第二話
「レティ、君の大好きなすみれの花だよ」
夢の中のシャオンは、まだ柔らかい春の光をまとっていた。よく一緒に遊んでいた、六歳くらいの頃だろうか。私の手を取り、誇らしげに小さな花を見せてくれる。
「俺はレティが好きなものを、一番よく知ってるだろ?」
「うん」
「だから、お前は俺のことがずっと好きなんだよ」
「ふふふ」
眩しい笑顔。大好きだった、あの頃のシャオン――。
――はっとして、目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど上質な天蓋と、白く柔らかなシーツ。少しだけ開いたカーテンの隙間からは、朝の光が差し込んでいた。
(……なんて、残酷な夢)
あの優しいシャオンには、もう二度と会えない。現実は、職も家計も、積み上げてきた信頼も失ったどん底だ。胸の奥に、泥のような絶望が沈んでいた。立ち上がれず、ベッドに座ったまま項垂れてしまう。
「ああ、もう起きていたの?」
音もなく扉が開き、カイル王子が姿を現した。
「すみません、そのまま朝まで眠ってしまって」
ドレス姿でベッドに入ったままの格好が恥ずかしくて、すぐに立ち上がった。
「大丈夫かな?昨夜は気絶したようにそのまま眠ってしまったから、心配していたんだ」
「……ありがとうございます。お見苦しいところをお見せしてすみません」
王子の端正な顔を直視できず、私は深々と頭を下げたまま俯いた。笑顔でお礼を言うべきなのに、喉が詰まって顔を上げられない。そんな私を急かすこともなく、王子はゆっくりと声を落とした。
「もし体調が良ければ、お湯浴みでもどうぞ。しばらく滞在してもらう分の、衣服や履き物なんかは全てこちらで用意したから、お風呂に入って着替えたらいいよ」
「い、……いいんですか?」
「うん。今お湯を張ったばかりだから」
「ありがとうございます」
「ゆっくり浸かってね。心まですっきり洗うつもりで。何も心配しなくていいから。僕は君に、大切なお仕事の依頼があるんだ」
王子の声は、低いけれどゆっくりと優しい響きだった。
「お仕事……ですか?」
「ああ。引き受けてくれたら、ご家族の生活も僕が保証するよ。だから、安心してほしい」
「っ……本当ですか?ありがとうございます!」
私は思わず、祈るように両手を合わせて、王子にお辞儀した。
「ふふふ。終わったら、この扉から僕を呼んでね」
王子の笑顔に促され、私は浴室へ向かった。
用意されていたバスタブには、ビロードのようなバラの花びらが浮かんでいた。
(……優しいバラの香り)
さっきまで夢で見ていた、儚いすみれとは違って、本物の豊かな香りが立ち込めていた。
紫、黄色、ピンク。その中の深い紫に目が留まる。
(この紫の花びらは、ヴァイオレット・ローズだわ。私の名前と同じ、深い紫の薔薇)
私の本名が『バイオレット・ローズ・アザール』だと、王子は知ってらしたのかしら。熱いお湯に浸かっているうちに、尖っていた心が少しずつ解きほぐされていった。
支度を済ませると、王子は部屋のドアを開けると、暗くて長い階段へ案内してくれた。
「バイオレット建築士、ここだよ」
彼に導かれ、明るい広間を抜けてまた階段から中庭へ出た。その先にあったのは――。
「このトラス構造と輝くアーチ!……なんて美しい……!」
ガラス張りの美しい温室だった。悲しみを忘れて思わず感嘆の声を漏らしてしまった私を見て、王子が愉しげに目を細めた。温室の中へ踏み入れるとまるで別世界だった。差し込む光の筋や、瑞々しい植物、可愛らしいサボテンたち。建築省でずっと学んできた王宮の資料は全て頭に入っているはずなのに、こんな楽園のような場所があったなんて。温かい温室の中央に並べられたテーブル席で、王子が手招きしていた。
「どうぞ、朝食にしよう」
王子は慣れた手つきでスープやパンを並べていく。美しい、真っ白な手が眩しい。
「王子自ら……? 恐縮です、ありがとうございます」
「僕は自分でやるのが好きなんだ。……バイオレット建築士、こちらを」
丁寧すぎる肩書きに、私は少し照れくさくなって口を開いた。
「あの、もしよろしければ、バイオレットと名前で呼んでください。長いようでしたら略称でも……」
王子はパンをちぎる手を止め、ナフキンで口元を拭うと、少し目を伏せて考え込んだ。
「わかった。……本当は、バイオレット・ローズと呼びたいくらいなんだけど」
「……どうしてその名をご存知なのですか?」
「履歴書の一番上にあるでしょ?君にぴったりの、本当に美しい名前だと思っていたから」
王子のグレーブルーの瞳が、熱を帯びて私を射抜く。省内の全ての履歴書をご覧になっているというお噂は本当だったのかも--王子のお人柄に驚いてしまう。
「よろしくね、バイオレット」
フワッと、甘く清らかな香りに包まれた気がした。自分の名前が誇らしい光を当ててもらったような気分にさえなった。
「僕から、きちんとお仕事を依頼して、正当な対価をお支払いするからね。お互いにとって良い契約になるはずだ」
「助かります。……でも、どうして私に?」
「王宮水路や農耕水路の工事の時、全て視察したんだけど……」
「はい、ご挨拶させていただきましたね」
王子は、一度ナイフを置いて、こちらを見た。
「多くの人は専門だけしかしないのに、君は構想、デザイン、施工……そのすべてを魔術を使いこなしながら一人で完結させていたね」
美しい瞳は真っ直ぐに、優しい表情でこちらを見ていた。
「そんな、大したものでは……」
(アイディアやデザインは、ほとんど日本では日常で当たり前のことだったし、ここでは魔術が使えるから、そこまで難しくないんだけどな……)
「あの手腕は衝撃だった。君の頭脳と技術でなければ頼めない仕事なんだ」
彼の言葉が、何よりも確かな救いとなって胸に響く。
(今はまだ辛いけれど……この人の傍なら、また前を向ける気がする)
そう思った矢先、王子は真剣な面持ちで声を潜めた。
「今回の依頼は、小規模だけれど、国家の最重要プロジェクトであると同時に――我が王家の、極秘プロジェクトでもある」
「ええっ?!」王子の真剣な眼差しを受け、胸の奥で建築士としての血が騒ぐ。
(――そんなお仕事を?!絶対に私がやりたい!!)
「ぜひ、お話を聞かせてください」
王子は顎を引いて、こちらを見上げるように私と目を合わせると、指を口元に当てた。
「絶対に秘密だよ」




