68.「誰か」、或いは「あなた」でなければならない理由・後
楽士長が入ったのは大会議室の隣の部屋だった。
少人数用の応接らしく、中央に三人掛けのソファが対で置かれている。布地は織で、とりどりの色糸が複雑な文様を描いていて美しい。間には低い卓が置かれ、磨き上げられた飴色が見事だ。
窓の向こうでは、雨足が強まっていた。
風に煽られて叩きつけられる雫が、ガラスを伝い落ち景色を歪ませている。時折ばらばらと響く音に真澄が気を取られていると、「かけなさい」と楽士長が手前側のソファを指差した。
反対側に楽士長も座る。
彼女は制服の胸元から一通の便せんを取り出し、それを飴色の卓にそっと置いた。
「スヴェントからあなた宛の手紙です」
薄い琥珀色の便せんを、楽士長の指がとん、と叩く。
「いかに選考会首席とはいえ、特筆など前代未聞のことです。私は最後まで通常の評定を渡すべきだと主張しました」
「一出向者のスヴェントさんに、そこまで力があるとは私も思えませんが」
「イアンセルバート様が特筆を許可されました」
「イ……、誰?」
「宮廷騎士団長です」
楽士長の手が卓の上を滑った。
便せんが真澄の前にくる。読んでいいということだろう。楽士長を窺うと一つ頷いたので、真澄は便せんに手を伸ばした。
縁がせり上がった円の中、美しい鐘をかたどった封蝋が施されている。
親指に力を込めると封蝋はいとも容易く割れた。中から手紙を取り出して開くと、そこには流麗だが見慣れない文字がずらりと並んでいた。
ゆっくりと字面を追っていく。
発音などは分からないが、それでも不思議と文意は頭の中にしっかりと伝わってくるのだった。
いっそ分からなければ良かったのにと思うほど残酷に。
並ぶ言葉は見知らぬ顔ぶれのくせに、彼らはあたかも真澄を昔から知っていたかのように、いっそ的確に鋭利に真澄をえぐった。
他の追随を許さぬほど完成された技術は、孤高の高みにあって何人たりとも寄せ付けない。けれど同時にそれは、誰が相手であっても一切の変化が現れない呪いでもある。
手紙にはそう書いてあった。
「あなたがヴィルトゥオーソであるのは紛れもない事実です。誰も否定などできない。他の楽士と同じ尺度で――評定で見たのならば、ほぼ全ての項目で十だった。けれどそれではいけないのだと、スヴェントが具申にきたのです」
頼まれても研究機関から出たがらないあの彼が、日を改めて、わざわざ。
淡々と楽士長が言った時、部屋に鋭い光が走った。
はっとして真澄は窓の外を見る。少しの間の後、雷鳴が轟いた。
「魔力とはなにか。代々それを研究してきたスヴェント家は稀代の魔術士を数多世に送り出してきた。伝統と歴史ある一族ですが、古い研究文献の中にあなたと同じような楽士がいたそうです。そしてスヴェントは危機感を抱いた」
「……なぜ?」
「その楽士が壊れてしまったからです」
再び雷鳴が空を駆けた。
「誰でも変わらないとは即ち、誰の特別にもなり得ないということに他なりません。引く手数多であったその楽士は己の存在意義を最後まで信じられぬまま、誰の手を取ることもできずに、けれど楽士ではない生き方も選べずに、死にました」
わずか数秒で語られる凄惨な一人の生き様。
遠い昔、それも他人のことだと切って捨てるには、真澄には重すぎる話だった。
「武楽会に関してならば、特段の懸念はありません」
切り替えるように楽士長が真澄に視線を戻す。
「昨年の楽会はレイテアに後れをとりましたが、あなたを含めて今年の陣容は厚い。あるいは現時点でも十二分に勝てる実力はあると見込んでいます」
だからこそ特筆の許可が下りた。
背景を説明した楽士長は、そこで居住まいを正した。伸ばされた背筋に決意が浮かんでいる。その様子に、真澄は便せんを握りしめた。
「武楽会の憂いはない。ですから、ここから先は一人の楽士として話をします」
はいともいいえとも真澄は言えなかった。
手紙を握りしめた手が冷たい。他人事のように考えながら、真澄は楽士長の言葉を待った。
雨は降り続いている。
昼間だというのに暗い室内は、たった一つの光球で頼りなく照らされている。かろうじて互いの顔が見える程度だ。そんな中、楽士長はゆっくりと口を開いた。
「あなたは人を好きになったことがありますか」
がたり。
強く吹きつける風に、窓枠が悲鳴を上げた。
