第六話
イリーナ宮殿は、東西に庭があり、南北三つに分かれる棟の周りを複数の見張り塔が囲んでいる配置だった。礼拝堂、王政の間、王広間など、多くの人が行き来する南棟。王室の居住区域のある北棟。その間にある中央棟は、使用人、騎士団の当番宿泊施設の上に、古城ホテルのように客室が整然と並んでいた。外交会議のために訪れている隣国の大使や、各都市の役人たちが宿泊する施設だった。私が泊まっている部屋は、その客室の奥の間に位置し、地下王宮へ続く秘密の入り口になっている。
王子と共に王宮巡回を終え、王子と共にサロンで早めの夕食をいただいた後、一度二人で私の客室を通り、地下二階の地図を見に行った。回った場所と地図を照らし合わせるけれど、一日目は何も見つからなかった。
「ありがとうございました。やっぱり毎日、地図の確認をしないとわからないことが多いようです」
「そうだね、毎日、またここで確認しにこよう」
地図を見終えて、王子と二人で地下を歩き、地下一階への階段を歩いている時。
「王子、こちらの壁ですが、途中から素材が違う気がするのですが」
「ええ?この階段の横?」
「右手が古い方で、左手が新しい場所だと思うのですが、、、」
私は、古くなっている方の壁紙がやがてめくれそうな部分をスッと指で払ってみた。
「あれ、ここの壁紙、もう取れそうなんじゃ、、、」
そういうと、王子は、少しめくれている部分から、豪快に破った。
「『9258』?」
「なんの数字だろう」
「これって、何かに使う数字じゃないでしょうか?」
「え?」
「百年前に仕掛けができたはずですよね。壁紙の経年劣化を計算して、ここに文字が浮かび上がるようにしてきたのでは?」
「、、、確かに。とりあえず、覚えておこう」
私はノートにメモをとると、すぐに数字を消し、壁紙を元の位置に戻して、貼り直した。
「ここを誰かが通ることはないと思うのですが、念の為隠しておきますね」
私の言葉に、王子もにっこり笑顔でうなづいてくれた。
二人で、音を立てないように、階段で客室へ上がっていった。そして、部屋へ着くと、テーブル席に腰掛け、顔を近づけて囁くような小声で話をした。
「明日からも、まずはたくさんの人が出入りする場所を見て回る予定です。
その後にこの地下通路や、塔を見て回ろうと思っています」
「了解。じゃあ、明日からはこの部屋に使用人が出入りすることもあるだろうから、地下への扉は普段通り、棚に隠すね」
王子が指をかざすと、重厚な棚が魔法で音もなく移動し、壁の隠し扉を完全に塞いだ。 「……これなら誰にもわかりませんね」
「棚のドレスをかき分けて、壁側に君の腕の印をかざすと扉が現れて開くよ」
王子は棚の中を少し開け、仕組みを見せてくれる。
「わかりました、朝はそれで行き来してみます」
「実は、この仕掛けと地下王宮を知っているのは、今の王家では僕と、側近のキリアンだけなんだ。極秘でお願いね」
(王様さえ知らない秘密を、私に……)
「そんな大役、私で本当によかったのでしょうか」
「君のことは心底、信頼しているから」
王子のまっすぐな瞳に、胸が熱くなる。
今までの私は、シャオンや建築省の人たちとうまくやってきたつもりだった。互いに信頼関係があって、仕事も忠実にこなしてきた中でも、ちょっと引っかかるような重圧は常にあった。上に報告する時には、私の仕事をシャオンの成果として発表しなければならなかったし、表向きは穏やかでも、女性は男性を立てるべきだという空気が当たり前だった。ときどき感じる言葉の違和感や、さりげない嫌味。それでも私は、些細なことだと自分に言い聞かせてきた。人が集まる場所なら、多少の違いはあって当然だと。家族や友人ですら、小さな摩擦はあるものなのだから。
けれど――この王宮に来てからというもの、王子に対してほんのわずかな違和感すら感じたことがなかった。洗練された気遣いのせいなのか。それとも、生まれつきの人の良さなのか。説明できないほど、不思議な安心感がある。
「制約はもちろん守ります。でも……こんなに簡単に私のような者を信用していただいて大丈夫なのかと……」
