第十二話
自室に戻った後も、頭の中は「あの石柱の配置」で一杯だった。忘れないうちに、記憶にある限りの形状をノートへと書き留めていく。書けば書くほど、ある仮説が頭をもたげ、どうしても今すぐ王子と話したくなった。
(……明日の朝、王の間を少しだけ確認したい)
そのためには、今のうちに王子と話さなければ、朝から動くことができない。
(今、私からあちらの部屋へ行くなんて、驚かせてしまうかしら?)
戻ったばかりの今なら、まだ起きているはずだ。礼儀正しくノックさえすれば、きっと――。私は意を決して棚の奥の隠し扉を抜け、王子の部屋へと続く壁に手をかざした。
静かに現れた魔法の扉を開くと、そこは王子のクローゼットの中だった。私は並んでいる上質な上着の隙間から、手を伸ばし、トントン、と小さくノックしてみる。
「……え?」
向こう側で王子の小さな声が聞こえた。直後、彼が慌てて部屋の入り口の鍵を閉める音が響く。急ぎ足で戻ってきた気配と共に、クローゼットの扉が勢いよく開かれた。
「バイオレット! 来てくれたの?」
囁くような声で、王子は嬉しそうに笑った。整然と並ぶ衣服の間から顔を出している王子の姿が、なんだか年相応の青年のようで、たまらなく愛らしく見えた。彼は私の手を迷わず取り、吸い寄せるように部屋の中へと導かれた。
「さあ、入って」
王子の私室は、ネイビーの壁面に繊細な金の装飾が施され、まるで宝石箱の内側に入り込んだかのような美しさだった。私は誘われるまま、豪奢なテーブル席へと腰を下ろした。
「僕の部屋へようこそ。……君を迎えられて、本当に光栄だ」
「すみません、夜分に突然」
「いや、嬉しいよ。家族とキリアン以外にこの部屋へ誰かを招いたのは、君が初めてかもしれないな」
そう言って、彼は少し照れたように首を傾げた。
「それで、何か急ぎの用件があったのかな?」
「はい。明日の朝、できれば王の間をこの目で確認したいのです」
「分かった、一緒に行こう」
「ですが、王政の時間は入れませんし、その前後ですと王様がいらっしゃいますよね……?」
「うん。むしろ『ご挨拶に』ということで、正面から堂々と行こうか」
「あ……! 私、これほど長くお世話になっていながら、まだ一度も正式なご挨拶すらしていませんでした。不調法すぎて、申し訳ありません!」
「大丈夫だよ。実は授賞式の後、すぐ1週間ほど父は、近隣へ出かけていて、僕は帰ってきてから君と挨拶に行こうと思っていたんだけど、その後、父はちょっとした病気でしばらく寝込んでいたんだ。明日あたりにやっと、挨拶できるくらいだと思う」
「……そうだったのですね」
「そうでなくても、大丈夫だよ。父は、君が僕の『大切な人』だと知っているし、むしろ応援してくれているから」
王子はさらりと言った。
「そ、それは……余計に緊張します。もっときちんとお伺いしておくべきでした」
焦る私の様子を見て、王子は声を出して笑った。
「ははは、明日は父の好物を持って行こう。父はオレンジが大好きなんだ。朝、キッチンから一番いいものを持ってくるよ」
私の不安を払拭するように、彼は優しく「はからい」を提案してくれた。ひとまずの安心感を得て、私がスッと席を立とうとすると、王子はスッと私の手を包み込んだ。
「……なんだか、名残惜しいな。せっかく君が、ここまで来てくれたのに」
「ふふ。では、続きはまた明日、王の間で」
クローゼットへと戻っていく私を、王子は名残惜しそうに見送った。
「バイオレット、またいつでも来て。――待っているから」
去り際に見せた彼の、蕩けるような甘い笑顔。自室に戻ってからも、その表情が瞳の裏に焼き付いて離れず、私の夜はいつになく騒がしいものとなった。
―――――――
翌朝。朝食を終えた私は、王子と共に籠いっぱいのオレンジを抱え、王の間へと向かった。
