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第二十二話

 祝祭の喧騒がようやく凪ぎ、王宮が深い静寂に包まれ始めた夜だった。未曾有の王位継承式から一週間。完成したばかりの噴水広場からは、風に乗って微かに音楽の余韻が届いている。それすらも夢の残り香のように淡く、穏やかな静けさが、私たちのいる部屋を満たしていた。


 カイルの私室のテラスに立ち、夜風を頬に受ける。激動の日々が嘘のようだった。ふと、手すりに置いた指先に、かすかな違和感が走る。ほんの一瞬。けれど確かに――“疼いた”。思わず自分の手を見つめる。痣もなければ腫れてもいない。けれど、胸の奥底に沈めていたはずの“記憶”が、音もなくひび割れた。


(……今のは)

 それは単なる思い出ではなかった。もっと深い場所から、魂を直接引きずり出されるような感覚。

――ずきり。何も触れていないはずの指先が、内側から焼かれるように痛む。握ろうとしても力が入らず、思うように動かない。関節が膨れ上がり、形を変え、自分の体ではない何かに侵食されていくような錯覚。何度も、何度も繰り返した、あの絶望的な痛み。


(ああ……また、動けなくなるの……?)

心臓の音が速くなる。一瞬眩暈がして、手を確かめると、ちゃんといつも通りに自由に動く手だった。

「……バイオレット?」

不意に名前を呼ばれ、肩が跳ねた。振り返ると、カイルがこちらをじっと見つめていた。その瞳があまりに真剣で、温かくて――私は、もう逃げられないと悟った。誰にも話したことはないし、話す必要もないと思っていた。けれど、今、目の前にいるこの人にだけは、私の魂の成り立ちを知ってほしかった。


「……カイル。少し、不思議な話をしてもいい?」

「どうしたの。顔色が悪いよ」

私は迷いながらも、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。

「私……今よりずっと前に、長い間、手が自由に動かせなかった時期があったの」  

かつての世界の話。幼い頃から患った重い病のこと。

「手足が激痛と共に腫れ上がって、変形していくのを繰り返したの。強い薬を打ち続け、布団の重みすら指に響くほどで。ベッドから動けない時間が、何年も続いたの」


カイルは黙って、私の言葉を一滴も溢さないように聞き入っている。

「身体は動かなかったけれど、その世界にはね、遠い国のお城や歴史的な建物の講義を、動く絵で見られる装置があった。私はそれをお守りのようにして、膨大な情報を頭に詰め込んだの。その時は何の役にも立たないと思っていたけれど……いつか、何かの形で誰かの助けになれたらいいのにって、それだけを強く願っていた」

一気に話し終え、私は少し照れくさくなって笑った。

「ふふ、ごめんなさい。変なことを言って。前世の記憶なのよ」  

笑い飛ばそうとした私を、カイルは遮るように、強く、強く抱きしめた。私の肩に顔を埋めた彼の瞳から、大粒の涙が溢れ、服を濡らしていく。


「……全部、繋がっていたんだね。君がどれほどの痛みに耐えて、その知恵を宝物のように守ってきたか。そのすべてが今、この国を救い、僕を救ってくれたんだね」

カイルは震える声で、言葉を噛みしめるように言った。

「君が学んでくれたことで、この国は幸せに包まれた。僕も王宮も、新しく生まれ変われたんだ。本当に……本当にありがとう、バイオレット」

「そう言ってくれて……嬉しいな」


彼の温もりに、胸のしこりが解けていく。けれど、まだ一つだけ、言えていないことがあった。

「……でも、まだ、心配なことがあるんだね。僕にも伝わってくるよ」

「……ええ。私は、一人娘だったから」

脳裏に浮かぶのは、病室の窓辺に立つ影。

「病気がわかってから、母は一人で私を支えてくれてたの。仕事か看病か、そのどちらかしかない毎日で。……あんなに優しかったあの人が、今、幸せでいてくれたらいいのに。そう思わずにはいられなくて」  

とめどなく涙が溢れ出した。死にゆく娘の手を温め続け、未来を失った私に、何十年も毎日笑いかけてくれた母。きっとまだ若かったはずの彼女の、真剣で優しい横顔が、どうしても忘れられない。

「君のお母さんは、君がこうして笑っていることが、何よりの幸せだったはずだよ」

「……そう、かな」

「そうだよ」  

カイルは迷いなく、私の目を見て即答した。


「バイオレットのその願いは、きっと届いている。絶対に、お母さんも幸せになっているはずだよ」

彼の揺るぎない確信が、不思議なほど真っ直ぐに胸に響いた。  

私はそっと目を閉じ、遠い空の向こうへ祈った。

(……いつか、どこかで。幸せな母に、会えますように)

祈りを終えた私の手を、カイルがそっと持ち上げた。


そして、跪くように身を屈めると、ゆっくりと、深く、私の手の甲へ口づけを落とした。  

それは今までのどのキスよりも静かで、圧倒的に重い誓いだった。

「この手があったから、僕は今、生きている」  

唇を離さぬまま、もう一度。

「この手があったから、この国は守られた」  

慈しむように、さらに一度。

「この手があったから……僕は、君に出会えた」

止めようとしても、涙が止まらなかった。そんな私を見つめ、カイルは静かに息を吸う。その瞳には、一国の王としての威厳と、一人の男としての至純な愛が宿っていた。


「バイオレット」  

彼は私の手を離さないまま、ゆっくりとその場に跪いた。

「僕は、この国の王になる。けれどそれ以上に――君の隣に立つ、ただ一人の人間でいたい」

月光が彼を照らし、王としての覚悟が、その輪郭をより鮮明に縁取っていく。

「君のその手で、これからもこの国を、そして僕を支えてほしい。僕の人生のすべてを、君に預けたいんだ」


彼は最後にもう一度、私の手に、誓いの接吻を捧げた。

「――僕と、結婚してください」


 ――その言葉を、すぐには理解できなかった。

指先に残るぬくもりが、じわじわと胸の奥へと沈み込んでいく。何度も、何度も、この人は私の手に触れてきた。守るように、確かめるように。けれど、今のそれは、今までのどれとも違っていた。

それは、本当に真っ直ぐで、揺るぎない誓いだった。

 視界が滲む。言葉にしようとするほど、胸の奥に溜まっていたものが溢れて、うまく息ができない。

(……この人と、歩いていく未来が、あっていいの……?)

 前世で、叶わなかった未来。痛みに縛られ、手を伸ばすことすらできなかった日々。それでも、いつか誰かの役に立てたらと願い続けた、あの時間。そのすべてが、今、この人の言葉に繋がっている気がした。

 震える指先で、彼の手を握り返す。

「……はい」

 ようやく絞り出した声は、驚くほど小さかった。けれど、それでも確かに届いたのだろう。カイルの瞳が、息を呑むように揺れる。

「――私で、よければ」


 そう続けた瞬間、彼の表情が、崩れた。王としてではなく、ただ一人の男として、どうしようもなく安堵したように。優しい笑顔に変わっていった。

 次の瞬間、強く、引き寄せられる。

「ありがとう……バイオレット」

耳元で囁かれる声は、少し震えていた。そのまま、彼はもう一度ゆっくりと、私の手の甲に口づけを落とす。それは先ほどよりも、深く、長く――まるで、この先の人生すべてを刻みつけるかのように。

私はその温もりを、逃さないように、ぎゅっと握り返した。


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