第八話
あくる日の午前九時過ぎ。
早くに王政へ向かった王子と別れた私は、他の人の目につかないよう東の中庭へ降り、
木の影に身を潜めながら周囲を観察するとーー。
思っていた通り、一番怪しいと睨んでいた場所には、基礎の高い壁面がはっきりと見えていた。
(やっぱり!!すごい発見!北棟だけじゃなくて、中央棟のこちら側にも地下が存在するんだわ!)
私は、秘密の図面にも描かれていない地下空間が存在していることを確信した。
通常の建物の基礎は高くても七十センチほどだ。
けれど地下室がある場合、その高さはどうしてもそれ以上になることが多い。
(しかもこの場所で、多くの人が出歩かない時間にしか見えないなんて……
やっぱり、この中央棟の地下にこそ何か隠してある気がする)
私は頭の中で図面を思い返した。北棟の地下一階は、図面の途中で途切れている。
しかし、本当は一階から四階と同じような部屋がその先にも部屋が続き、
そこから中央棟へ繋がる地下空間があるのではないか。
(書いておきたいな……)
メモ帳を取り出した私は、少し迷う。
(見られたら困るけど……忘れてしまうよりはいいよね)
インクは使わず、ペン先で紙にそっと傷をつける。
光に当てた時だけ、うっすらと線が浮かび上がるように。
影の方にある基礎だけでなく、そこから見える窓の数、コーベルや柱の位置、
建材の違いを順に確かめているうちに、気がつけばかなり時間が経っていた。
もう議会が終わる時間らしい。
遠くから人の声が増えてくる私は慌てて立ち上がり、
人と鉢合わせないよう王族住居地区の外側から表へ回ろうと歩いていると--。
煌びやかなドレスをまとった、美しい金髪の令嬢に見つかってしまった。
「あら、あなた。時の人だわ」
彼女は楽しそうに声を上げる。
「みんな、こちらへ。バイオレット・アザールさんがいらしてよ」
その声に引き寄せられるように、伯爵や婦人たちが五人ほど集まってきた。
「王子に目をかけられているそうだな」
「何か勘違いされているようだが、ここへ自由に出入りできるのも今のうちだよ」
中年の男性達が強い口調で攻めてきた。
「私たちは王の親戚よ。急にあなたのような方が現れて驚きましたわ」
「何を差し出して王子に取り入ったのかしら?」
その後に続いた女性達までもが口々に言葉を浴びせてくる。
(こんなに騒ぎになっていたなんて……)
私は驚いて、声も出なかった。
注目されるのは仕方ないと思っていたけれど、想像以上に状況は悪いらしい。
その時だった。
「――そこまでにしていただけますか?」
低く落ち着いた声が響く。
私の前に、すっと王子と騎士団の方々が現れた。
「皆様、どうぞお引き取りを」
騎士団の言葉にも、王の親戚たちは引かなかった。
「カイル。正妻を探す前に妾でも囲うつもりか?」
「叔母である私こそ、あなたにふさわしい女性を選んであげられるのに」
口々に投げられる攻撃にも、王子は少しも怯まない。
「王の親戚だからといって、勝手な憶測で人に無礼を働いていいわけではありません」
王子の低い声が、氷のように静かに響いた。
「王族である皆様は、国や国民のために、何か貢献されたことはありましたか?」
「……」
「彼女が成し得た功績は、私ですら足元にも及びませんよ」
「だからと言って、何の家柄もない娘を選ぶなど――」
叔父や叔母だと名乗っていた彼らを、王子は静かに睨みつけた。
「彼女こそ、この国の宝です。
むしろ、この国で彼女ほど王妃にふさわしい人を、私は知りませんが……」
「何だと?」
「彼女が建設省に入って一年半。
この国の水道整理事業は完成し、ひどい有様だった衛生管理は刷新されました」
王子の声は静かだったが、その場の空気を完全に支配していた。
「その恩恵を、あなた方も受けているはずですが?」
「それは……」
「その多くは、彼女が大学の卒業論文で提唱していたものです。
それが建設省で形になっていくのを、私はこの目で見てきました。
私は、彼女ほど努力して国のために働く人を見たことがない」
王子は一歩、彼らへ歩み寄る。
「彼女の貢献のおかげで、あなた方ですら今までより豊かな暮らしを送れている。
――まさか、それをご存じないわけではありませんよね?」
「……」
王族たちは言葉を失って立ち尽くしていた。
静まり返っていた空気の中で、誰かが小さく拍手をした。
それに続くように、メイド達、騎士達から拍手が広がっていく。
(あれ……?)