コツ、コツ、コツ――。美しく磨き上げられた石床を歩くたび、私の靴音が静謐な空間に高く響き渡る。国王の書斎の手前で立ち止まり、私はドレスの裾を優雅に持ち上げ、深々とお辞儀をした。
「国王陛下。ご挨拶が大変遅くなり、誠に申し訳ございません」
「気になさらず。こちらも公務が立て込んでいたし、なかなか機会がなかったんだ。それに……王子から、君のことは大体聞いているからね」
王は穏やかに目を細め、包容力のある笑みを浮かべた。
「この王宮での生活は、楽しめているかな?」
「はい。素晴らしい蔵書の数々に、息を呑むほど美しい薔薇園……毎日、深い感動を覚えております」
「それは良かった。不自由なことがあれば、いつでも王子に言いなさい。遠慮はいらないよ」
慈父のような温かい言葉に、私は胸を撫で下ろす。だが、目の前のこの優しい王の顔と、カイルから聞いた「黄金を狙う野心家」の顔――一体どちらが真実なのか。今の私にはまだ、その深淵を測り知ることはできなかった。
「父上。こちら、お好みのオレンジをお持ちしました」
「ありがとう、いただこう。……気が利くね」
王子と王が親しげに言葉を交わす間、私は目を伏せて敬意を払う振りをしながら、目に床石の配置を焼き付けていた。
(……やはり、思った通り。この床石の並びは、地下のあの部屋の天井と、寸分違わず同じだわ)
先ほど歩いてきた時に聞いた、自分の靴音を脳内で再生する。反響の速さ、音の硬さ、空気の震え。後で地下へ降りた際、この靴で同じように石柱を叩けば、必ず「違い」が分かるはずだ。私は確信を得て王子に視線を送ると、二人で静かに王の間を後にした。
王政の間へと向かう王子と共に廊下を歩きながら、私は周囲に悟られないよう、極めて小さな声で呟いた。
「午後は……」
「ああ。昼食は別々に取った後、それぞれの部屋へ戻ろう。……誰の目にも、僕たちが午後をのんびり自室で過ごしているように見えるようにね」
「分かりました。私も、図書室で借りられるだけの本を抱えて戻ります」
「うん。……また後で」
一時の約束を交わし、私たちは一度距離を置いた。監視の目を完璧に欺き、それぞれの偽装工作を終えた後――私たちは、午後一時の影が落ちる滝の前で、再び合流した。
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「地下0階」の静寂の中、王の間の真下に位置する石柱たちを前にして、私は手元のランプを高く上げて見せた。そして、王子の目をまっすぐ見て、報告した。
「王子、見てください。今日確認しましたが、王の間の床石の継ぎ目と、ここの石柱の天井の模様の位置が、一致しています」
「……ああ、さっきはこれを確認するためだったんだね」
「はい。それから……少し失礼します」
私は迷わず靴を脱ぐと、その踵で石柱を叩いた。
――コーン、カーン、カーン。
石の音の向こう側に、澄んだ金属音が、反響して聞こえる。
「今日、王の間を歩いた時の音と違うのが分かりますか?」
「本当だ。……いつもの床の石の音と全然違う」
「高音の響きが鋭く聞こえますよね。やはり、この中に――」
確信を得て頷き合う。王子が持っていたナイフで表面を削るが、石層は思いのほか厚かった。王子は集中して魔法を唱え、石柱の表面だけを部分的に砕いた。剥がれ落ちた石の破片の奥から現れたのは、圧倒的な存在感を放つ「金の壁」だった。
「王子……!」
「すごい……バイオレット! やっぱり……君と辿り着ける気がしてたんだ!」
王子は驚愕と歓喜が混ざり合った満面の笑みで、私の肩を抱き寄せ、激しく揺らした。こらえきれないといった様子で私を強く抱きしめると、彼は顔を私の肩の深いところまで沈めてきた。