「率直に言います。あなたの音には感情が見えません。いつでも揺るぎなく安定していて、それはほとんどの楽士が到達し得ない遥かな高みであることには違いない。けれど、だからこそ際立つのがその遠さです。あなたを貶めようとしているわけではありませんよ。伝わりますか、私の言いたいことが」
「そうですね、……そうかもしれません」
真澄は小さく笑った。
「同じことを以前も言われました」
「前も……ということは、やはりあなたは誰かを想って弾くことはない?」
「逆に訊きます。その誰かがこの腕をどうにかしてくれるのですか。想うだけで技術が身に付くとでも?」
「いいえ、そういうことではなくて」
「誰かを想わねばまともに弾けないのなら、それはヴァイオリニストなんかじゃない」
頑なな真澄の声に、楽士長が目を瞠る。
だが真澄は喉にせり上がる言葉を止められなかった。
「感情の見える見えないがそんなに大事ですか」
さらに強く手紙を握りこんだ左腕に、痛みが走る。
「楽士の価値は回復できるか否かなのでしょう。ただの補給線にそこまで求めるなんて滑稽でしかないと思いますが」
「……ただの? 専属相手にも同じことが言えますか」
「言えない方が驚きです。たかが専属、替えなんていくらでもいる」
「あなたは唯一を望まないのですか。打ち捨てられても構わない、と?」
どちらも剥き身の主張だった。
両者が黙り込む。
ざあざあと降り続ける雨音が部屋に押し寄せる。耳障りな音に顔をしかめながら、真澄は飴色の卓をずっと見ていた。
唯一とはなんなのだろう。
誰かのために弾くことは己の生涯を懸けるに値するのか。考えても真澄には分からなかった。今の真澄が知っているのは、自分が特別な存在などではないというただその一点に尽きる。
熟考の果て、それが端的な一言に現れた。
「……構いませんよ、使い捨てでも」
正直な真澄の気持ちは楽士長の顔をくもらせた。
それまで合っていた視線を外し、彼女はそのまま考え込むように視線を落とす。尚も言い募ろうとしないあたり、説得をしたいわけではないようだ。
戸惑いがにじむ瞳が閉じられる。
沈黙の部屋で、真澄は未だ握り締める自分の手を見つめていた。
「確かに、奏でる理由など人それぞれです。自分のそれを他者に強要するなど不躾ですし、楽士はなべて自由であって然るべきです。トードー、あなたはどこまでも正しい」
言い切った後で楽士長がゆっくりと目を開けた。
「正しいがゆえに、あなたの音は揺るがない――凍りついているのでしょうね」
楽士長が立ち上がった。
「いずれにせよ、すぐに結論の出る話ではありません。もう少し考えてみるように」
それ以上続けるような真似はせず、楽士長はあっさりと出ていった。
真澄が一人残された部屋には、雨音だけが響いていた。
* * * *
どれくらい座り込んでいただろうか。
控えめなノックが背中で鳴り、次いで扉が開き、閉じられる音がした。敷かれているえんじ色の絨毯のせいで、足音は聞こえない。
真澄がソファに座ったまま動かずにいると、来訪者は後ろから声を掛けてきた。
「なんの話だった」
簡潔な問いはアークのものだ。
飴色の卓を見つめたまま、真澄は答えた。
「評定の話よ」
「どうだった?」
「悪くないわ。ほとんど全部の項目に十をもらったみたい」
「ふうん」
会話が途切れた。
背中を向け続ける真澄に、多分、アークは何かしらを感じ取っているだろう。だが分かっていて尚自分から振り向けるほど、今の真澄に余裕はなかった。
次の言葉が見つからない。
真澄が黙り込んでいると、部屋がふわりと明るくなった。幾つかの光球が卓に映りこむ。アークが出したらしいそれらは、ゆっくりと宙を漂った。
そして気付けばアークが窓枠に背中を預けて、真澄を見ていた。
「他には?」
腕組みをしながら鋭い視線が飛んでくる。
「事と次第によっては、第四騎士団総司令官としての抗議も辞さない」
「抗議だなんて、そんな大げさな」
「ならその蒼い顔の理由を説明してもらおうか」
強い詰問口調に、アークの心配と苛立ちが現れている。真正面に座らないのは配慮だ。今の状態で目が合えば、物言いと相まって相手を萎縮させると分かっているのだろう。
まるで他人事だ。
ひどく冷静に自分の置かれている状況を分析しながら、真澄は慎重に言葉を選ぶ。
「私と似てる楽士が昔いたんだって」
ぽつり。
雨だれの一言に、相槌はなかった。
「その楽士は誰の専属にもならないまま、若くして亡くなったみたい」
「そいつのどこがマスミに似てるんだ」
「さあ、私も会ったことないから。でも多分、出す音が良くないんだと思う。硬い……ううん、凍った音だって言われたから」
