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8【次期部長の重圧】~羽柴洋輝~

次期部長としての、プレッシャーを感じる羽柴のお話。

羽柴視点で、お送りします。

「ん……?」


 それは、インターハイの県予選を明日に控えた金曜の放課後のことだ。羽柴は、佐伯が隣のスポーツ科クラスを訪ねているのを偶然見かけた。

 羽柴のクラスは普通科理数コースだ。市立船戸高校では、全学年に共通して普通科、スポーツ科の二つの科が設けられており、普通科はさらに文学コースと理数コースの二つに分けられている。

 アルファベットでA〜Cまでが文学コース、D〜Fまでが理数コースとされ、スポーツ科はG。羽柴のクラスはFなので、スポーツ科クラスのすぐ隣にあった。


 佐伯――。


 スポーツ科に彼が来ることは珍しかった。以前は、よくチームメイトである雑賀に会いに来ていたと記憶しているが、ある出来事を境にして、それはぱたりとなくなっている。なにか用事でもあるのだろうか、と考えたところでかぶりを振った。


 いや、それは愚問かもな……。佐伯も、とうとう本気になったか。


 今からちょうど半年前になるだろうか。佐伯と雑賀は学校での稽古が終わったあとも、ふたりでよく居残って稽古をしていた。ところがある日、その最中に佐伯は怪我を負ったのだ。左膝の靭帯(じんたい)断裂(だんれつ)という重い怪我だった。


 それ以来、雑賀はひどく責任を感じて悩み、稽古に来なくなってしまった。佐伯の怪我は、あくまで佐伯が自分自身のケアを(おこた)った結果であって、雑賀の責任ではなかったと羽柴は見ているが、雑賀は少なからず、居残り稽古に誘った自分にもその責任があると感じているのだろう。彼は剣道場には顔を出さなくなり、佐伯も雑賀に会いにくることはなくなって、今に至る。


 もうあれから半年か……。 あいつの気持ちを動かせるのは、やっぱり佐伯しかいないんだろうな。


 これまで、羽柴自身も何度か雑賀に話をして、部に顔を出すように言ってきた。だが、雑賀はいつも決まって首を横に振り「オレは行けない」と答えるだけだ。その事については、顧問の織田とも話し合っているし、佐伯にも説得するように言ってきたが、状況にいまだ変化はない。佐伯と雑賀は互いに腫れものに触るように距離を置き続けていた。


 しかし今、佐伯は雑賀のいるスポーツ科クラスを訪ねている。彼はなにやら廊下に雑賀を呼び出して、話をしているようだ。羽柴はそれを確認してから、支度を済ませ、教室を出て部室へ向かった。


 あのふたりの間には特別、強い絆があった。互いの家が近かったこともあってか、ふたりは毎日自転車での通学をともにしていて、部内でも一緒にいることは多かった。また、互いに良き相談相手になっていたようでもある。元々、気も合ったのだろう。口数は少ないが、ストイックな雑賀と、人一倍気遣い屋で優しい佐伯は、とにかく仲が良かったのだ。


 雑賀は「佐伯が怪我をしたのは自分の責任だ」と悔いて、悩んでいる。一方で佐伯も、自分自身のケアを(おこた)った結果、靭帯(じんたい)損傷という怪我を招いてしまったために、雑賀にその責任を感じさせてしまっている今に、深く悔やみ、悩んでいた。

 彼らの胸に残るしこりを取り除くには、やはり誰かの言葉では効果は少ない。互いの気持ちや、言葉でなければ深い場所までは届かない。羽柴はそう感じていた。



 二年生が全員(そろ)う日は近いのだろうか。そうであってほしい、と密かに願いながら、羽柴は校舎を出て、部室に入る。雑賀のストイックさは、航たち一年生に多少なりとも刺激を与えるだろうし、それでなくてもチームメイトは多い方がいい。なぜなら、ともに勝利を目指す同志でもあるチームメイトは、同時にレギュラーの座を争うライバルでもあるからだ。部内での競争率が高ければ高いほど、個々の意識は高まり、強くなっていく。