長年、たった一人でこの宝探しという重圧を背負い、孤独な探索を続けてきた彼の歩みを想い、胸が熱くなる。
「……詳細を確認しましょう。柱のすべてが金なのか、それとも……」
私たちは震える手で、他の柱も慎重に調べて回った。銀杏の大木ほどもある巨大な柱が、全部で十六本。その一部を削るたびに、純金の輝きや、埋め込まれたルビーやエメラルドの原石が姿を現した。
「これ……中身がすべて詰まっているのだとしたら、とんでもない量だ」
「……国が千年、安泰でいられるほどの富ですね」
「けれど、確かにこれでは人が堕落してしまう。……隠し通さなければ」
王子は自嘲気味に笑い、一度は剥がした石の表面を魔法で慎重に修復していった。
「一つの柱を一度全て確認してみて、王の間の石の床のどこから入っているのか、床を崩さずにどうやってここから運び出すか……早急に作戦を立てなければなりませんね」
私が努めて冷静に実務的な話を切り出したのとは対照的に、王子は柱に手を当てたまま、今にも泣きそうな顔で硬直していた。
「本当に……あったんだ……」
掠れた声が震えている。
「……王子? 大丈夫ですか?」
次の瞬間、王子は抗えないほどの強い力で、私を抱き寄せた。
「お、王子……? カイル様……?」
「……ごめん。少しだけ、このままで。……今、胸が、震えて止まらないんだ」
耳元で響くか細く優しい声が、胸の奥に染み込んでいく。カイル様はずっと、たった一人で戦ってきたのだ。助けとなるはず女王様が早くに亡くなられ、両親や家族にさえ本心を明かせず、この暗い地下で。そう思うと、彼の孤独が愛おしくてたまらなくなった。私は、彼の広い背中へとそっと手を伸ばした。
「王子、見つけられましたね」
「ああ……君がいたからだ。一人では、絶対に無理だった……。もう秋が来る。今年が終わってしまったら、僕はどうすればいいのかと……」
王子の吐露する言葉の重みに、心臓が締め付けられる。私は一度、彼を元気づけようと少し身を離して、その真剣な瞳を見つめ返した。
「大丈夫です。隠し場所を作るまで、私がついています! まだ四カ月あります、絶対に間に合わせましょう!」
私の声を聴き、王子は私の顔を食い入るように覗き込んだ。
「……本当に?」
「はい! 頑張りましょう!」
彼は深く頷くと、再び、壊れ物を扱うような、けれど激情を隠しきれない力で私を抱きしめた。
「バイオレット……ああ、どうして僕は、こんなにも……」
「えっ……?」
「バイオレット・ローズ様。初めて会ったその時から、あなたをずっとお慕いしていました」
彼の言葉の衝撃で、私の体中の血が沸騰した。
「あなたのことが、おかしくなりそうなほど好きで……。今日、あなたが隣にいてくれたから、これを見つけることができた。……やはり、これは運命だったんだ」
「王子……」
「それなのに、どうして……。妃になってもらえないんだろう。あなたも俺に気を許してくれているような気がするけれど、……どうしたら好きになってもらえるんだろう」
王子の声が少し上ずり、熱を帯びていた。驚いて顔を上げると、いつも冷静で、余裕のある気高い王子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちていた。彼は俯いて、項垂れたまま力なく涙を流している。私は慌てて、指先でその涙を拭った。湿った頬は熱く、触れた指先から彼の切実な鼓動が伝わってくる。
「泣かないでください……そんな……」
「ごめん……。あの日、一度振られてから、ずっと辛かったんだ。……今だけ、もう一度だけ、抱きしめさせて……」
王子がまた、一生懸命の強い力で私を抱きしめてきた。彼の涙が、私の頬や首筋に伝う。