「僕が君を簡単に選んだと思う?」
「え……?」
王子は少しだけ笑って続けた。
「ここの国民は五十万人ほどでしょう。その中で建築省は千人くらい。その千人の中から、たった一人選んだのが君だ」
一瞬、言葉が出なかった。王子が決して妥協や惰性で人選したわけではないこと。何度も視察し、判断を重ねた上で選ばれたこと。その中に、私がいる。信じがたいけれど――王子の言葉で、凍てついていた私の卑屈な心がじわりと溶けていくようだった。
その時だった。
――ギー、、、ギー、、、ギー。部屋の外に、誰かが忍び寄るような足音が響いた。王子と顔を見合わせる。彼は人差し指を立て「静かに」という合図をして、音もなく扉へ近づき、覗き穴を確認した。
すぐに王子は戻り、私の耳元まで来て小声で囁いた。
「シャオン・ブリュと、建築省の長官ブルーノが廊下にいる」
「ええ?どうしてこんなところまで……?」
「彼らを中に入れるわけにはいかない」
「もちろんです。絶対に部屋には入れませんし、彼らとはきちんと距離を取ります」
さっきまで選ばれた喜びに浸っていたのに、胸の奥に小さな影が落ちる。
「うん。じゃあ、今は僕が対処するから」
「ありがとうございます」
「また、明日の朝七時に。ここで打ち合わせをしてから予定を確認しよう」
「はい」
王子は力強く頷くと、静かに扉を開けて外へ出た。私はすぐに鍵を閉め、覗き穴に吸い付くようにして外の様子を伺った。
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カイル王子は客室の並ぶ廊下へ出ると、さっと扉を背にして二人の前に立った。
「――シャオン・ブリュに、ブルーノ長官。こんな時間に、私の客人の部屋の前で何を?」廊下に、王子の冷徹な声が響く。二人は蛇に睨まれた蛙のように後ずさった。
「同僚の様子を、少し見に来ただけです」
ブルーノ長官が、おずおずと頭を下げた。
「なぜですか?建築省では彼女はしばらく休みのはずでしょう。自由に過ごして問題ないはずですが」
王子の言葉にブルーノは頷いた。だが、シャオンは皮肉の浮かんだ目で、王子を見上げた。
「そうですね。ですが――王子ともあろうお方が、こんなに長い時間、彼女に張り付いて、ついには部屋から出てくるとは……一体、何をお考えで?」
鋭い視線が王子を射抜く。
「もし王宮や町の建設に関わることでしたら、建築省を通していただきたいのですが……」
ブルーノまでもが口を挟んできた。
「お二人には関係のないことだと思いますが」
王子はきっぱりと断ったが、二人は引かなかった。
「ですが、急に平民の女性にここまで関わるなんて、不自然です」
「王子がこんな時間に、女性の部屋へ出入りしている姿。国民の目にどう映ると思われますか?」
二人の執拗で不躾な言葉に、私は胃のあたりが痛むのを感じた。王子に楯突いてまで、彼らは何がしたいのだろうか。ハラハラしながら見守っていると、不意に王子が低く笑い始めた。
「ふふふ……なるほど。私の言動がそれほど気になりますか。では、お教えしましょう」
その言葉に、私はぎくりとする。
(まさか……、この二人にも、地下王宮の仕事を頼まれるのかしら)
確かに、私より優秀な二人がいた方が、王子にとっては心強いのかもしれない――。息を呑んだ次の瞬間、王子の口から、思いもよらない言葉が飛び出した。
「実は私――バイオレット・ローズ・アザール様に、片思いをしているのです」
堂々とした宣言に、ブルーノもシャオンも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。でも、覗き穴のこちら側で、私の耳には、その言葉がまるで天の音楽のように美しく響いた。「え? なんですって?」
「今、ちょっと聞き取れなかったのですが」
二人は半笑いのような、嘲るような表情を浮かべている。王子はふと、私のいる扉の方を向いた。覗き穴越しに一瞬、目が合った気がした。胸がどきりと跳ねる。そして、王子はゆっくりとした声で続けた。