 羽柴は市立船戸高校の剣道部員はむしろ、少ないくらいだ、とさえ感じているくらいだった。


さて、部室にはすでに数人の部員がやってきていた。その中には部長の市鷹や、昨日からマネージャーとして入部した大地、航たち一年生も(そろ)っている。


「お疲れさまです」

「あ、羽柴先輩! おつかれっす!」

「羽柴、お疲れ。今日は基礎稽古と試合やったあと、明日の準備して終わりだってさ。佐伯は……一緒じゃないのか」


 ネクタイをほどきながら羽柴の後方を(のぞ)くように見て、市鷹が言った。どうやら市鷹は佐伯を待っていたようだ。


「あぁ、あいつ今日ちょっと遅れるかもしれないですけど……。なにかありました?」

「いや。明日の大会準備さ、大地に色々教えてやってほしいから、先にふたりで手つけといてもらおうと思ったんだけど……、遅れるってなにかあったのか?」

「いや、なにかあったってほどじゃないですけどね。佐伯、二Gの前で雑賀と話してましたよ」


 それを聞くなり、市鷹が一瞬、目を見開いた。その場にいた数人も同様に羽柴に目を向ける。その中には一年生部員たちもいた。その神妙な顔つきを見るところ、彼らは一件の内容をすでに知っているようだ。みんなの視線にはわずかにではあるが、期待感が含まれている。佐伯が雑賀を迎えにいった、と誰もが思っているに違いない。


「そっか……。どんな感じだった?」


 市鷹はため息を混じらせて、緊張気味に羽柴に(たず)ねた。彼もまた部長として、雑賀には何度も会いに行き、話をしていたようだ。だが、羽柴と同じく、彼もまた雑賀を連れ戻すことはできずにいた。


「ふたりとも、明るい顔はしていなかったです。おれはあいつらのやり取りを聞いていたわけではないですし、なんとも言えないですが、ただ――」

「ただ?」

「佐伯が今、出て行って、雑賀と話してそれでもダメなら……正直言って、どうしようもないのかなって思うところもあります」

「どうしようもない……か」


 その通りだ、と言わんばかりに、市鷹は頷いて言う。雑賀は今後、剣道部に戻ってくるのか。それとも辞めてしまうのか。それは今や、佐伯の手にかかっている、と言って相違なかった。


 佐伯は案の定、部活が始まる時間が迫ってきても、道場に姿を見せなかった。こうしている今も、雑賀と話しているのだろうか、と頭の片隅(かたすみ)でふたりを気にしながら、羽柴は着替えを済ませて竹刀と手ぬぐいを持ち、道場へ向かう。


「羽柴先輩!」


 不意に背後から声をかけられて振り返る。そこには、昨日マネージャーになったばかりの一年生部員、島津大地がいた。大地はジャージとハーフパンツに着替えていて、上履きを突っかけサンダルのようにして、かかとを折って履いていた。


「大地、どうした?」

「明日の大会準備、佐伯先輩に聞いて教わっとけって言われてたんですけど、今日来れなさそうな感じですかね?」

「どうかなぁ……。大地、お前昨日、佐伯と雑賀のことなにか聞いたの?」

「はい。佐伯先輩から直接」

「そっか……」


 あの真面目な佐伯のことだ。もしかすると、織田には今日、雑賀と話をするのに部活に遅れる、とすでに伝えてあったのかもしれない。


「羽柴先輩、オレ稽古中、なにやってればいいっすかね?」

「稽古中――?」

「航には、羽柴先輩に聞いてみって言われたんすけど……」


 大地は不安そうに羽柴の顔を(うかが)った。それは当然だ。彼は航の幼馴染とはいえ、剣道は未経験者。なにもわからない世界で、ひとりで稽古を見学するのはとてつもなく心細いに違いない。

 道場内を(のぞ)いて時間を確認すると、稽古が始まるまでにはまだ少し時間があった。羽柴は不安げな面持ちでいる大地の肩を軽く叩く。


「よし。じゃあ稽古時間が来るまで、一緒に準備しようか」

「お、お願いします!」


 羽柴はまず、大地に道場の入り方から教えた。道場へ入る前は、上履きであっても必ず靴を脱ぐこと。入り口の手前で一礼をして「失礼します」と、言ってから入ること。


「これは道場に入るときの作法として基本だから覚えてな。どこの道場行っても、だいたい同じだと思うから」

「はい」

「それから、入って左側に鏡がある方が上座。あっちの、おれらが座る畳がある方が下座。稽古中、やることないときがあったら、下座側の畳の(はじ)で見てて」

「はい」

「それから……」


 言いかけて、口を(つぐ)む。大地は今、ポケットからメモ帳を取り出して、羽柴が言ったことを一生懸命メモに残しているところだった。どこか飄々(ひょうひょう)とした雰囲気がある彼だが、かなり真面目な人間のようだ。もっとも、航の幼馴染で織田の(おい)っ子とくれば、それは自然だと感じた。


