第十九話
夜更け、寮の扉を激しく叩く音に、私は飛び起きた。
「バイオレット!! 急いで、カイル王子が危ないかもしれない!」
ルカの悲痛な叫びに、心臓が凍りつく。
「バイオレット、カイルがね、今日ずっといなくて……」
彼女の話を聞きながら、意味を理解するより先に、身体が動いていた。
私は大きなローブを引き寄せ、乱暴に頭から被ると、そのまま外へ飛び出した。
建築省から宮殿へと続く道すがら、キリアンとルカはいくつかの監禁場所の候補を挙げていて、
それを聞きながら、地下の部屋を思い浮かべた。
「……二人にはまだ話していなかった部屋があるの。
二人と行き来していたのは、私と王子が、作業効率を上げるために勝手に作ったショートカットよ」
私の言葉に、驚いた二人は顔を見合わせていた。
「ショートカット……?確かに。私たちが行き来する扉に、新しい素材のものが二つあるわ」
ルカが鋭く聞き返す。
私は頷き、頭の中の立体図面を指でなぞるように説明した。
「百年前の設計のままだと、地下0階と地下一階を何度も行き来しなければいけなかったの。
部屋数や階段も多かったから、魔術で壁に大きな穴を開けて、そこに扉をつけたの。
今はそのショートカットを使ってるからスムーズに出入りできるのよ」
私は簡単にメモを出して、二人に図を書いて説明した。
「知らなかった!!俺たちが知らない中央棟の下の部屋があるってことだな」
「そう」
私たちは騎士居住区を通り抜け、キリアンの部屋から地下へ急いだ。
いつもの地下0階へ辿り着くと、私は壁紙でを剥がして扉を出した。
そしてパズルの鍵を開くと、壁の一部が音もなくスライドし、淀んだ空気の漂う通路が姿を現した。
「こんな場所があったなんて……!」
ルカは目を見開いて、小さな声で囁いた。
「この先って使用人住居の、ちょうど真下あたりだよね?」
キリアンの質問に私は頷いた。
「ええ。もしかしたら、何かわかるかもしれないと思って」
辿り着いた先の広間で、私たちは脚立を伸ばし、天井に耳を当てて上の階の音を探った。
「……こっち側、聞こえるわ。唸り声のような、苦しそうな音が」
「本当か、ルカ!?」
「結構大きい声じゃないと、ここまで聞こえないと思ったけれど」
三人で交互に脚立を登って音を確かめる。
「どうしよう。カイルの声かもしれない……」
顔面蒼白になる私の肩に、ルカが手を添えてくれた。
「急ごう」
「今すぐ俺が使用人住居に尋ねてみるよ」
「そんな。表からホイホイ王子を出してもらえるわけないでしょう」
「騎士団を連れて行けば」
「うまく行くわけないわ」
二人のやり取りを聞きながら、私はもう一つの可能性を計算していた。
図面を広げ、指先で外壁のラインをなぞる。
「……私、外側の窓から回り込めると思う。崖側だけれど、足場はあるはずよ」
「ええ?」
「確かに。この一体の森は立ち入り禁止なんだけど、可能性あるな」
「行ってみましょう」
真っ暗闇の中、三人で滝の轟音が響く森を抜け、中央棟の裏手へ回った。
すぐそばが崖で、足場は悪かったけれど、ちゃんと窓辺までうまく手が届いた。
崖にせり出した使用人部屋の窓から、そっと中を覗き込む。
一室目、二室目……。そして三室目を覗いた瞬間、私たちは息を呑んだ。
そこには、つい先ほど「婚約者」として発表されたばかりのエメラルダ嬢が、
冷徹な表情で座って手を動かしていた。
「どうして、あの人が……」
ルカの声が震える。
私も、理解が追いつかない。
彼女の手元には、簡易ベッドが置いてあって、そこにいる誰かの唇を拭っているように見えた。
そして、何かを小さな声で語りかけていた。
「何してるんだろう……」
しばらく、ベッドにいる人に何か語りかけていた様子の彼女は、
驚愕に震える私たちを余所に、ふわりとローブを被って、部屋を去っていった。
その足音が完全に消えるのを待ち、私たちは窓をこじ開けて室内へ滑り込んだ。
そして、簡易ベッドの布団を乱暴に剥ぎ取ると――
そこには、手足を縛られ、目隠しをされ、
薬物で意識を混濁させられたカイルが無残な姿で横たわっていた。
「カイル……!!」
キリアンが音を立てずに彼を担ぎ上げ、私たちは必死の思いで窓から脱出した。
滝の下を潜り抜け、温室を駆け抜け、地下の客室へ彼を運び込む。
カイルは生きているものの、酷い脂汗を浮かべ、喉の奥で絶え間なく呻いていた。
「どうしよう、カイル! 目を開けて!」
水を飲ませようとしても、彼は激しく拒絶し、戻してしまう。
あまりにも弱り果てた姿に、視界が涙で滲んだ。
「嘘でしょ……一体、何の毒を盛られたのよ」
ルカも顔を真っ青にしている。
私はこのままでは彼の命が危ないと思った。
「キリアン、お願い。王子を抱えて、王子の寝室へ戻って!」
「……そうだな。使用人の部屋から僕が救い出した形にすれば、奴らも手は出せない」
キリアンは覚悟を決め、再びカイルを抱え上げた。
「バイオレット、君はルカと一緒に僕の部屋に潜んでいてくれ。
隠し通路のクローゼットから、いつでも王子の様子を見に来れるはずだ」
キリアンは中央棟の自室からこっそり玄関ホールの裏へ出た。