「バイオレットが『一番大事なのは気持ち』と言ったのは、あなたの心のことでしょう?……もし、あなたのお心が俺の方へ向いて、好きになってくれたら、どんなに……」
あまりにも切なく、子供のように泣く彼を見て、私の気持ちも、そして嘘も、限界を迎えた。胸の奥から溢れ出す本音が、もう止められない。
「カイル王子、一番大事なのは、王子のお気持ちです。あなたの気持ちがないと、という意味でした」
「俺の気持ちは決まってるけど、バイオレットは……」
「……私は、ここへ来てから、もうずっと……あなたに気持ちを揺さぶられています」
「え……?」
「カイル様。私も、あなたに夢中になってしまって、困ってます」
「バイオレット……!」
王子は私の名を呼ぶと、ゆっくりと顔を近づけてきた。視界が彼の閉じようとしている瞳で埋め尽くされる。吐息が混ざり合う、あと数ミリの距離。
(ああ、このまま――)
すべてを投げ出して、その唇を受け入れたかった。けれど、私は寸前で一歩身を引き、反射的に自分の手で彼の唇を塞いでしまった。手のひらに伝わる、彼の唇の震えるような熱。私の胸の鼓動は、もう自分でも制御できないほどに早くなっていた。
「ご……ごめんなさい。私も、本当に……心から、カイル様を素敵だと思っていますが……いけないことです」
「……では、なぜ?」
王子が切ないような目で、こちらをまっすぐみていた。私は彼を見上げ、胸の奥にある「恐れ」を吐き出した。
「王子、あまり、私を勘違いさせないでほしいです。あなたはあまりに高貴なお方で、私とは身分が違いすぎます。きっと将来、ふさわしい地位にあり、王家からも国民からも心から祝福される……そんな素晴らしい女性が、あなたの王妃になるべきなのです」
「バイオレット、何を――」
「私のような者が隣にいては、あなたの評判を落としてしまう。王子の未来を、私のせいで汚したくはないのです。……それが、私の本心です」
言い終えた私の指先は、悲しみで冷たくなっていた。だが、王子はその冷えた私の手と腕を、逃がさないと言わんばかりに自分の方へと引き寄せた。そして――。私の手のひらや指先に、火傷しそうなほど熱いキスを落とした。
「ならば……国民も、父上も、すべての王族も。僕が納得させてみせよう」
「え……?」
驚きで声を失う私に、彼はふふ、と悪戯っぽく、けれど絶対的な自信を湛えた笑みを向けた。
「その前に……まずは何より、バイオレット・ローズを一番に納得させないといけないな」
彼は再び、砕けんばかりの力で私を抱きしめた。
「君の気持ちをもっと揺さぶってやる。もう僕は何も怖くない。すべての人の合意を得て、君を手に入れる」
王子は私の両手を捕まえると、今度は逃げる暇も与えず、私のおでこに熱いキスを刻んだ。
「わ!」
「楽しみに待っていて」
満面の笑みを残して、彼はするりと腕を解いた。
「さあ、今日は一旦帰ろう。体勢を整えてから、二人でまた次の計画を練らなきゃ」
彼は大きなバッグを肩に担ぎ、私を気遣うように手を差し伸べてくれた。
(ああ……また……)
たった今まで身体を焦がしていた彼の熱が、あまりに潔く離れていく。ほんのさっきまでそこにあったはずなのに、もう遠くなってしまった気がして、胸がひどく寂しく、切なく疼いた。あの腕の中で永遠に抱きしめられてられたらよかったのに。
(私も……本当に、取り返しのつかないほど彼を好きになってしまったんだわ)
滝の裏を通り、湿った空気の中を戻っていく。腕に回されていた確かな感触、指先へ落ちるキス、涙の熱、甘い吐息。そのすべてが細胞の一つ一つに刻みつけられ、全身が痺れるような不思議な感覚。この温度とこの記憶を、私は一生忘れることはないだろう――。
私たちは深い満足感と、それ以上の熱烈な想いを抱えたまま、それぞれの静かな帰路へ着いた。