「大丈夫そうか?」

「うす!」


 その返事には思わず笑みが(こぼ)れる。部活経験があまりないと言う割に、彼の返事は体育会系の生徒さながらではないか。もしかすると航の幼馴染であるせいで、少なからずその影響を受けてきたのかもしれない。


「よし、じゃあ次な」


 次いで器具庫の場所を教えた。器具庫は道場内にある。そこにはおもに部員たちが普段使用するの防具や、大会、錬成会で使われる垂れ幕、また稽古中、織田が合図のために使う太鼓など、あらゆる用具が仕舞(しま)われていた。


「明日使うのは……この辺かなぁ」


 羽柴はそう言って、立てかけてある垂れ幕を指差したあと、その隣にあるアタッシュケースを取り出した。その中には審判旗やストップウォッチ、(たすき)など、細々(こまごま)とした物が入れられている。いわゆる、大会セットだ。


「このアタッシュケースには、大会と錬成会で共通して使う物が入ってるんだ。数が(そろ)ってるかどうかを確認して、用意してほしいんだけど――あっ」

「え?」

「そうそう、その前にこれをやんないといけないんだった」


 ……いつもやってもらってると気付かなくなるもんだな。


 羽柴の目に入ったのは、(から)のウォータージャグだ。普段、稽古がある日には、スポーツドリンクが入れられているものと、麦茶が入れられているものが一つずつ、道場の(すみ)に置かれている。稽古の休憩時間、みんなはそれを飲んで水分を補給しているのだ。


「これ、休憩のときにみんなが飲めるように、っていつも佐伯が稽古始まる前に作っておいてくれてるんだ。前は当番制だったんだけど、佐伯が怪我して見学するようになってからはずっとやってくれててさ。すっかりそれに慣れちゃってたよ」

「へぇ。あっ、じゃあオレ、それ作っときますよ」

「ありがと。今日は稽古時間も短いだろうから、どっちか一つでいいよ。麦茶じゃなくてスポドリの方、作っといてくれる?」

「了解っす!」


 羽柴はドリンクパウダーや麦茶パックがある場所、またそれに使用する製氷庫は体育教官室前にあることを教えた。

 佐伯が当たり前のように(こな)してくれていた仕事は、部員にとって必要不可欠なことばかりだ。その厚意にすっかり甘えてしまっていたが、彼も夏休みには復帰するので、それをいつまでも続けてはいられない。それなのに、自分を含めた部員全員が、雑用も兼ねたマネージャー業を(こな)してくれる人間がいる今の状況にすでに慣れてしまっている。再び当番制になることを考えれば、今、大地がこの剣道部へやってきてくれたことは、とてつもなくありがたいことだった。


 やっぱり、大地が来てくれてよかったな……。


「先輩? どうかしました?」


 急に黙った羽柴を、大地が不思議そうな顔で(のぞ)き込む。羽柴は彼に笑みを見せてかぶりを振ってから、アタッシュケースを開けて見せた。


「いや、なんでもない。それじゃ、大会の準備に戻るぞ」

「はい」

「まず審判旗な。審判旗は紅白合わせてワンセットで、全部で三つある。明日は使わないと思うけど、三つあるかどうか確認して、一応ケースに入れといて」

「はい」


 大地はメモ帳をペラリと一枚めくって、新しいページにメモを取る。羽柴は少し時間を置いてやってから、再び話し出した。


「それから、これが(たすき)(たすき)は赤と白が五本ずつ必要なんだ。数あるかどうか、しっかり確認して、それも入れといて。これがないと試合に出られないから、不備がないようにな」

