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ドロップアウトからの再就職先は、異世界の最強騎士団でした~訳ありヴァイオリニスト、魔力回復役になる~  作者: 東 吉乃
第二章 楽士の奮闘、ここに極まる

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67.「誰か」、或いは「あなた」でなければならない理由・前


 翌日、結果発表の日は朝から雨が降っていた。

 細く降りしきる雨は一切の音を遮断してしまう。晩夏の月に入った今からは、こうして数日ごとに雨が降って、そのたびに少しずつ涼しくなっていくのだという。

 真澄は窓から外を見ながら、また一つため息を吐いた。

 雨に濡れる訓練場には誰もいない。静けさに取り残されたようになる。

 左手の痛みは無くなっていなかった。それどころか夢を見た。壊れていない昨日までの腕で、華やかな武楽会の舞台に立って、そしてその大舞台で腕が落ちる――本当に、肩からぼたりと、まるで人形のように――そんな恐ろしい夢を見た。

 ぴたりと止んだ歓声。

 静寂の舞台に追いつめられて、真澄は跳ね起きた。それが深夜一時すぎのこと。まだ隣にアークはいなかったことだけが救いだった。

 そこからは一睡もできなかった。

 眠ったら夢の続きに苛まれそうだったからだ。あるいは最初から繰り返すかもしれない。高揚する気持ちと、次に突き落とされる奈落の底。考える程に手足の先が冷たくなり、目が冴えた。

 身体を横たえるだけで、どれくらい経っただろうか。

 静かな音と共に扉が開けられて、ベッドが軋んだ。ふわりと鼻腔をかすめたのは石鹸の香りだった。たくましい腕が背中から真澄を抱き寄せて、首筋に小さなキスが落とされ、すぐに寝息が聞こえてきた。

 温かな腕に包まれて眠りにいざなわれることを期待したが、結局無理だった。

 やがて空が白み始めた頃、真澄はアークの腕から抜け出した。今日だけは普通の会話をする自信がなかった。


 真澄は窓から目を逸らし、壁の時計を見る。


 ぼんやりしている間に十時を回っていた。結果は中央棟で十時から貼り出されているらしいので、今頃は人だかりができているだろう。

 選抜されたものはその後すぐに召集がかかるという。本番に向けての説明会という名目だ。

 落ちていればいいが、受かっていれば顔を出さないのはまずい。ましてアークも必ずその場にいるはずで、真澄の姿が見えないとなれば要らぬ心配をかけるだろう。

 気が進まないまま、真澄はテーブルに広げた楽譜を片付ける。

 今日は雨で訓練がない。だから真澄の仕事部屋を訪れる騎士もおらず、早くから時間を潰すには格好の場所だった。ただし弾けば痛みが走るので、やれたことといえば楽譜の写しくらいだ。それも集中力がほぼ皆無だったので、一曲分も進んでいない有様である。

 先が思いやられる。

 何度目になるか分からないため息をまた吐いて、真澄は部屋を後にした。



 豪雨にはほど遠いが、それでも足元は悪かった。

 石畳の道は滑りこそしないものの、大小の水たまりがそこかしこにある。傘で見通しの悪い中、水たまりに足を突っ込んだのが三回。四回目を数えた時に色々と諦めて、真澄は細かく迂回するのをやめた。

 いくつもの棟を通り過ぎる。

 雨に濡れる外壁はどれも沈黙にくすんでいて、いつもと趣が異なっていた。歩いている人間も少ない。そんなこんなで中央棟に辿り着く頃には、十一時近くになっていた。

 晴れていれば外に結果が掲示されるらしいが、あいにくの空模様なので、中央棟の中での発表となっている。庭園には人がまばらしかいない。彼らのいずれも沈んだ顔で中央棟に背を向けている。残念ながら選に漏れたのだろう。

