第七話
王宮へ来て一週間ほど経った。その間、私はまともに眠ることができなかった。
毎日、カイル様があの美しいお顔と澄んだ声で、まるで当たり前のように私の側で気遣ってくださること。近い距離で笑い、語りかけてくださる親しい感じ。
そして極めつけは、シャオンを遠ざけるためについた、あの嘘ーー。
仕事のため、演技だとわかっているのに、胸のドキドキがどうしても収まらない。
そもそも、あんな嘘をついて王子様のお立場は大丈夫なのだろうか。
きっと謎解きが終わるまでは、あのままの関係を装うつもりなのだろうけれど……。
結局、聞くこともできないし、答えも出ない問いが、頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
毎日、議会の最中は王政の間へ近づけないことを知っていたので、
朝は一人で全ての中庭や、南棟、中央棟、テラスを見て回った。
たくさんの人の出入りがある場所には、やはり何も隠されていないような気がしていた。
王政の間もある日の午後、王子と一緒に見学し、今日は大広間に一人で来ていた。
(イベント会場は、各省や街の別の場所にもあるけれど……
王室主催のパーティーや、音楽会に、ちょっとした演劇。
隣国の要人が招かれた時には、この大広間がよく使われているのよね)
大広間は奥に壇上があり、一階から四階まで吹き抜けになっており、
三階部分へ大きな階段がつながっている。そこから一階を見渡せる回廊が、ぐるりと周囲を囲んでいた。
シャンデリア、大理石、大きな鏡、そしてフレスコ画。
絢爛豪華な空間には細やかな装飾が施されていて、
柱や壁に金や財宝を隠すような細工をしてしまうと、建物そのものの強度に影響が出そうだった。
(これほど複雑な細工が施されている場所に、隠し空間を作る余裕はないはず……)
外側から建物の窓や基礎、素材を確認しても、何一つ、ブレや違和感のない状態だった。
一つひとつ確認しているうちに、気づけばかなりの時間が経っていた。
そして、ふと視線を上げたときだった。
いつの間にか、王子がすぐ側に立っていた。
「調査は順調かな?」
「あ……カイル様。議会はもう終わられたのですか」
「ああ。……こちらの部屋はどう?」
「残念ながら、ここには望みがないかと」
「そうか……。もしよかったら、先に昼食でもどうかな?」
王子がにこやかに微笑んでくれる。
その笑顔があまりに可愛らしくて、思わず胸がきゅっと締めつけられた。
サロンで昼食を済ませると、王子は「東の中庭でお茶にしよう」と誘ってくださった。
一階のキッチンに着くと、彼はメイドたちの間を慣れた手つきですり抜け、
自らお湯を沸かして茶器を用意してくれた。
ワゴンを中庭まで運ぶその足取りは驚くほど軽やかだった。
「午後、ここを回る分のお菓子も用意したよ」
「ありがとうございます。ご自身で全てされるお姿、とても素敵です」
私の言葉に、一瞬王子の手が止まったかと思うと、こちらを見て微笑んでくれた。
「そう言ってくれるなんて嬉しいな」
東屋で、建物を外側から眺めながらお茶をいただいていると、
多くの人々が前を通り過ぎていく。
貴族、使用人、騎士団……そのうちの貴族の一組が通り過ぎる時、風に乗って心ない言葉が聞こえてきた。
「聞いたか? 王子、あの女性を狙ってるらしいぞ」
「正妻より先に側室でも迎え入れるつもりなのか?」
「ハハハ、お熱いことだ!」
こちらに聞こえることなどまるで気にしていないのか、
かなり大きな声でそんな噂話が交わされていた。
揶揄するような笑い声に、私はたまらず身を縮めた。
場違いな場所にいる自分が、急に酷く惨めに感じられた。
「ごめんね、聞こえてしまったかな?」
「あんな噂をされてしまって大丈夫なのでしょうか?目立ってしまうとまずいですよね……?」
「僕はもう、生まれたときから目立ってしまう存在なんだ」
王子は少し困ったように笑った。
「どうせ僕たちは、一緒にいるだけでもかなり怪しまれるはずだからね。
それなら、いっそ理由があった方が都合がいいかなって」
「確かに……」
「お気を悪くしたかな?」
「いえ、とんでもありません」
「僕が勝手に片思いをして、君が気づかないまま僕を振る……という筋書きなら、
君の将来を傷つけることもないかな、と思ったんだけど」
王子が自分に気のないことはわかっている。
それでも、こうして改めて聞かされると、やはり胸の奥が少し痛んだ。
(演技だって、ちゃんとわかっているのに……どうしてだろう。