「……楽士長か」
「待ってアーク、行かなくていい」
舌打ちと同時に腕を解き歩き始めようとしたアークは、そこで動きを止めた。険しい顔は変わらないが、それでも真澄を待っている。両肩に圧し掛かる倦怠感に抗いながら、真澄はどうにか続けた。
「あなたに恥をかかせてしまう。だから行かないで」
「お前に関して俺が恥ずべきことなど一つもない」
「そんなに買い被らないで、お願いよ。事実だからしょうがない」
「……凍っている、というのが?」
抑えた相槌は、いつものアークと違っていた。
同時に真澄自身もいつもとは違う。測りかねる距離に戸惑いを隠せない。かといって途中でやめるような器用さも持ち合わせてはいなかった。
「二人目だもの。否定のしようがない」
真澄は額に手を添えた。
どこに行っても自分は同じ。
当たり前だ。
言われてすぐに変われるのなら、最初からそうなっている。それができていれば自分はここにいなかった。どんなにあがいても変われなかったから、今の自分があるというのに。
今さら涙など出ない。ただ、何を言えばいいか咄嗟には浮かばない程度に、心が痺れている。
「弾くのが辛いか」
アークが一歩、間合いを詰める。
「……分からない」
その分だけ真澄は引く。
「少し休んだらどうだ。武楽会を辞退して、……そうだな。俺の専属が窮屈なら、少し離れてもいい」
「ありがとう。でもそういうことじゃないのよ、多分」
「じゃあどうしたらいいんだ。はっきり言え、望むとおりにしてやる」
堂々巡りにアークの苛立ちが募っているのが分かる。
同時に真澄の孤独も深まっていく。これ以上言葉を斟酌している余裕はなかった。
「できることなんてない。アークには関係ないことだから」
「……関係ない、だと?」
底冷えするような声だった。
アークがその背を窓から離す。くぐもった足音も束の間、真澄の右手はアークに捕えられていた。否応なく真澄は右上を見る。そこには険しい顔のアークがいた。
空気が張り詰める。
アークの手に一際力が篭もった時、真澄は言った。
「楽士ってなんなんだろうね。ただ弾くだけのことに、なにをそんなに求めるの」
口を開きかけたアークが固まった。
真澄は立ち上がり、尚も続ける。
「感情がない? 誰かを好きになって、感情を込めた演奏をして一人前? じゃあ人を好きになれない私は楽士なんかじゃない。でもそんなのアークも私も悪くない。楽士長だって悪くない。誰も悪くないのに、これ以上どうしろっていうのよ」
腕を引く。
力が込められていたはずの指は、するりと解けた。
恋なんて知らない。
したいと思う、そんな時間さえ無かった。そうやって駆け抜けた自分は、情感という大切なものを落としてしまったらしい。
けれど今さらどうしろというのだろう。どれだけ悔いたとしてももうあの頃には戻れないし、全てを懸けたと胸を張れるあの日々を後悔などしたくもない。
好きだった人は皆いなくなった。
どうやって好きになったのだろう。必死に記憶を手繰りよせてみても優しい笑顔しか思い出せなくて、途方に暮れるばかりだった。
二人の空気は割れてしまった。粉々に砕け散って、もう元には戻せない。
真澄はアークの横をすり抜けて、その小さな部屋を後にした。
* * * *
廊下に出ると、そこには神聖騎士部門の面々がいた。最初に目が合ったのはカスミレアズで、真澄が口を開く前に彼は言った。
「今日は解散します。組決めは明日に」
まるで周囲に言い聞かせるようだった。
「そう。じゃあまた、明日」
うまく笑えたかどうかは分からない。
だが重ねて取り繕うことはせず、真澄は誰より先にその場から立ち去った。
外に出ると相変わらず雷が鳴っていて、呼応するように土砂降りだった。
入口横に置いておいたはずの傘は無くなっていた。普段なら舌打ちして文句の一つもこぼしただろうが、今はそれさえ面倒で、真澄はそのまま雨の中を歩いた。
庭園を抜ける頃には制服の色もすっかり変わり、重くなった。
まるで逃げる自分を咎める足かせのようだ。
足元に視線を落としながら、なにも考えずにただ歩を進める。一つ目の角を曲がった時、不意に後ろから右手を掴まれた。
「マスミ!」
雨に濡れても熱い手のひらだ。
誰だろう。
疑問に思いながら振り返ると、そこにいたのは肩で息をしているカスミレアズだった。
「何度呼んでも振り向かないから、……っ」
深い息を繰り返すカスミレアズはずぶ濡れだ。