 こんな遅い時間に向かうのは真澄くらいのもので、その全員とすれ違う。

 彼らのほとんどは軍属の制服ではない。きっと地方から出てきた楽士だ。立身出世の夢破れて、彼らがその胸になにを思うのか、真澄には分からない。

 石造りの階段を上がって巨大な扉を開く。

 雨に沈黙する庭園とは正反対の、熱気うずまく空間がそこには広がっていた。

 大広間の彫像の前に白い掲示板が見える。その周囲には人だかりができていて、悲喜こもごもの様相だ。唇を噛みしめてうつむくもの、涙を流して抱き合うもの。

 感情の発露が豊かなのは楽士で、一方の騎士たちはせいぜいが肩を竦める程度、淡々としている。

 この人波をかき分ける気力が沸かない。

 気後れして真澄が遠巻きに様子を窺っていると、集団の中から「マスミさま!」と呼ぶ声が聞こえた。

「ん?」

 出所を探して周囲に視線を走らせる。

 ややあって、集団の中からまろび出てきたのはグレイスだった。

「マスミさま!」

「来てたのねグレイスって、ええっ!?」

 片手を挙げて挨拶しようとしたのも束の間、真澄は両足を踏ん張る羽目になった。

 グレイスが文字通り飛んできたのだ。

 ほぼタックルに近い勢いで、銀の乙女が首筋にとりすがる。小刻みに震える肩を見て、真澄の顔はくもった。

「……グレイス? もしかして」

 駄目だったのか。

 先を言えず、真澄はその背を抱きしめる。涙声で、小さな嗚咽が漏れた。

「マスミさまのっ、おかげ、ですっ……!」

「え?」

「全然、マスミさまの足元にも及ばないのですけど、五番手ですけど、選んで頂け、まし、た……っ」

「……びっくりさせないでよ、もう!」

 思わずグレイスの背中を叩く。

 が、さらにきつく抱きつかれて、真澄の首が締まるだけだった。妹がいればこんな感じだろうか。自然と頬が緩むのを感じながら、真澄は華奢な背中を抱きしめた。



 ちなみに真澄が掲示板を検めることはなかった。

 図らずもグレイスの一言で、自身がぶっちぎりの一位だったらしいと知れたからだ。掲示板には「選抜者は大会議室へ集合のこと」と書かれていたというので、真澄とグレイスは連れ立って中央棟の二階へと上がった。

 中央棟おなじみ、えんじ色の絨毯を踏みしめつつ階段を昇る。

 途端に喧騒が遠ざかり、等間隔で輝く光球が真澄たちを出迎えた。そのまま歩を進めると、とある部屋の前で一人の文官が簡素な椅子に座っている。

 微かな衣擦れに気付いてか文官が顔を上げる。

 感情の薄かった彼の顔は、真澄を認めて少しだけ柔和になった。

「ようやくお出ましですね。皆さんお待ちかねですよ」

 言いながら立ち上がったのは、選考会の受付をしてくれたあの文官だった。

 彼のまとう針葉樹色の制服は重厚なえんじ色の絨毯によく映える。そんな彼は「マスミ=トードー……と、グレイス=ガウディ」と呟きながら、手元の羊皮紙にチェックを入れた。

 この選考会期間中、いったい彼は何人分のチェックを入れたのだろう。「大変ですね」と真澄が声をかけると、文官は「この特技はこういうところで使うものですから」と肩を竦めた。

「特技?」

 羊皮紙にチェックをいれるのが?

 まさかそんなと思いつつ、真澄の声は怪訝になる。用が終わった羊皮紙をくるくると巻いて、文官は笑った。

「一度見たら、その人間の顔を絶対に忘れないんですよ。ついでに名前も」

「えっすごい」

「この点だけはね。他はてんで駄目」

 文章は作れないし、相手を見て適切な言葉を選ぶこともできず、空気を読んで先回り采配なんてもってのほか。およそ文官として求められる資質はほとんど持ち合わせていない落ちこぼれながら、この特異な能力で一本釣りしてもらえたのだという。

