇者の力らしい。
「あの、やめてもらえませんか。」
孝介は恐る恐る、ガブリエルに物申す。
「何の事でしょう。」
ガブリエルは動じずに、質問をする。
「この感覚、気持ち悪いです。本当すみません。これだけ何とかしてください。早く。お願いします。」
早くしないとこの力を受け入れてしまいそうだった。皮肉な事に、勇者の力が孝介には悪魔の囁きとしか思えなかった。
「……分かりました。では勇者の力の一部を返して貰いましょう。その代わり、残りの勇者の力で世界を救いなさい。」
こいつそればっかだな。と若干苛つくも、早くこの気持ち悪さから逃れるために、首を縦に振る。
間もなくして、スッと元の感覚に戻る。思い出す。この世界に飛ばされてきた事への恐怖心、戸惑い。しかし、自分が戻ってきたという若干の安心もあり、孝介の心情は混沌としていた。
「あの、」
心配そうに見守っていた少女が声を掛けてくる。
「もし体調が優れないようでしたら、私のお城で休養を取られては如何かしら。」
「おぉ、そうですとも!姫様をこのまま何も恩を返せぬ恥知らずにするわけにはいきませぬ!是非とも、私どもの城へ。」
執事らしき老人が付け加えて提案に賛同する。
言われるがまま、城へ向かう。城へ着くと、この世界では魔王の支配に世界が滅ぼされようとしている話、孝介が救世主であるという話、その他、勇者が旅をする物語に出てきそうな話をこの異世界でももれなく一通り聞いた。
創造主がご丁寧にお膳立てしてくれたのだろう。何一つ疑問を抱くことなく、ありふれた旅が始まるようだ。現に、明日には何の不自由もなく旅立つ準備がオートマチックに進んでいく。
「私も行くわ!」
どうやらこの姫様、名をマリスもついてくるらしい。
こうして、勇者コウスケの旅は始まった。旅の内容については語るまでもない。どこかのアニメや漫画で見たようなよくある出来事がコウスケの身にも起きているに過ぎなかった。旅の途中、何人か仲間になる者も居た。仲間になる者は皆、優しく、強く、気さくで愛くるしかった。だが、コウスケは完全に心を委ねるようなことはしなかった。勇者の力の権能の一部を消してもらったという事が大きく影響してはいるのだが、何よりもここから次に向かう可能性のあるあの世界が脳裏にチラつくのだ。
孝介のこの予感は正しかった。
旅が始まって、元の世界でいうところのひと月は経った頃だろうか。ある村の農作物を食い荒らす魔物を退治しに向かおうと仲間で作戦会議をしている最中、コウスケは喉の渇きが気になり、コップに手を伸ばす。
そしてその時、一瞬にして意識を失う。
孝介はこの異世界に来てから、こうなることを薄々感づいていた。というよりも、そうなることを想定していた。別に何か心当たりがある訳ではなかったのだが、ただ、またあの地獄へ飛ばされた時の心構えをしておかないと心が耐え切れない気がしていた。幸いなことは、孝介が再びあの地獄へ飛ばされるのは、この異世界へ来てからまだ日が浅いことであった。すなわち、まだ心構えが薄れず、異世界に洗脳される前であった。
しかし、一つだけ孝介が予想していなかった事が起こる。
ゆっくりと目を覚ます。そこは薄暗い世界ではなかった。むしろ眩しい、白い。しかしどこか見覚えがある。ゆっくりと体を起こすと、聞き覚えのある声がする。
「また来たのね。」
懐かしい。名前はウグイスだったか。確か俺が付けた名前だ。
ここで、孝介はまた地獄に戻ってきたことを明確に実感した。覚悟はしていたものの、孝介自身、もう少し慌てるものかと想定していたが、思いのほか取り乱す事は無かった。突然の事だからだろうか、それとも、予め覚悟をしていたからだろうか。
「あれ、なんでここに。」