「はい」

「えーっと、それから次は……」


 そのときだった。不意に器具庫の扉がガラッと開いた。やって来たのは佐伯だ。彼はすでにジャージに着替えている。


「羽柴……! ごめん、遅くなって……!」

「おう。いや、おれは全然平気だよ」

「あとはおれが教えるから、羽柴は稽古の準備してていいよ」


 ふと時計を見ると、いつの間にか稽古の開始時間は迫ってきていた。羽柴は大地と大会の準備を佐伯に託してから、その場で防具を付け始め、それとなく()いた。


「それはそうと佐伯。さっきGに来てたろ。雑賀と話せたのか?」


 すると、佐伯は頬を掻きながら、少し照れくさそうに答えた。


「あぁ……、見てたのか。戻ってきてほしくてダメ元で話しにいったんだけど、雑賀はあいかわらずだったよ」

「そうか……」


 やはり佐伯であっても彼の心を剣道部へ戻すことはできないのか。そう思い、落胆しかけたが、佐伯はこう付け足した。


「でも……。近いうち、あいつはまたここへ戻ってきてくれるような気がする。今日、おれ言ったんだよ。半年間、マネの仕事して、良かったって」

「良かった……?」

「うん。稽古には参加できなかったけど、その代わり色んなこと勉強になった。マネの仕事も楽しかったしさ、やり甲斐もあったし。ここんとこは素振りばっかりやってたけど、おかげで右かぶりだった癖も直ったんだ。それ言ったら、あいつも喜んでくれたよ」

「へえ」


 佐伯は振りかぶったとき、右に竹刀が傾く癖があった。本人にとって利き手である右手に力が(かたよ)っているせいだ。こういった癖のある者は珍しくなかったが、そのせいで、一つ一つの動作はどうしても遅くなってしまう。

 剣道の試合では、相手よりも素早く打つということが必要不可欠になってくる。本来であれば相手に対して真っすぐ振りかぶって打つことが一番速く打つ方法にほかないわけだが、それが右側に傾いてしまうと、それだけ時間がかかるし、竹刀の剣先が右にずれることによって、自分の面はがら空きになり、相手は恐怖を感じなくなる。良いことは一つもないのだ。


「まだ百パーセントじゃないんだけどね。すごくよくなった。織田先生にもこの前、そう言われたんだ。だから雑賀にも見てほしいって、そう言ったら、あいつもさ、『見たい』って言ってくれたよ」

「そっか……」


 これは期待できるかもしれない。羽柴もそう思って、思わず大地と顔を見合わせ、頷いた。これまで誰が話しても笑みすら見せなかった雑賀だったが、やはり相手が佐伯となれば、違うのかもしれない。


「この半年はさ、おれにとっては全然無駄じゃなかったんだ。むしろ必要だったなって思ってるくらい。荒療治とまではいかなかったけど、自分が言いたかったことはみんな話したよ」

「そしたら……?」

「もう少し時間くれって。でもあいつ、すごくホッとした顔してた」


 佐伯は本当に、心から嬉しそうにそれを話した。また、ホッとしているようにも見えた。おそらくはどちらもあったに違いない。


「佐伯と雑賀。一緒に復帰できたらいいな」

「うん。おれも、そう思ってる。あいつにもそう言ってきたし。まだどうなるかはわからないけど、信じて待ってみるよ。だから、羽柴もあいつを待っててやって」

「もちろん。おれだって、ずっとあいつを待ってるよ。それから、お前のこともね」


 羽柴がそう言うと、佐伯はほんの一瞬、目を潤ませた。だがすぐに頷き、大地の肩を思いきり叩く。


「い……ってぇ……!」

「よーし! こうなったら、おれが復帰するまでに、なんとしても一人前のマネになってもらうぞ、大地!」

「は、はいっ!」


 ふたりのにぎやかな声を聞きながら、羽柴は器具庫をあとにする。ほどなくして、稽古が始まった。


 雑賀が戻ってきて、佐伯が復帰すれば、二年生はようやく四人全員が(そろ)う。まだそうと決まったわけではないものの、佐伯の話を聞く限りではかなり期待ができそうだった。羽柴も雑賀を信じている。彼はきっともうすぐ帰ってくる。あとに残るは航と北条の問題だ。