「私みたいな人間は他にも沢山いますよ」

「一本釣り仲間ですか? じゃあ人事部は帝都中を走り回ってるんだ」

「あ、さすがにそんなことはしてません。宮廷関連の求人が年に二回出されるので、そこに応募するんです」

「へえー」

「ありがたい話ですよ。普通には生きていけない――あれもこれもできず、ゆっくりとしか時間を使えない私にも、こうしてあなたたちを支えられる仕事を頂けるのですから」

 だからね、と。

 その文官は笑った。

「私は楽士の皆さんが好きなのです。そして騎士と魔術士の方々を尊敬しています」

 あなたたちがそこに立ってくれていることで、どれだけの人間が救われていることか。

 下手くそだと自嘲した文官の言葉は、他意なくどこまでも真っ直ぐだった。

「さあ、どうぞ」

 文官が扉を開く。

 そういえば彼は、選考会の時もこうして気遣ってくれた。

「ありがとう。頑張ります」

 真澄のかけた言葉に文官は嬉しそうに笑い、次いで溜めもなにもなくさっさと扉を閉めた。これも選考会と同じで、真澄は小さく笑みをこぼした。


*     *     *     *


 大会議室に入ると、部屋の半分を正真正銘の軍服組が、残る半分を軍属の制服と一部の私服組が埋めていた。

 真澄たちが加わって総勢三十名だ。

 ご自由にお座りください方式の定番、一番前の席がぽっかり空いていたので、真澄とグレイスはそこに腰を落ち着けた。座るやいなや声を掛けてきたのは、中央の通路を挟んで反対側に陣取っていたアークだった。

「遅い」

 そして開口一番これである。

 アークの迫力にびびって、後ろに座っている楽士数人の顔が強張った。目の端でそれを捉えながら、真澄は負けじと口を尖らせる。

「午前中って指定だったじゃない。遅刻でもなんでもないわよ」

 今度は騎士側の後方から低いどよめきが上がった。

 この一言でそこまでどよめかれる覚えはない。思わず真澄が目線を移すと、一列後ろに座っていたヒンティ騎士長と目が合い、盛大に苦笑された。

 ちなみにその隣にいるカスミレアズは聞こえないフリを貫いている。そんな背後を知ってか知らずか尚もアークが口を開きかけた時、入室してくる人物がいた。

 宮廷騎士団長と楽士長だ。

 天敵の存在に気付いたアークは二の句を継ぐのをやめたらしい。さりげなく真澄から視線を逸らし、その流れのまま力いっぱいそっぽを向く。どうやら目も合わせたくないようだ。

 そんなアークに一瞥をくれつつ、宮廷騎士団長が会議室全体を見渡した。

 さざめくようだった部屋が静寂に包まれる。ぴりりと引き締まった空気の中、ややあって宮廷騎士団長が口を開いた。

「今年の選考会もつつがなく終了した。まずはここにいる選抜者全員を労いたい」

 おかげで優秀な戦力を集められた。

 そう言って、宮廷騎士団長はすみれ色の目を細めた。その言葉を皮切りに楽士長が動き、手にしていた書類を配り始める。まとめて置かれた紙の一枚を手に取り、真澄は残りを後ろの列に回した。

 武楽会本戦についてと銘打たれたそれは、部門別の出場者と大まかなルールが記載されている。

 なんの気なしに眺めていると、神聖騎士部門に同じ姓が二つ並んでいた。

「ねえグレイス、これってもしかして」

 声を落とし、真澄は紙面の一点を指差す。リシャール=ガウディ神聖騎士、第一騎士団。その文字を認めて、グレイスが嬉しそうにはにかんだ。

「兄です。あちらに」

 控えめに示されたのはカスミレアズの隣だった。

 二人の視線を感じたか、見事な銀髪の騎士が顔を向けてくる。銀色のまつげに、銀色の瞳。グレイスに良く似た雰囲気を持つ騎士は、隣に並ぶ騎士長二人ほど立派な体格ではないものの、物腰柔らかく目尻を緩めた。