そして、使用人住宅前へ着くと同時に、静まり返った王宮に彼の怒号が響き渡った。
「騎士団! 誰か、王医を呼べ!! 王子が危篤だ! 賊の隠れ家から今、救出した!」
一気に騒然となる王宮。
夜中にもかかわらず、大勢の騎士団や使用人、王医が駆けつけてきた。
そして王子は速やかに寝室へ運ばれた。
「解毒剤を飲ませ、毒を吐き出させる作業を繰り返すしか方法はないが……」
王宮医師の言葉を遮り、キリアンが前に出た。
「僕がやります。夜通し僕が付き添います。皆さんは下がってください」
キリアンは医者から薬の説明を受けると、扉を閉め、王子と二人きりになった。
クローゼットの隠し扉の隙間から、私は祈るような思いでその様子を見つめていた。
キリアンは医師から受け取った解毒剤を何度も王子に飲ませようとするが、
うまく行っていないようだった。
カイルが苦しげに身体をよじるたび、私の胸が千切れるように痛む。
私の視線に気づいたキリアンが、静かにこちらの扉を開けた。
「……バイオレット」
「私に、させてください」
震える声で告げると、キリアンは一瞬だけ躊躇し、
それから深く頷いて場所を譲ってくれた。
私はカイルの枕元に膝をつき、その熱く、汗ばんだ手をしっかりと握りしめた。
触れた瞬間、心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。
熱い――けれど、それは確かな生命の熱ではない。
内側から毒に焼かれているような、悍ましく不自然な高熱だった。
「……カイル……」
呼びかけても、密やかな睫毛はぴくりとも動かない。
荒い呼吸と、喉の奥で引き裂かれるような喘鳴だけが、かろうじて彼をこの世に繋ぎ止めていた。
こんな状態で、ひとりで苦しんでいたなんて。
胸の奥から、怒りとも悲しみともつかない感情がこみ上げる。
「大丈夫。私が、戻ってきたから」
自分に言い聞かせるように呟き、彼の頬に触れる。
汗で濡れた肌は、驚くほど熱かった。
私は医師から託された薬瓶の蓋を、震える手でこじ開けた。
鼻を刺す、毒々しいほどに強い薬草の匂い。
(これを、飲ませるしかない。でも……)
衰弱しきった彼の喉は、もはや自力で飲み込む力を失いかけている。
無理に流し込めば、気道を塞ぎ、呼吸を止めてしまいかねない。
一瞬の躊躇したけれど、次の瞬間には決断していた。
「カイル、聞こえる? お願い、私に力を貸して……」
彼の頭をそっと持ち上げ、自分の膝へと預ける。
ぐったりとしたその重みが、彼が今背負っている「死」の近さを突きつけてくる。
私は薬を自分の口に含んだ。舌が痺れるほどの猛烈な苦味。
顔をしかめそうになるのを必死に堪え、彼の唇に己の端を重ねる。
触れた瞬間、カイルの身体がびくりと痙攣した。
「……ん、カイル、大丈夫よ……ゆっくり、飲み込んで……」
逃がさないよう、けれど壊れ物を扱うように頬を支え、少しずつ、少しずつ薬を送り込んでいく。
閉じられていた彼の喉が、やがて微かに、けれど確かに動いた。
「そう……その調子よ。いい子ね……」
無意識に零れた言葉に自分でも驚くが、遠い昔の母からの言葉がそのまま出てきたのかもしれない。
何度も、何度も。
互いの息を溶け合わせるように唇を重ね、薬を分かち合う。
そのたびに彼の呼吸が乱れ、指先がわずかにシーツを掴んだ。
――生きている。
まだ、彼は戦っている。その事実だけで、こらえていた涙が溢れ出した。
「お願い……戻ってきて。カイル……!」
最後の一滴を飲ませ終えた時には、私の呼吸も激しく乱れていた。しばらくして――。
「……っ、う、あ……」
彼の喉の奥から、掠れた苦悶の音が漏れた。
「カイル!?」
次の瞬間、彼の身体が弓なりに反り返る。
慌てて背中を支えた直後、彼は激しく咳き込み、黒ずんだ液体を吐き出した。
たらいに広がった不吉な色を見て、いつの間にか背後にいたルカが息を呑む。
「これ……毒が抜けてるんだわ!」
私は目を逸らさず、汚れも厭わず、ただ必死に彼の背をさすり続けた。
「大丈夫、大丈夫よ。全部出して……悪いものは全部……」
何度も吐き出すたびに、荒れ狂っていた彼の呼吸が凪いでいく。
やがて力が抜けるように、彼の身体が私の腕の中に沈んだ。
息が整って、ゆっくりと王子が眠りにつく様子を見て、
キリアンとルカは目を合わせて、ほっと一息ついた。
朝の光が差し込み、部屋中が穏やかな光に包まれる頃。
カイルのまぶたがゆっくりと震えた。
「……カイル……?」
恐る恐る顔を覗き込むと、重い石の扉が開くように、ゴホゴホと、大きく咳き込んだ。
「……バ……イオ……レッ、ト……?」
砂を噛むような、掠れた声。
けれどそれは間違いなく、私の名前を呼ぶ彼の意志だった。
「……っ、よかった……!」
張り詰めていた糸が、一気に解ける。
視界が涙で滲むのも構わず、彼の手を両手で強く握りしめた。
「私よ。ここにいるわ……もう大丈夫」
「もう、どこにも行かせない」
応えるように、彼の指先が、微かな、けれど確かな力で私の手を握り返してくる。
その小さな手の温もりこそが、何よりも尊い、生還の証だった。