私は呆然としてしまう。
(どうして王子は、私の大学の卒業論文のことまで知っているの……?
まるで、ずっと前から私を見てきたみたいだけど……)
真剣な表情で語る王子の横顔を見て、胸がじんわりと熱くなった。
「今後、彼女への醜聞は一切許しません。そのおつもりで」
王子の言葉を最後に、固まっていた王族たちは一斉に散っていった。
「チッ、今のうちに言っておけ」
「大きな口利きやがって」
叔父と名乗っていた人たちは、顔を歪めて去っていった。
「王子、バイオレット、大丈夫ですか?」
遠くからキリアンが駆け寄ってくる。
「バイオレット、申し訳ない。驚かせてしまったね」
私はまだ状況を整理できず、ただ立ち尽くしてしまっていた。
そんな私の様子を見て、キリアンまで優しく声をかけてくれる。
「大丈夫ですよ。メイドや騎士の多くは王子の味方です。
それに、バイオレットの貢献を皆知っています」
「今の数人は、普段から私の行いを良く思っていない連中なんだ。
勢力争いに巻き込まないようにと思っていたんだが……申し訳ない」
「大丈夫です。お気になさらないでください」
そう言って笑うと、王子とキリアンは顔を見合わせ、まだ少し心配そうにしていた。
「彼らは、今の母君の親族と、父の姉の夫なんだ。
だから、私とは血の繋がりはない。本当に気にしないでね」
王子はそう言って、いつもの穏やかな表情に戻る。
それを見て、私は少し不思議な気分になった。
「それに、王と今の母は、僕が宝を探していることに勘付いているはずなんだ。
彼らも宝を狙っているだろう。
だから、僕が宝を見つけた後に自分たちのものにするため、しばらくは僕や君に手出しできないはずだよ」
「あ、ちなみに僕は前から知ってましたから、ご心配なく」
キリアンも王子の横で笑いながら、こっそりと腕の誓約の印を見せてくれた。
(ああ、キリアンは知っているのね……って。ちょっと待って。
ええ?さっきの王子のお言葉、とても大変な話なんだけど!!)
実の父親との関係を、こんなふうに軽く語るなんて……。
王子は幼い頃から、ああいう人たちと向き合ってきたのだろうか。
そう思うと、私は自分のことよりも王子の方が心配になってしまった。
「もちろん私のことは大丈夫ですが……王子は大丈夫ですか?」
思わず、強いトーンで私の口からこぼれた言葉に、二人が瞬時にこちらを振り返った。
「王子を本当に大切にして、味方になってくださるご親族は……いらっしゃるのですか?」
口に出してしまってから、不躾だったかもしれない……と、はっとする。
けれど次の瞬間、王子は大きな声で笑った。
「ははは!この状況で、僕の身の上を心配してくれるの?」
「バイオレットは、随分と余裕あるなあ」
キリアンまで笑っている。
「さっき言ったように、騎士団や城で働いてくれている皆さんがいるよ」
王子は少し柔らかな声になった。
「そうですよ!殆どの騎士団や城内の者は、いつも優しい王子の味方です!ご心配なく」
キリアンも、堂々と胸に拳を当てていた。
「それに--実の母の妹が、隣国へ嫁いでいるんだ。
その方と王との間に生まれた僕の従兄弟たちがいてね。彼らとはとても仲がいい。だから安心して」
そう言うと、王子は「大丈夫だよ」と伝えるようにそっと私の肩を撫でた。
優しくて、大きな手に、触れられたところが熱くなり、胸がいっぱいになる。
「それは、もしかして、ウルー国のフリード王子とヒース王子のことでしょうか?」
「ははは、よくご存知で」
王子の優しい笑みに、私ははっとした。
一度だけ、ウルー国へ行った際に見かけた、柔らかそうな髪質の幼い王子達。
……考えてみたら、カイル王子と同じく深く透明感のある焦げ茶の髪なのに、グレーブルーの目の色。