 話だけは聞いているのか、リシャールが目礼を寄越してくる。

 真澄も小さく会釈を返して、もう一度紙面に向き直った。

「ところでこっちの人、知ってる?」

 神聖騎士部門の残る一人だ。

 まったく知らない名前、それも所属が宮廷魔術士団と書かれている。色々と疑問が浮かぶ。が、しばらくを待ってもグレイスからの相槌はなかった。

 違和感に真澄は顔を上げる。

 隣を窺うと、先ほどの嬉しそうな笑みとはうって変わって顔をこわばらせたグレイスが、その名前を凍りついたように見つめていた。

「どうしたの? 顔、真っ青だけど」

「いえ、なんでも……存じております」

 言葉少なな肯定は、しかし両者が良い関係とはとても思えなかった。

「最近、大魔術士に昇格された方です」

「そもそも騎士部門って名前がついてるのに、魔術士が出ていいもんなの?」

「部門名は便宜上の呼び分けですから、同等の力があれば出場はできます。ただ、魔術士の方は武会にはあまりお出ましにならないのが慣例なのですが、……」

 不自然に言葉を切ったグレイスに、真澄はそれ以上を訊けなかった。

 そうこうしているうちに、配られた紙が全員に行き渡ったらしい。宮廷騎士団長が「それでは概要を説明する」と口火を切った。


 本戦は一ヶ月後、初秋の月に入ってから開催される。

 今年の開催場所はレイテア、移動の日数を鑑みると残り一ヶ月を切っている。準備という意味で地の利は受けられないが、この陣容であれば問題ないだろう。


 淡々と宮廷騎士団長は述べるが、その期待が逆に激烈なプレッシャーとして圧し掛かってくる。会議室の空気が否応なしに引き締まった。

「武会優勝はここにいる楽士の補給能力に大きく左右される。楽会での優勝はもちろんのこと、これよりひと月の間は同部門の武会出場者との綿密な調整を重ねるように」

 繰り返すが、時間は限られている。宮廷騎士団長から念押しが重ねられた。

「武会出場者は、己の進退のみがかかっているのではないと今一度心得よ。組みとなる楽士、引いてはこのアルバリークの名を懸けて戦うのだ。その誇りに恥じぬよう、最後まで心身の鍛錬を怠らないことを期待する」

 言い終わりと同時、騎士たちが全員立ち上がった。

 そのまま手を胸に礼を取る。一糸乱れぬ動きに、楽士たちの視線は釘づけとなった。

「……仰せのままに。必ずや我がアルバリークに勝利をもたらしてみせましょう」

 最前列のアークが部屋全体に響く声で宣言する。

「今年も、か?」

「望みとあらば来年も」

「結構なことだ。期待している」

 笑み一つこぼさない宮廷騎士団長だったが、次いで胸に手を当て、きっちりと礼を返していた。



「これより選考会の評定を各自に渡す。残り一ヶ月の研鑽に励むための指針であると同時に、これをもとに組を決める重要な情報だ。互いを補い合うも強さを集中させるも自由。宮廷騎士団長の名の下、その決定には誰にも口出しはさせない。武会は私から、楽会は楽士長から渡す。評定を受け取ったら解散していい」

 なにか質問は。

 朗々と響いていた声が、一瞬だけ途切れる。だが特に動きはなく、すぐに下位部門から評定が渡されていった。

 名前を呼ばれては前に取りに行く。次から次へと。真澄の目には流れ作業のその光景が、さながらテスト答案の返却に見えた。

 騎士も楽士も同じ人数のはずが、宮廷騎士団長の方がさっさと配り終えて退室する。

 およそ倍速だ。

 なにが違うのだろうと観察すると、そもそも騎士と楽士では動きの機敏さが違うということと、楽士長は評定を渡すだけではなく一人一人に声を掛けているからだった。

 下から呼ばれているために真澄はしばらく待機となる。

 黙っているのも暇なので、隣のアークに「評定を見せろ」と投げてみる。すると、存外にあっさり「ほらよ」と紙が回ってきた。

「……まんま通知表なのね」

 若かりし頃の学生生活が真澄の脳裏に蘇る。

 形はほぼそっくり、各項目がそれぞれ十段階で表されていて、一番下に特記事項の欄がある。項目は当然、科目――国語や数学などではなく、持久力や瞬発力、剣技馬術などの基礎項目から始まり、魔力量から果ては攻撃と防御に細分化された魔術評定まで入っていた。