この白い部屋は確かエネミーを倒した後に来られる部屋だったはず。最初に飛ばされるのは、そう、最初からあの薄暗い世界に飛ばされるはずだ。
その疑問にウグイスが答える。
「今回は飛ばされる人が多いから時間がかかるのよ。その待っている間に呼んでみたの。残念だけど、創造主がまたあなたのいた世界を放棄したようね。あまり2回飛ばして2回放棄する事はないのだけど。……意外と冷静ね。」
「おぉ、久しぶりだな。自分でも驚いてる。きっとあそこに行ったらすぐこんな余裕は無くなるさ。」
と、孝介は軽く笑いながら悪態をつく。
「何か用でもあるのか?」
孝介はウグイスが本当にただ本当に暇でここへ呼び出した訳ではない事を察した。事実、オーダーが始まる前に激励の言葉をくれるものの、その後はアナウンスに徹底しており、それほど漂流者に関心が無いように思われた。
何より、ずっと孝介に何か言いたげにしている。
「いや、別に、特別に何かあるっていう訳でも無いんだけど。」
そう言いながら、黙示的にもっと掘り下げてほしいとアピールしていた。
「いいよ。正直に言ってくれ。」
孝介にそう言われると、ウグイスは真っすぐ孝介を見つめて、口を開く。
「ここに来た人たちを救ってあげて欲しいの。あなた2回目でしょう。勿論、自分が生き残るだけで精一杯なのは分かってる。でも、でも、もし、手を差し伸べてあげられそうなら、そうしてあげて欲しいのよ。」
「なんでそうして欲しいんだ?」
孝介は率直な疑問をぶつける。こんな凶器に満ちたゲームの進行をしておきながら、全く矛盾したようなことを言っているのだ。当然理解できるはずもない。
少し沈黙したあと、何かを決意したように、ふーっと深く息を吐く。
「前に、あたしがここでアナウンスするために生まれたって言ったわね。それは事実。ここであんなアナウンスをする事だけがあたしの唯一の使命。だけど、あたしだって見たくないのよ。こんなの。こんなもの見るくらいなら生まれて来たくなんてなかったわよ。ほんと、誰が生んだのかしら。」
そう言うと、悲しそうに少し俯く。
無理もない。彼女に唯一与えられた使命は、ここで惨劇を見続け、その惨劇の進行を告げる事なのだ。孝介は黙ってしまった。何か考えがある訳でもない。何と言ったら良いのか分からなかったのだ。
それを見て、ウグイスは孝介の無言に答える。
「ごめんなさい。無理なお願いだってことくらい分かってるわ。まずはあなた自身が生き延びる事優先するのよ。こんなところで死んでしまったら、死んでも死にきれないわ。」
孝介は、こんなところにずっと閉じ込められる使命を負っている子が言う台詞か、そんな境遇で人の事心配するなよ、お人好しめ。と、ウグイスを見ながら少しにやけてしまう。ウグイスが、なによ。と少し警戒したように言う。
「いや、すまん。お前、意外と良い奴なんだな。キレると超こわいけど。」
はあ?とウグイスは驚いた顔をしていると、孝介は言葉を続ける。
「とりあえず頑張ってみるよ。勿論、無理のない範囲でだけど。俺も目の前で人が死ぬところなんて、もう見たくないしな。でも無理はしないからな。」
そういうと、
「そう。お願いするわ。期待してる。」
ウグイスは孝介を真っ直ぐ見つめ、はっきり笑って答えた。
初めて見るウグイスのはっきりした笑顔に、孝介は照れる。特に恋愛感情がある訳ではないが、容姿の整った女性に真っ直ぐ笑顔を向けられたら、男なら誰しも惹かれるものがあって無理はない。
すると、ウグイスは何かを感知したかのように、ふと真顔になる。
「そろそろ時間のようね。」
「そうか。じゃ。」
孝介は端的に挨拶をすると、ウグイスは、うん。と頷く。
それを見届けると、孝介の意識は切断された。