傘は持っていない。濃紺の制服は黒く染まっている。前髪からはとめどなく雫が滴っていた。
「とにかく、話は後だ」
言うが早いかカスミレアズは真澄の手を取り、雨の中をひた走った。途中で息が切れた真澄を、カスミレアズはためらいなく抱き上げた。
二人で走るより、身を任せてしまった方が早かった。
そして駆け込んだのは宿舎棟だった。
ただし真澄の自室ではなく、カスミレアズの部屋だ。戻るやいなや、問答無用で真澄は風呂に放り込まれた。申し訳なさにそこそこで切り上げたものの、カスミレアズはさっさと着替えてまるで何ごともなかった風で座っていた。
湿って鈍色になった髪にだけ、僅かに雨の余韻が残っている。
カスミレアズの座る反対側には湯気を立てるカップが置かれていて、促されるままに真澄はその席にかけた。
口をつけると温かさがしみわたる。
知っているのかいないのか、カスミレアズはなにも訊いてこない。その沈黙がありがたくて、真澄はぽつりとこぼした。
「楽士に必要なものってなんだと思う?」
思い出すのはまぶしいあの舞台だ。
「なんでだろうね。国際コンクールでも一緒、どうせ勝てるって思ってた」
途中までは思い描いたとおりで、予選も二次も難なく通過した。
だが結果は違った。
「ファイナルで私の演奏にミスは一つもなかった。でも優勝したのはミスのあった相手で、私は次点だった。それも『ただのヴィルトゥオーソでしかない、感情のない演奏だ』なんて酷評されてね」
「感情がない? どういう意味だ?」
「さあ、そんなの私が訊きたい。ただ譜面をなぞってるようにしか聞こえなかったんじゃないかな」
「少なくとも私はそうは聞こえない」
「……ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
小さく笑うが、それ以上はなにもできなかった。
心が立ち竦む。
あれから十年近くが経っているというのに、あの時会場に響き渡ったマイクの声を思い出すとどうしていいか分からなくなって、息ができなくなる。
「あなたの音は美しいと思う」
正面からかけられた声に、真澄は目線だけを返した。
胸が痛くて今はなにも言えない。肯定も否定もできず、ただ青いその瞳に「なぜ」と無言で問い返すだけだ。
そんな真澄にカスミレアズは返してきた。
「あなたの元いた世界がどうなのかは知らんが、ただの音の羅列に騎士の魔力は反応しない。だからこそ俺たちはこれほど楽士不足に泣いている。
だがあなたの音は美しい。力がみなぎる。
それは俺だけではなく他の騎士も皆同じだ。叶わないことは百も承知で、それでもずっと傍にいてほしい、自分だけのあなたであってほしいと願わずにはいられないほどに」
それでどうして感情のない演奏だといえるというのか。
人ではないなにかが寸分の狂いなく譜面をなぞることができたとして、それが人を満足させられるのであれば、とうの昔にその技術は発展していたはずだ。
なぜ、人でなければならないのだと思う。
これほど魔術が発展したこの世界で、やろうと思えば勝手に音を奏でる術は生み出せる。未だにそれがないのは、ただ譜面をなぞるだけでは得られないなにかがあるからだろう。
淡々と、けれど淀みなく、カスミレアズが言った。
「仮にあなたの演奏に感情が欠落していたとして、そうであるならば騎士があなたを渇望することはあり得ない。あなたの音は、だから、美しい。少なくとも第四騎士団は全員がそれを知っている」
真澄の左目から一粒、涙がこぼれた。
白いテーブルクロスに丸い染みができる。立ち止まることを許されて、真澄はしばしそこに佇んでいた。
夜になっても雨は降り続いていた。
窓際で曇天を見上げていたカスミレアズが、ふと振り返る。テーブルに頬杖をついていた真澄は、投げられた視線に小首を傾げた。
次いで思い出したように投げられたのは忠告だった。
「気を付けろ。あなたをものにしたい騎士や魔術士はごまんといる」
「……でも私はアークの専属って」
「あなた相手ならば、いかようにもできる。……手段を選ばなければ」
なにがどうで、とは説明されない。だがカスミレアズの言葉は真実味を帯びていた。
「だから、今の状態を周囲に気取られないように」
明日の組決めで、おそらくひと悶着あるだろう。
苦い顔で言い切るカスミレアズは、なにかを知っているようだった。そして彼はこうも言った。「なにがあっても、あなたはアーク様以外と組んではいけない」と。