 全ての項目に目を通し、最初に出た感想はといえば。

「これ適当なんじゃないの?」

「あ?」

「だってほとんど十とか手抜きにしか見えないんだけど」

 強いていうのならば、防御魔術の項目のうち「能動系」と細分化された部分だけが五と低いくらいだ。おまけに特記事項は「特になし」となっていて、やっつけ感が半端ない。

「選考会首席なんてそんなもんだ」

 憤慨するでもなし、のんびりとアークが言う。

 そして後ろを向いて、机上に伏せられていたヒンティ騎士長とカスミレアズ、そしてリシャールの分まで評定をかっさらい、真澄にぽいと放ってくる。

「えっ、ちょっ」

 慌てて受け止めて三人を窺うが、彼らも彼らで焦る素振りがまったくない。

 そういえば学生時代もそうだった。

 成績を隠すのは悪い方の人間で、頭の良い同級生は正々堂々と答案をさらしていた。懐かしくなり、同時に前者であった真澄の目が若干遠くなる。

「比べてみろ。同じ神聖騎士部門でもバラつきがあるはずだ」

「ほんとに見ていいの、これ」

 カスミレアズはまだしも、ヒンティ騎士長とリシャールは直属の上司でもなし、この横暴さに抗議していいはずだ。ところが彼らは全員が「どうぞご自由に」と涼しい顔である。どうやら本気で気にしていないらしい。

 そういうことならと三枚の評定を並べてみる。

 すると確かに三者三様、異なる評が書かれていた。アークの言うとおり確かに数字にはばらつきがあって、さすがに前半値ではないが、概ね六から九の間で個性が出ている。

 そして、意外にも十がついている項目は少なかった。

 カスミレアズならば持久力と攻撃魔術。ヒンティ騎士長は馬術と防御魔術。そしてリシャールに至っては十はなく、瞬発力のみが最高で九の評価に留まっている。

 この分だと下位部門の評定はもっと数値が低そうだ。

 前言撤回、研鑽の指針と言われるだけあってかなり辛口らしい。書面から真澄が顔を上げると、頬杖をついてこちらの様子を窺っているアークと目が合った。

「疑ってごめん。ちゃんと審査員も仕事してたのね」

「国庫から給料もらってるんだ、当たり前だろう」

「そういう問題?」

 片眉を上げつつ、真澄は「ありがとう」と添えて評定をヒンティ騎士長へ返した。

 席に座り直す。

 丁度グレイスが楽士長に呼ばれていて、紙を手に戻ってくるところだった。彼女は戻るなり、食い入るように評定を見つめている。やがてその薄い唇が噛みしめられ、横顔に涙が盛り上がった。

 驚いたのは真澄である。

 一体どれほどの激辛評定だったというのか。

 制服のポケットから慌ててハンカチを取り出しつつ、真澄は小声で「大丈夫?」と声を掛けた。

「すみません、違うのです」

 ありがとうございます、と言いながら、グレイスは真澄のハンカチを受け取り、そっと目元を拭う。

 間に合わなかった一粒がぽつり、評定に落ちる。

 それをそっと指ですくい取り、グレイスは小さく笑った。

「楽士長から初めてお褒めの言葉を頂けたので、驚いてしまいました」

 今日の彼女は、どうやらとても涙もろいようだ。

 けれど悪い話ではない。真澄が胸を撫で下ろした時、楽士長が真澄の名前を呼んだ。自分はなにを言われるのだろう。期待とも不安ともつかない気持ちを抱えて、真澄は立ち上がった。

 最前列に座っていたから距離は近い。

 楽士長の前に立つがしかし、そこで真澄は違和感に気付いた。


 その手にはなにも握られていない。


 本来であれば真澄の評定が一枚、残っているはずなのに。真澄が訝しんだと同時、楽士長が声を落として言った。

「ハイリ=スヴェントから特筆を受け取っています。今から別室で話しましょう」

「特筆? 普通の評定はない、ということですか?」

「……それも別室で話します」

 そして楽士長は選抜者たちに解散を告げた。

 場が静まり返る。

 真澄が評定を受け取っていないことは周知の事実であるからだ。困惑の空気がふくらむが、しかし楽士長はそれ以上なんの説明もせず、真澄にだけ聞こえる声で「こちらに」と呟き、大会議室を出た。

 真澄は一瞬、立ち竦む。

 振り返るとアークが驚きの視線を向けてきていた。が、言葉を交わす間はなかった。楽士長が扉の向こうで真澄を待っていたからだ。

 真澄はなにも言えないまま、静寂の大会議室を後にした。


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