そのことを思い出すと、すとんとお腹に落ちた。
「それなら、安心です」
「心配してくれてありがとう。バイオレット」
私と王子が顔を見合わせて、笑顔になると、横で見ていたキリアンも笑顔になった。
「では、僕は戻りますね」
キリアンが軽く手を振って去っていくと同時に、
私たちもそのままサロンへ向かい、ゆっくりと昼食を取ることになった。
ーーーーーーー
その日も午後の紅茶を東屋でいただきながら、私は小さな声で今日の報告をした。
周囲に人の気配がないことを確かめてから、私はそっと身体を寄せ、王子の耳元へ顔を近づける。
「やはり、影に隠れている部分について、わかったことがあります」
「おお、さすがだね」
囁くように伝えると、王子の瞳が楽しげに輝いた。
「今、ここでお話ししない方がいいですよね?」
「うん。よかったら、夜また君の部屋へ行ってもいいかな?」
「はい」
(きっと、一緒に地図を見ながら話そうとしてくださっているんだわ)
多くを語らなくても、すぐに話が通じる王子が、とてもありがたかった。
それから二人でゆっくりと東の中庭を散策していると、いつの間にか陽が傾いていた。
夕暮れに染まる花園では、紫、ピンク、黄色、そして真紅の薔薇が咲き乱れていた。
前に、お風呂に浮かんでいた花と同じ色の薔薇たちが、柔らかな光の中で静かに揺れ、
上品で優しい甘い香りが、辺りに満ちている。
「だいぶ心配させてしまったようで……とても不甲斐なく思っています」
不意にそう声をかけられて振り向くと、王子が少し項垂れた様子で立っていた。
しかも、いつもの柔らかな口調ではなく、どこかかしこまった敬語になっている。
「ふふ。本当に大丈夫です」
なんだか可愛らしくて、私が笑って答えると、王子はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
薄いピンクから青い夜へと変わっていく、美しい空。
その柔らかな光の中で、王子のお顔が少しずつ近づいてきた。
「バイオレット。もし、あなたさえよろしければ……」
その瞬間、王子の美しい喉仏が小さく動くのが見えた。
そして彼は、私の前へ静かにしゃがみ込み、そっと両手を取った。
「このまま、私の妃になっていただけませんか?」
見上げる王子の顔は、夕暮れの光に染まってほんのり赤い。
それが空の色なのか、それとも王子自身の熱なのか、私にはわからなかった。
けれど、触れられている指先から伝わる温もりと、その言葉が、嵐のように体中を駆け巡った。
「初めてお会いしたときから……実は、ずっと考えていたのです」
「え……」
「本当に、あなたほど王妃にふさわしい方はいらっしゃらないと思っています」
王子の瞳は、どこまでも真剣だった。
「あなたのことを心から尊敬しているのです。そのことを、きちんと形にしたい」
握られている手に、わずかに力がこもる。
「それに……もう、あなたに他の者達から何も言わせたくない」
彼の美しい鼻先がこちらに向いている。
グレーブルーの瞳。
優しく握られた両手。
彼の手から、僅かな震えが伝わってきた。
返事を待つ真剣で必死な表情に、胸の奥が締めつけられる。
(見目麗しいだけでなく……心の底まで、本当に美しい方)
「私の身を案じられているためでしょうか」
私がそっと尋ねると、王子はすぐに首を振った。
「いえ。本当に、俺の心からの気持ちです」
「うーん……」
私は思わず小さく唸ってしまった。
(王子は、私の仕事を評価してくださっている。
それに、ここまで噂の的になってしまった私の将来を案じてくださっているのだろうけれど……)
きっと、それだけなのだ、と思う。
もしこれから先、王子が心から誰かを愛し、その人と共に生きたいと願った時。