「バイオレット・ローズ様が好きなのですが、どうすれば彼女のお心を開けると思いますか?」
王子の甘く、気品に満ちた声が廊下に響いた。私の胸の鼓動が大きくなりすぎて、向こう側に聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだった。
ブルーノとシャオンは目を丸くし、顔を見合わせる。
「彼女が、王宮や建物がお好きだと伺ったので、これを機に、思う存分宮殿内をエスコートして差し上げて、彼女に気に入られたいと思って張り付いているのですが」
王子の流れるような口調を、ブルーノは遮った。
「いくらなんでも……」
シャオンもすぐに続ける。
「王子はこれから他国の姫君や、官僚のご令嬢と婚約されるのでは?」
「私が?そんな話、一度でもありましたか?」
王子は不思議そうに首を傾げた。ブルーノが慌てて聞く。
「王様やお妃様は、そのお気持ちをご存知なのですか?」
「知らないでしょうね」
王子はあっさり答えた。
「ですが、私は結婚を制限されているわけでもありませんし、政略結婚の必要もない」
その言葉の意味を、よくわかっていた彼らは、ゴクリと唾を飲み込む。
「それに、結婚などより前に、自由恋愛くらい楽しみたいので」
その、王子の軽やかな声に、ブルーノはにやりと笑った。
「ああ、王子もお好きですねぇ……」
けれど、横にいたシャオンはまだ表情が歪んだままだった。
「……王子にはもっと身分も高く、美しい華やかな女性が大勢いらっしゃるでしょうに」
「そうかな?」
王子は面白そうに首を傾げた。
「私は、彼女ほど美しく、溌剌とした可愛らしい女性を見たことがないが」
「は……王子はスキモノなのですね」
「……あんな女性らしさや可憐さのない、暗い女のどこがいいんですか。
あいつは、昔から仕事のことしか頭にないですよ」
その言葉が、胸に小さく突き刺さる。
(それが、長年そばにいたシャオンの気持ちだったのね)
二人が半ば嘲るように笑ったその瞬間--。空気が変わった。
「その言葉――しかと受け取ったからな」
王子の氷のような鋭い声が二人を射抜く。
「今後、一切。絶対に彼女に手を出すな。近づくことも許さない」
突き刺さるような威圧感に、シャオンとブルーノが真っ青になって後ずさるのが見えた。
(王子……なんて上手い演技なのかしら。まるで、本当に威嚇しているみたい……)
でも、すぐに王子は声色を明るく変えた。
「では、私の恋路を、応援してくださいますよね?」
王子は逃げ場を塞ぐように、畳み掛けた。
「え?」
二人が戸惑う。王子はむしろ楽しそうに、さらに言葉を重ねる。
「シャオン・ブリュは、バイオレットさんの幼馴染だそうですね。彼女のことをよくご存知だと聞きました」
そして、わざとらしいほど優雅に言った。
「よろしければ――私にバイオレットさんのことを教えていただけませんか?今から、お時間は?」
「は、はあ……」
断れる空気ではない。シャオンは曖昧に頷く。対照的に、ブルーノ長官は王子に取り入る好機とばかりに目を輝かせた。
「もちろんです!レティのことなら何でもお聞きください」
「では決まりですね」
覗き穴の向こうで、王子は高らかに笑いながら、シャオンの肩を強引に抱き寄せて階段を降りていった。
その鮮やかすぎる手腕に、私はただ呆然と立ち尽くす。
(王子は、私に恋をしているという『設定』にして、そばにいる口実を作ってくださったんだわ。そうすれば、秘密の計画も怪しまれずに進められるから……)
頭では、それがお芝居だとわかっている。けれど、「片思い」や「可愛らしい女性」という言葉の破壊力は凄まじかった。一瞬でも、もしそれが本当だったらと期待してしまう。仕事に対する矜持と、彼への甘い憧れが混ざり合い、全身の血が熱く逆流する。
私は立ち去る彼らの影を見送ると、たまらず窓を開けて夜風を吸い込んだ。
「……落ち着かなきゃ。お風呂に入って、明日に備えよう」
この胸のざわつきを、どうにかして振り切らなければならない。私は急ぎ足で、この甘い気持ちを振り切るように、熱い湯船に身を沈めた。




