第十三話
カイル王子から、真っ直ぐな告白を受けた午後。
自室へ戻った私は、火照った体と高鳴る鼓動を鎮めるように、
いつもより長い時間をかけて湯浴みをしていた。
夕食を摂るのも忘れ、身支度を整えてベッドへ入ろうとしたが、
時計の針はまだ夜の八時を回ったところだった。
(王子のことばかり考えていたら、時間の感覚が狂ってしまったみたい……)
明日からの作戦を練るべきか、それとも現実を逃避するために小説でも開くべきか。
悶々としていると、クローゼットの奥から――コン、コン、と控えめなノックが響いた。
「はい」
返事と共に扉を開けると、並んだドレスの隙間からカイルがひょっこりと顔を覗かせていた。
「よかったら、一緒にスープとサンドイッチでも食べながら、作戦会議をしない?」
どこかいたずらっぽい微笑みがたまらなく愛らしくて、思わず頷いてしまう。
すると王子は嬉しそうに私の手を取り、そのまま秘密の通路へと引き込んだ。
案内されたのは、地下一階にある一室だった。テーブルには温かなスープとパンが用意されている。
私が一口運ぶたび、カイルは満足そうに微笑んでいた。
やがてスープを飲み終えると、待ちかねたように椅子をこちらへ寄せ、隣に腰を下ろす。
ふいに肩が触れそうなほど距離が近づき、思わず息を呑んだ。
さっき抱きしめられた時の熱が、胸の奥でじわりと広がる。
「……そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
そして、王子はそっと顔を近づけ、小さな声で囁いた。
「ここなら、絶対に誰かに聞かれる心配もないから。……いいよね?」
「ええ。一階との間には、あの『地下0階』がありますし」
「まさか、子供の頃から知っていたこの部屋のすぐ上に、あんな空間が隠されていたなんて……」
王子は感慨深げに天井を見上げた。
「昔から、他の方はこの場所をご存知ないのですか?」
「うん。ここは王族の中でも第一子にしか継承されない、特別な場所なんだ。
とても小さい頃、母と祖母と、よく三人で遊びに来て、長い時間を過ごしたよ」
カイルは壁のカーテンを引き、一枚のタブロー(絵画)を見せてくれた。
「これが若かりし頃の母上。それから祖母と、その両親だ。
……百年前の改修を手掛けたのは、この曾祖父の代だったと聞いている。
家族が一番仲睦まじかった時代の、大切な場所なんだ」
絵を愛おしむように見つめる彼の横顔に、私の胸も静かに温かくなった。
この場所に、彼の大切な記憶が息づいているのだと、はっきりと感じた。
そして今、その記憶の中に、私も深く足を踏み入れていることも。
「ここと隣は客室になっていてね。
『大切な人が困った時や、どうしても助けが必要な時に使うように』と言い伝えられてきたんだよ」
「内装も、本当に美しく保たれていますね……」
「僕とキリアンで、たまに手入れをしているくらいなんだけどね」
「当時の方々の気遣いが、今も息づいているのですね。
管理もしやすそうですし、外の植物たちまで元気そうに見えます」
私の言葉に、カイルは「よくわかってるね」と目を細めた。
「本当は曾祖父たちの代のように、家族で笑って過ごせる場所にしたいんだけど……。
権力争いや後継問題のせいで、父上も祖父上もこの場所を知らないんだ」
王族という逃れられない宿命の中で、彼が抱えてきた孤独の深さが胸に刺さる。
この場所で、彼の切実な願いを叶えてあげられたらどんなにいいだろう。
「……曾祖父が選んだ『王の間の真下』という隠し場所は、完璧だったね。
ただ、僕は今の王宮の状況では、やはり別の場所へ動かした方がいいと思っているんだ」
「……そろそろ、今後の引っ越し先を決めなければなりませんね」
「何か、具体的な構想はあるかな?」
「移動については、図書館で調べた“ある仕掛け”が使えそうですので問題ありません。
ただ――最終的な場所については、まだ決めかねています」
「なるほど……」
カイルは腕を組み、唸りながら考え込んだ。
私は少し視点を変えて、彼に問いかけた。
「では、隠し場所という条件を一度忘れて――
そもそも王子は、これからの王宮をどのように改装したいとお考えですか?