嘘じゃなければいいのに、なんて思ってしまう)
胸がきゅっと苦しくなる。
私の顔色が曇ったせいだろうか、カイル様は不安そうな表情になった。
「僕の一方的な恋ならいいかと思ったけれど……もしかして、
それだけでも君の経歴を汚してしまうことになるかな?」
彼は椅子の距離を詰め、私の顔を覗き込むように近づいた。
「ごめんね。どうしようか?」
彼の顔がすぐ近くにある。
頬が触れてしまいそうなほどの距離に、思わず息が詰まり、鼓動が急に速くなる。
「私など、取るに足らない人間です」
そう答えながらも、胸の奥では勝手に期待して、勝手に落ち込んでいる自分がいる。
そんな邪な気持ちが、ひどく恥ずかしかった。
「それは困る」
カイル様は静かに首を振った。
「あなたの将来や人生より大事なものなんて、僕には何もないよ」
彼の瞳は鋭く真剣で、真っ直ぐにこちらを捕らえていた。
(その言葉が本当だったら……どんなに嬉しいだろう)
期待しそうになる自分を振り切るように、私は無理に笑い飛ばした。
「え?は、ははは……冗談がすぎます!」
けれど、頭に血がのぼっているのは自分でもわかった。
顔が熱くなり、きっと真っ赤になっている。
俯いた私の顔を、王子はさらに身をかがめて覗き込んできた。
「冗談ではないよ。バイオレットにとって何が一番幸せなのか。
それを守るのが、僕の最優先事項なんだ」
(私の気持ち……。自分でも、もう、よく分からないのに)
「私のことなどよりも、カイル様に何かあってはとても困ります」
「僕のことは大丈夫。どうせ、誰も僕には手出しできないから。
……君のことだけが心配なんだ」
王子は苦笑するように言った。
王になることが決まっている人。
その絶対的な立場の人が、身分の低い私のことをこんなにも気遣ってくれる。
その優しさが、胸にじんわりと沁みた。
「君が困るなら、今すぐこの噂を否定してもいい。君の人生だけは、絶対に守るから」
真剣な瞳だった。
その瞳を見ていると、王子が本当に私を好きだったらどんなにいいだろう、
そんなことを思ってしまう。
けれど――私は不意に思い出した。
(ああ……この人は、本当に心が美しい方だったわ。
私への恋心ではなく、一人の人間としての誠実さなんだわ)
温かな尊敬が湧き上がると同時に、まだ少し胸の奥が痛い。
「王子は本当に、どなたにでもお優しいのですね」
私は顔を上げた。
「王子のように心の美しい方……初めてお会いしました。
仕事相手の私などに、ここまでお気遣いくださって、それだけで光栄です。
ありがとうございます!」
私は、ありったけの感謝を込めて深々とお辞儀をした。
すると、カイル様は少し戸惑ったように固まってしまった。
「俺は……そんなできた人間じゃないけど……」
小さく呟く声が聞こえた。
(わあ。今、俺って言った!)
不意に出た不意に出た「俺」という言葉が、なんだか素の彼をしれたような気がして、胸の奥がざわめく。
その時。中庭から見上げた中央棟の壁面が、ふと目に留まった。
「あ……王子。この中央棟の側面。
午後は見張り棟と天守閣の塔、宮殿の影が全てこちらに落ちるのですね。
他はこんなに明るいのに、ここだけ真っ暗で、建物の様子がほとんど何も見えないですよね」
「本当だ。すごく見えづらいね……もしかして、何か気づいたの?」
「やはり、こちらにこそ何か隠れているかと」
「根拠があるんだね」
「はい。確信しました。今まで他のどの場所でも見えなかった、
あるモノがその影にあるような気がします」
「ちゃんと見える人には、見えるんだね」
王子が感心したように言う。
「普段、王政の時間だと思うので、こちら側に出入りしている人は少ないとは思うのですが……。
もしできれば、明日の午前中、もう一度こちら側の庭に出ても大丈夫ですか?」
「ああ。もちろん。目立たないように中央棟から降りれば、大丈夫だよ」
そういうと、カイル王子は、ふふふ……と堪えきれなかったように笑い出した。
「急にお顔が真剣な表情になったから……何事かと思ったら」
「突然すみません」
「いや、ありがたいよ。プロモードに変わったんだね。
それでこそ――僕の頼もしいバイオレット・ローズだよ」
僕のと呼ばれるなんて。
一体に花が咲き誇って、空気が甘く震えたような気がする。
それが仕事への信頼だと自分に言い聞かせても、熱くなった頬はなかなか冷めてくれなかった。
――でもその時、私はまだ気づいていなかった。
中央棟の暗い窓の奥から、自分たちをじっと見つめる、
憎悪に満ちた視線があることに。