そこに私がいては、すべてが台無しになってしまう。
あんなにずっと触れたかったこの手がこんなにも温かいからといってーー
勘違いしてはいけない。
胸の奥に小さな寂しさを押し込みながら、私は王子の手をそっと握り直して、静かに答える。
「王子。一番大事なことをお忘れだと思いますので……お受けできません」
「ええ?!」
王子は目を見開いた。
「そんな、何がいけないのですか?僕と結婚したら仕事ができなくなるとお思いですか?」
「ええ?そういうわけでは……」
「お仕事がお好きであれば、絶対できるようにします。
それにすぐにお返事いただかなくても!もっとゆっくり考えてください!」
王子に強く手を握られる。
「いえ仕事のことではなく。……それに、時間をかけても同じことのように思いますので」
「そんな……じゃあ、一番大事なことって……?」
カイル王子は驚いたまま、私を見つめていた。
(本当に大事なのは、王子のお気持ちなのですが……)
「それは、ご自身でお考えくださいませ」
そう伝えて、私はそっと彼の手を離した。
王子は呆然としたまま、自分の手のひらを見つめて立っている。
もし本当に、彼の気持ちが私へ向いてくれていたなら、どれだけ嬉しいだろう。
すべてをかけて、妃になるための訓練も努力も、きっと惜しまないと思う。
でも――。
(王子は、私を庇うために自分の人生を犠牲にしようとしている。それではいけないわよね)
少し寂しいような気持ち。
それでも、あの手に触れられるなら、こんな機会はもうないのではないかという気持ち。
複雑な感情が胸の奥で揺れている。
それなのに、どこか心が洗われていくような、不思議な感覚でもあった。
夕暮れの薔薇園には、優しい香りが満ちている。
(それでも……今日の夜もまた、彼と肩を並べて地図の話をするんだわ)
バイオレットは小さくため息をついた。
自分の気持ちだけが、静かに加速していく。
まるで自分だけが場違いな場所に立っているかのような――そんな、切ない気持ちだった。
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(カイル視点)
一方で、カイルは激しい後悔に頭を抱えていた。
(――やってしまった。最悪のタイミングで、最悪の順序だ)
バイオレット・ローズ―― 彼女と慎重に距離を詰め、
地道に信頼を築き、頑なな彼女の心が柔らかく解けるのを待ってから告白する……
そのための完璧な計画が、自分の中で組まれていたはずだった。
彼女に触れるときも、言葉を交わすときも、あの強引なシャオンと同じ轍だけは踏むまいと、
細心の注意を払ってきたというのに。
(彼女のあの聡明な瞳に、今の僕はどう映っただろうか。
打算的で、軽薄な男だと思われてはいないだろうか)
焦燥で血の気が引いていく。
どうして先に「妃に」などと、義務や立場を連想させる言葉を口にしてしまったのか。
順序が逆だ。まずは「本当にずっとお慕いしておりました」と、
一人の男としての真心を伝えるべきではなかったか。
嫌われただろうか。怪しまれただろうか。
それとも、彼女が言った「一番大事なこと」とは一体……?
王宮に来て、ちゃんと時間を共にするようになってまだ一週間。
段階を踏むべき時間はいくらでもあったはずなのに。
自分のあまりの余裕のなさと、予想以上に拒絶されたことへの痛みに、胸がひどく疼いた。
(……いや、まだ終わったわけじゃない。仕事の時間はたっぷりある)
ここからだ。
もう一度、今度は一からやり直そう。
彼女を怖がらせないように、けれど今度こそ正しく自分を「男」として意識してもらえるように。
カイルはぐっと拳を握り、逃げるように先を行くバイオレットの背中を必死に追いかけた。




