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遠藤と高野の家出事件から1週間後。春の雨が静かに降る、朝のことだった。
「まーた家出ですか?」
琴川高校の職員室で、英俊をはじめ数人の職員が素っ頓狂な声を上げた。
情報をもたらしたのは3学年主任の飯塚だ。昨年も3学年主任を務めていたベテラン教師である。ロマンスグレーという言葉がぴったりな熟年教師で、茶系という難しい色のスーツを上品に着こなしている。
「やはり根本的なことが解決して無かったのだな……子どもが理由もなくそんなことは続けないだろう」
電話を切る前から苦り切った表情をしていた。
「この前のはどういう話に落ち着いてたんですか」
英俊が尋ねると、
「確たる理由を何も言わなかったから、所謂駆け落ちであろう、ということで片付けたんだが……」
飯塚の言葉を補足するように、近くに居た体育教師が口を開く。髪を刈り上げた背の高い青年だ。英俊と違うところは体が頑丈そうなところか。これから部活動に参加するらしく、ジャージに着替えている。
「その線も、あながち間違いではなかったということじゃないですか。春から遠藤は東京、高野はこのまま地元大学へ行くそうじゃないですか。実は進路に納得していなかったのではありませんか」
3年主任の飯塚が頷く。
「とにかく早めに見付けないと。考えたくは無いが最悪の事態も想定すべきだ。二度目だけに気を付けにゃならん。手の空いてる先生方はよろしく頼みます」
数人が車のキーを持って駐車場へと走った。
英俊は部活動があるため、午前中は動けない。監督なしの部活動は禁止行為だ。先日は副顧問が見ていてくれたが、今日は有給を取っていて居ない。
「川島さん、川島さん。大丈夫」
声を掛けてきたのは美術の中村だった。
「3年部が大勢出たいや。電話番も必要だし、午後から交代することにしましょうや」
それも一理ある。英俊は気持ちが少し落ち着いた。中村の持つ雰囲気にほぐされたのだろう。
「そうですね、学校で活動している生徒を放ってもおけませんしね」
部活動中の事故も有り得るし、他の事件が起こらないとも限らない。事務室に人は居ても、教諭でないと片付かない話もあるだろう。
「それにしても川島先生の気にされ方は、まるで担任並みらいね」
「一応、遠藤の居た陸上の顧問でしたからね」
英俊がそう言うと、中村は自嘲するような表情を浮かべ、
「私も若い頃はそんな気持ちだったがなぁ……あれやこれやに追われて、今や目の前の事にしか目が向かなくなりましたよ」
と言った。英俊が神妙に答える。
「私はまだ、周りが見えずに突っ走ってるだけなんですよ」
勢いだけで動いているのは自分でも分かっている。
「その気持ちが大事らいね。ただ、やることには優先順位をつけておかないと、あれもこれもになって、結局どれも中途半端になる。まともにこなそうとしたら、確かに限られた時間内では足りない仕事らいね。因果なもんだ」
「肝に銘じておきます」
軽く頭を下げる。
自分の気持ちをじっくり見つめてみると、単に部活動の顧問だから関わりたいのかと言えば、違う気がする。全校生徒全てが自分の可愛い生徒だからと言うのも偽善過ぎる。
強いて言えば、先週たまたま関わってしまったから、ということになるだろうか。目の前で足掻いている生徒を他の教師に任せるほどには、英俊は気持ちの余裕が無かった。
なんとかしてやりたい。
そのために、まず確かめたいこともあった。
「だからって……」
助手席で陸杜がしかめっ面で不満の声を上げた。今日は雨で花粉の飛散が少ないからか、マスクをしていない。
「また俺が付き合う理由って何?」
「まぁそう言わずに。昼飯買ってやるから頼むよ」
「どうせ昼からは部活も無いし。家に戻っても誰も居ないし。構いませんけど……ラブホ巡りなら三波先生とのほうが良かったんじゃないですか。後学のためにも」
チラリと英俊を見ると、頬が少し強張ったように見えた。
「何か……誤解があるようだな……」
「どっちにしても、生徒で未成年の俺はマズいんじゃない? ってことですよ。付き合うけど」
「ありがとう」
陸杜にしても、釈然としない出来事だった。何でも知りたいと思うタイプでは無いが、部活動の先輩である遠藤と、出身中学の先輩である高野が関わってるのであれば、多少気になる。
「ところで、陸杜は何故ホテル巡りをすると分かったんだ?」
「なんで入ってすぐ出てきたのかと思って……満室だったら分かるんだけど、駐車場は空いてたでしょう。そうしたらこの前英俊さんが電話で、コンビニがどうこう言ったじゃない。それでトイレの線も消えたんだよね」
「ほう」
「そうしたら一度あのホテルを見てみないと解らないなぁ……と思えたんだ」
英俊と同じ考えである。
そこまで話した時、ちょうどホテル「アリスの国」の看板が見えた。
左ウインカーを出して入る。赤いビニールのカーテンで車体が傷付きやしないかと英俊は内心穏やかでは無かった。
先週と同じスペースに車を入れ、車を降りる。
「お前はここに居ろ」
英俊がドアから体を出しながら言った。
「やだ、俺も行く」
陸杜も車から降り、ホテル入り口に向かって早足で歩きだす。
「ちょっ……お前!」
英俊が慌てて後を追う。入り口の自動ドアを潜り、部屋の案内板を過ぎたところで陸杜に追い付いた。
「当然だけど、何も分からないね」
陸杜が言った。
エントランスにあるのは、部屋の写真が並んだ案内板と、長椅子ひとつ。他には、上階へ昇るためのエレベーターが1基だけ。
「あとは、壁に掛かったこの絵か……ここにトイレは無いから、完全にトイレの線は潰れましたが……本当に、何しに来てたんでしょうね」
その時エレベーターの扉が開き、直後飛び出してきた男が、避けきれなかった陸杜とぶつかった。
「すみません」
「なんだお前、子供の来る所じゃないぞ」
髪を金色に染めた、ガラの悪い青年だった。相手の派手な女性に良いところを見せたかったのか、自分より背の低い陸杜の胸倉を掴む。
「お、綺麗な顔してるな、お前。まさかそこの兄ちゃんがお相手か?」
その瞬間、陸杜の頭の中で、
ブチっ
という音がした。
「ダメだ! 陸杜!!」
英俊が気付いたが既に遅かった。
ボスッ!!
陸杜は相手に鋭いボディブローを決めた。
胸を掴んでいた男の手が離れる。
男の目は驚愕に見開かれた。
しかし陸杜は容赦せず、肩に強打を見舞う。
「ぐはぁ!」
男は左肩を押さえた。陸杜は素早くその背後に回り込む。
両手で背を押し、バランスを更に崩したところを足で蹴り倒した。
連れの女性は声も上げられずただ立ちすくんで見ている。
「陸杜!」
英俊が左腕を掴んだ。陸杜は反対の右腕で前髪を掻き上げ、剣呑な顔で英俊を見上げる。それに頓着せず、
「何やってんだバカ! 行くぞ!」
英俊が陸杜の腕を引いて走った。
陸杜はおとなしくついてくる。
車に押し込み、そのまま急発進して、駐車場から逃げるように走り去った。