第一話 森の少年
森の中を、一つの影が駆け抜けた。
枝から枝へ。
岩から岩へ。
まるで獣のような身軽さで飛び回る。
「待てって!」
少年レイガは目の前を走る野ウサギを追いかけていた。
平均より少し高い背丈の体をしなやかに躍らせ、黒いパーカーの裾を翻す。日に焼けた肌は森の暮らしを物語り、首元では赤いコード状のネックレスが揺れていた。
少し青みを帯びた黒髪は、後ろだけが寝癖のように跳ねている。その特徴的な髪は走るたびに揺れ、遠目でも彼だと分かるほどだった。
明るい琥珀色の瞳を輝かせながら、レイガは木の根を飛び越える。
野ウサギは必死に逃げる。
だがレイガも負けていない。
「そっちか!」
進路を読んだように方向を変える。
ウサギが茂みに飛び込んだ瞬間。
レイガは横から回り込み、両手を伸ばした。
「捕まえた!」
ぱしっ。
見事に抱きかかえる。
ウサギは驚いたように耳を震わせた。
レイガは満足そうに笑う。
整いすぎてはいないが、健康的で活発さのにじむ少年らしい顔立ち。その表情にはいつも笑顔が浮かんでいる。
「今日も速かったなー」
頭を撫でる。
もちろん食べるためではない。
遊び相手だ。
しばらく抱えていたが、やがて地面に下ろした。
「もう行っていいぞ」
ウサギは一瞬だけこちらを見ると、森の奥へ走り去っていった。
レイガは大きく伸びをする。
「さてと」
腹が減った。
次は昼飯探しだ。
森を歩くこと数分。
川のせせらぎが聞こえてきた。
透明な水が流れる浅い川。
レイガは迷わず靴を脱ぎ捨てた。
そして飛び込む。
「冷てぇ!」
声を上げながら笑う。
川の中を覗く。
魚影。
いた。
レイガは静かに腰を落とした。
魚もこちらに気付いていない。
ゆっくり。
ゆっくり。
そして
ばしゃっ!
水しぶきが上がる。
数秒後。
レイガの手には一匹の魚が握られていた。
「よし!」
得意げに掲げる。
逃げようと暴れる魚を器用に押さえ込みながら岸へ戻った。
その後も二匹、三匹。
あっという間に夕食分を確保する。
「今日は豊作だな」
満足そうに頷く。
魚を腰の袋へ入れた後、今度は森の地面へ視線を向けた。
生えている草を一本摘み取る。
葉の形を見る。
匂いを嗅ぐ。
「こっちは食える」
隣の草も確認。
「こっちは腹壊すやつ」
さらに別の植物を見る。
「これは薬になる」
まるで当たり前のように判別していく。
誰かに教わったわけではない。
小さい頃から森で遊び続けているうちに覚えた。
食べられる物。
危険な物。
怪我に効く物。
全部知っている。
レイガは採取した薬草を袋へ入れる。
そして再び歩き始めた。
木漏れ日が森を照らしている。
鳥が鳴く。
風が吹く。
平和な午後だった。
レイガは空を見上げる。
好奇心に満ちた金色にも見える瞳が、青空を映してきらりと輝く。
「今日もいい天気だな」
そう呟きながら、森の奥へと歩いていった。
森を抜けた先。
小さな木造の家が建っていた。
周囲には畑があり、薪が積まれ、物干し竿には洗濯物が揺れている。
レイガの家だ。
「ただいまー」
返事はない。
当然だった。
今は一人暮らしなのだから。
レイガは慣れた様子で家へ入り、今日捕った魚を台所へ置いた。
「よし」
まずは晩飯の準備。
魚を捌く。
火を起こす。
鍋に水を張る。
手慣れたものだった。
誰かに頼ることなく生活できる。
それがレイガの日常だった。
準備を終えると、ふと思い出したように棚を開く。
中から小さな花束を取り出した。
今日摘んできた花だ。
「先に行くか」
そう呟き、家を出る。
森の外れ。
静かな丘。
そこには一つの墓が建っていた。
大きくも豪華でもない。
質素な石碑。
だがレイガは大切そうにその前へ腰を下ろした。
「よう、ロウガン」
花を供える。
風が吹いた。
木々が揺れる。
「今日は魚いっぱい捕れたぞ」
誰もいない墓前で話し始める。
「あとウサギもいた」
「相変わらず速かったな」
返事はない。
それでもレイガは気にしない。
昔からこうしていた。
楽しかったこと。
困ったこと。
どうでもいいこと。
全部ここで話していた。
「最近は暇だなー」
頭の後ろで腕を組む。
青空を見上げる。
「なんか面白いことねぇかな」
ぽつりと呟いた。
世界は広い。
そんなことは分かっている。
だがレイガの知る世界はこの森と、その周辺だけだった。
それでも不満はない。
毎日楽しい。
飯も食える。
寝る場所もある。
それで十分だった。
しばらく墓の前で過ごした後、レイガは立ち上がる。
「じゃあまた来る」
石碑を軽く叩いた。
そして家へ戻る。
夕方。
魚を焼く匂いが家の中へ広がる。
食事を終え。
風呂代わりに川へ飛び込み。
洗濯を済ませ。
夜を迎える。
平和な一日だった。
レイガは家の縁側へ座った。
空には星が広がっている。
「明日は何しようかな」
そんなことを考えながら夜風を浴びる。
その時だった。
――ドォォォン!!
遠く。
森の奥から轟音が響いた。
地面がわずかに震える。
レイガの表情が固まった。
「……ん?」
立ち上がる。
音がした方角を見る。
夜の森。
暗闇の向こう。
木々の隙間から、一瞬だけ何かの光が見えた気がした。
「なんだ今の」
雷ではない。
崖崩れでもない。
レイガは首を傾げる。
しかし次の瞬間。
好奇心に満ちた笑みが浮かんだ。
「面白そうだな」
そう呟きながら、森の奥を見つめる。
まだ彼は知らない。
その音が。
自分の人生を大きく変える出来事の始まりであることを。




