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泥水売りの聖女様は、今日もソファから動かない  作者: 希羽


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第一話:完璧

「よし、今日も完璧。……これなら、文句は言われないはず」


 ノートパソコンのエンターキーを、祈るような気持ちで押し込む。


 私の名前は、久保(くぼ)(りん)

 去年、社会人になったばかりの二十三歳。一般企業の企画部で、数字と格闘する毎日を送っている。


 部署ではありがたいことに「若手のエース」なんて呼んでもらえている。

 今日も家庭の事情で在宅ワークを願い出たけれど、上司からは快く承諾を得た。私が先輩社員と練り上げた企画書が、会議で「文句の付け所がない」と絶賛されたばかりだったから。


 仕事は順調。周囲の評価も上々。

 私の人生は、端から見れば()()そのものだろう。

 そこそこの大学を卒業し、名前の通った企業に滑り込み、大学一年生の頃から付き合っている彼氏と、今年から同棲も始めた。


 けれど――。


「……はあ」


 こわばった肩を回し、リビングへと向かう。

 一歩足を踏み入れた瞬間、凄まじいストレスが私を襲った。


「ご飯まだー?」


 リビングのソファ。

 そこに寝そべり、スマートフォンをいじりながら声をかけてきたのは、同棲中の彼氏、卓也だ。


「ランチ休憩中に下準備はしておいたから、今用意するね」


 私は努めて冷静に、事務的なトーンで応じる。

 だが、視界に入る情報はあまりにも不合理だった。

 床に脱ぎ捨てられた、湿ったままの靴下と使い古されたカバン。テーブルの上には、生ビールの空き缶。そして、食べかけのスナック菓子の袋。


(……まじでありえない)


 そう、私の人生は完璧。

 ただ一つ、卓也の生活力の無さを除いては。


 大学一年のときから約五年。ただ隣を歩いているだけの時は、その欠点に気づかなかった。

 仕事はできる。学歴もいい。でも、私を便()()()()()()として扱う彼の無神経さが、私の脆い自己肯定感を少しずつ削っていく。


(どうして、私は完璧な家政婦を演じなきゃいけないんだろう)


 そんな疑問が浮かんでも、私は口に出さない。

 彼との関係が崩れてしまったら、いよいよ私の()()()()()が失われてしまうから。


「……すぐできるから、座って待ってて」


 今日も、卓也の好物を作りながら、私は自分に言い聞かせる。

 大丈夫、まだやれる。まだ私は、完璧でいられる。


 ――その完璧な世界が、音を立てて崩れる瞬間がすぐそこまで来ていることも知らずに、私は今日も、不合理な食卓を整え始めた。


 ◇◇◇


 食後、山のような片づけを終え、卓也がお風呂に入っている間。ようやく訪れた「私だけ」の自由な時間。


「今日は何を読もうかな~」


 スマートフォンを開く。画面に映るのは、異世界恋愛やスローライフ系のライトノベルだ。

 この時間だけが、私の現実逃避。不器用な自分が完璧を演じなくていい、唯一の娯楽。


「正直、王道は読み飽きてきたしなあ……。誰もがチートで無双して、でも最後は誰かと結ばれる……。はあ、現実はそんなに甘くないっつの」


 ふと、デスクの上に置いてある一本のペンが目にとまった。

 仕事用ではない、昔から使っているお気に入りのペン。


「読み専だけど、自分で書いてみるのも面白いかも……」


 心の中にある「不満」や「理想」を、文字にして吐き出したい衝動に駆られた。

 もし私が物語を作るなら。

 誰にも邪魔されず、自分が認めた快適なものだけに囲まれて暮らす。他人の顔色を窺う必要なんてない、究極のスローライフ。


「えーっと、どこかに紙あるかな」


 私はペンを手に取り、デスクの引き出しを漁った。


「あれ、こんなのあったっけ? まあいっか」


 引き出しの奥で見つけたのは、一冊の古い白紙の本だった。

 私はそれをデスクに広げ、お気に入りのペンを走らせる。


 「ファンタジー」「スローライフ」「特殊スキル」――。


「って、結局どれも王道だな……どうしよう」


 とつぶやいた瞬間、本が光り、目の前が真っ白になった。


 ◇◇◇


「起きてくださーい」


 目を開けると、真っ白な空間にいた。

 目の前には、豪華な椅子に座り、退屈そうに爪を眺めている金髪の女性。


「え? 夢? 夢……じゃない?」

「あー、もうやっと起きた! ナンバー123のあなた!」

「123?」

「そう、123! あなたはこれから、魔法の世界に行って、その世界を良くしてもらいます」


 性格の悪そうな女性が、一秒も止まることなく、機関銃のように言葉を吐き出し始めた。


「え、ちょっと待ってください! これって異世界転生……? 私、死んだんですか!?!?」

「あー、違う違う。死んでないから安心して! 私は女神様。あなたにはね、私の管理している世界をちょっと良くしてきてほしいんだよね。おめでとう、君は選ばれました!」

「よ、良くするって、具体的に何をすればいいんですか?」

「そこから自分で考えてください」


 思わず、乾いた笑いが出そうになった。

 「何を、どうすればいいか」の説明はゼロ。ただ「やっておけ」というだけの、究極の丸投げ。


「……部下に仕事を丸投げする、仕事のできない上司かよ」


 つい、小声で本音が漏れる。


「とにかく! 頑張ってくださいね!」

「いや、待って! 私のスキルは!? 何か、力をもらえるのでは!?」

「あー、あなたにぴったりのスキルを、適当にランダムでつけるようにしますから、大丈夫ですよ。では、行ってらっしゃーい!」

「ちょっ、そんな適当なのありえないでしょーーーーーー!!」


 私の叫びは虚しく、また目の前が真っ白になった。


 ◇◇◇


 気づけば、私は広大なくさむらの真ん中に立ち尽くしていた。


「まじか……」

 

 鼻を突く、生臭い草の匂い。

 不快なほどに肌を刺す、ざらついた風。

 

 完璧だったはずの私の人生が、一瞬にして「123番」という、名前すら持たないゴミに塗り替えられたのだ。


「見てなさいよ、あのクソ女神。……私はここで、究極に気ままなスローライフを送ってやるんだから! あんな無責任な女の言いなりになるなんて、まじでありえない!!」


 私は、空に向かって毒づいた。

 世界を良くする気なんて、一ミリもない。


 私が自分の快適さだけを追求した結果、この世界がどうなってしまうかなんて――私の知ったことじゃない。


 これが、後に、この世界のすべてを振り回すことになる123番の、あまりに自分勝手で、最高に贅沢な決意だった。

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