 おれがもっとしっかりしないとな……。三年生の先輩たちだっていつまでもいてくれるわけじゃない。おれが――。


 面を付けながら、羽柴は思う。おそらく、次に部長という任に就くことになるのは自分だ。羽柴はそれを確信していた。斎藤や佐伯は優しく、思いやりもある、いい人間だ。だが、斎藤は剣道には若干のムラがあり、安定はしていない。調子がうまいこと乗らないときには、明らかに格下の相手に負けて帰ってきたりもする。少々気分屋の面がある彼に、部長はおそらくだが、不向きだ。


 また、一方で佐伯は優しすぎる。彼は神経は細やかだが繊細(せんさい)で、心配性だ。さらに言えば、少々過保護でもあった。彼は菩薩(ぼさつ)のようにすべてを受け入れようとするタイプだろうが、人間は仏ではない。なんでもかんでも(かか)え込めば、気が付いたときには自分のキャパシティーを超えて潰れてしまうとも考えられる。とてもじゃないが、部長という憎まれ役に、彼は向いていなさそうだった。


 雑賀ならあるいは――と羽柴は思うが、彼はまだ剣道部には戻ってきていないわけで、航たち一年生とは顔を合わせてすらいない。これから先、復帰を果たしたとしても、彼が部長としてチームをまとめていくというのは、現時点では考えにくかった。つまり必然的にそれを任されるのは自分しか考えられないのだ。


 おれが――、みんなを引っ張っていかないといけない。イチ先輩やマサ先輩に代わって……。


 明日の県内予選で勝ち抜き、優勝した高校だけがインターハイへ出場できる。その出場権を獲得できれば、三年生の引退は八月の一週まで延びる。だが、どのみちそこで終わりだ。いつまでも三年生に上に立って引っ張っていってはもらえない。世代交代の時期が、迫っていることに変わりはなかった。


 どんなに長くても、あと二ヶ月――か。


 羽柴は面紐を固く結び、パシッ、と乾いた音がするまで面に打ち付け、竹刀を持って立ち上がった。その場で数回跳ねて、アキレス腱をしっかり伸ばす。


 あと、二ヶ月――。


 心の中で何度かそう呟いた。途端に言いようのない寂しさと恐ろしくなるほどの不安感が羽柴を襲う。だが、すぐにかぶりを振った。


 いや――。


 先のことを気にする前に、まずは明日の県予選だ。羽柴は副将として、しっかり自分の役割を(こな)さなければならない。次期部長なら、尚さらである。


 そうだ。おれは、強くならなくちゃいけないんだ……。


 羽柴は今、いくつものプレッシャーを(かか)えていた。まず、明日行われる県予選で、三年生の中に混じって一人、選抜メンバーに入っていること。その中で足を引っ張らないよう、副将としての役割を(こな)さなければならないこと。

 また、どんなに遅くても夏休み後半からはたぶん、自分がこの部を引っ張っていくことになる。それをすでに覚悟はしているし、織田にはそれらしいことを(ほの)めかされてもいた。不安は――ないと言ったら嘘になる。

 しかし、このプレッシャーに負けるわけにはいかない。次期部長として、羽柴は強くあるべきなのだ。また、いまだ気持ちがひとつになっていない、一、二年生をまとめるためにも背中を見せなければならない。

 

 おれはもっと強くならなくちゃいけない――。こんなことでプレッシャーなんか、感じてる場合じゃない。


 道場の正面の壁に張られている応援旗には、白い字で『絆』とある。そしてその横には、大きな白い紙に太い字で力強く、『全国制覇』と書かれている。それは織田が市立船戸高校の目標として、書いたものだった。


「よし、じゃあ――今日は基礎稽古のあとに、AとBに分かれて試合」

「はい!」


 全国制覇――。

 その言葉には憧れを感じる一方で、恐怖をも感じる。今、羽柴の体中を様々な感情が駆け巡っていた。この日まで誰しもがそれを夢見て、つらい稽古を来る日も来る日も積み重ねてきたが、すべては明日、決まってしまうのだ。それを思えば、心臓は自然と速く波打ち始める。


 しっかりしろよ、おれ――。今から緊張してどうするんだ。


 小手を()めた手を強く握り、胸元を叩く。深く息を吐く。羽柴は今、襲いくるプレッシャーと戦いながら、明日とその先の未来を見据(みす)えて、自分自身にまだ足りない強さを求めていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

よろしければ、ぜひ続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。


いなば海羽丸

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