あなたの理想を聞かせてください」
「……理想を言えば、だけど」
そう前置きして、彼は少し照れた様子で視線を落とすと、ゆっくりと言葉を選んだ。
「南棟や玄関ホール、それから中庭のように、
多くの人が自由に出入りできる場所に――誰もが思わず足を止めたくなるような、
美しい装飾や彫刻を施したいんだ」
その声音は、どこか遠くを見ているようだった。
「国内外から多くの人が訪れて、この国を楽しんでもらえるような場所にしたい。
そうすれば、街の人々の暮らしもさらに潤うだろうし」
自分の贅沢ではなく、人々の喜びや国の発展を第一に考える。
いかにも彼らしい、慈愛に満ちた発想だと思った。
「それで、最も開放的な場所である図書館や、二つの中庭の改装を考えてらしたのですね」
「ああ。最近、君のおかげで、だいぶ生活基盤も整ったよね。
災害への備えも王宮外の施設で十分賄えるようになっている。
次の代へ繋ぐのは、人々の心を豊かにする『文化』や『学術』の力だと思っているんだ」
この国は、そもそも大きな自然災害の少ない土地だと感じてきた。
戦も落ち着き、唯一の脅威である魔物も、都市や村を囲う魔術の城壁によって厳重に防がれている。
平和が訪れた今、彼が「観光」という新しい産業を見据えているなんて。
(本当に、カイル王子ほど王にふさわしい方はいないわ。
彼のために、日本のお寺や参拝、世界の巡礼地がそうだったように……
この場所も、人が訪れ、楽園や安らぎの思考に感動するような場所にしたい)
「王子、東の中庭の改装ですが……もしかして、装飾的な庭園や、回廊を設けるお考えですか?」
「ああ、よく分かったね」
王子は少し驚いたように微笑む。
「屋根付きの回廊で囲まれた庭にして、その中で薬草や果実を育てたいと思っている。
研究や瞑想、教育にも活かせると聞いたことがあってね」
私は、彼の中に、地中海文化のパティオ(回廊)への思想がすでにあることを感じた。
「素敵です!観光としても、学術としても。それに――」
私は東の中庭の図面の一角を指し示した。
「ここから地下の基礎が覗かれるのを防げます」
「……なるほど!」
王子の目がはっきりと輝く。
「中央棟の地下を示す手がかりは、一度すべて覆い隠してしまいたいのです。
仮に後世への他の手がかりや謎を残したとしても……ここだけは危険です。
建築家がこの基礎を見れば、一瞬で地下の存在に気づいてしまうので」
「回廊の壁で、美しく隠蔽するんだね!一石二鳥どころか、それ以上だ」
「はい。中庭には柑橘の木々や薬草の花壇、小さな噴水を設え、
柱には思い切り緻密な彫刻を施しましょう。
人々の目を奪う『楽園』を造ることで、その横にある秘密を完璧な死角にするのです」
私の真剣な声に、王子はふふふ、と柔らかい声で笑い出した。
「バイオレットと考えると、楽園までできてしまうんだな。ありがとう」
私たちは広げた地図の上を指でなぞりながら、さらに思考を巡らせていった。
「次に図書室ですが、王子は何か具体的なアイディアをお持ちですか?」
「蔵書数は大陸でも指折りだと思うし、施設としても申し分ないけれど……。
本を閉じた後も、まるで空想の研究世界の中にいるような、想像力を刺激する場所にしたいんだ」
「素敵ですね。回廊での研究と連動させて、顕微鏡や絵画道具、裁縫道具などの貸し出しや、
植物研究の展示スペースもできるといいですね」
(チェコのプラハ城にあった『驚異の部屋』やフィンランドの図書館のように知的好奇心を揺さぶる空間……。科学博物館の簡易バージョンなら、
この世界でも実現できそう!)
「まさに、僕が思い描いていた通りだ! 礼拝堂や政治の場だけでなく、
音楽、演劇、そして科学研究の場まで揃うなんて……」
王子は感嘆したように、笑顔で横の私の方に振り向いてくれた。
その純粋な喜びに、私の胸も高鳴る。
「中央の中庭には噴水や水辺を置いて、生命の源や安らぎを感じる空間にしたい」
「今でも十分素晴らしい景観ですが、さらに格調高くなると思います。
設計次第では、野外劇場のようにも、緊急時の避難場所にもなり得るかと」
「避難場所か……。君の視点はいつも、未来の安全まで見据えているんだね。ありがたい」
王子の信頼に応えたい一心で、私はさらに提案を続けた。
「むしろ、玄関口を装飾する最大の見せ場ですし、その辺りは構想だけお伝えして、
建築省に大々的に任せてもいいかもしれません」
「君はいいのか?」
「はい!正直なところ、ブルーノやシャオンの方が、こういった意匠設計は得意かもしれません」
王子は呆れつつも、どこか感心したように笑う。
「あの人達の手柄になってしまうけれど、それでもいいのかな?」
「適材適所です」
「わかった」
王子の視線はどこか柔らかく、先ほどよりも少しだけ近く感じられた。
「やはり、本題を、どうするかだな、、、」
「一度、私にも考える時間をいただけますか?明日の昼食後に、またこちらで落ち合いたいです」
「ああ。これからの準備も時間がかかりそうだしね。わかった」
そう二人で話し合いを終えて、その日はそれぞれの寝室へ戻った。
やるべきことはとても多かった。頭の中でいくつもの図面が組み上がっていく。
調べ物も、準備も、これから一気に増えていくだろう。それに何よりも、人手が足りない。
ベッドに横になった瞬間、ふと一つの考えが浮かんだ。
(……ルカに、連絡しなきゃ)
私を心配そうに見ていたパーティー会場での表情を思い浮かべる。
早く安心させてあげればよかった。
それに——きっと、力を貸してくれる。
彼女の腕と、あの可愛らしい笑顔があれば、この無謀な計画も形にできる。
そう思った途端、不思議と安心感が胸に広がり、私はそのまま深い眠りへと落ちていった。




