1
神殿の硬い床に、冷たい声が響いた。
「測定不能。いや、ただのゴミだな。魔力も体力も一桁。その後に、わけのわからない数字が延々と並んでいるだけだ。お前は破門だ、荷物をまとめて出ていけ」
突きつけられた石板には、俺の能力値として奇妙な文字列が刻まれていた。
「3.1415926535……」
普通の人間なら「100」とか「500」といった綺麗な数字が並ぶはずの場所に、終わりが見えない数字の羅列が刻まれている。
神官たちはそれを「数え切れないほどの細かな端数」つまり、使い道のない最弱の能力だと吐き捨てた。
こうして俺は、その日のうちに神殿を追い出され、街の外へと続く街道を一人で歩くことになった。
「おい、待ちやがれ!」
背後から鋭い怒鳴り声が聞こえた。
振り返ると、さっき俺を追い出した神官の護衛をしていた、重武装の戦士が息を切らせて走ってくる。その後ろから、巨大な牙を持つ魔獣「大イノシシ」が猛烈な勢いで突進してきていた。
「神官様がやられた! 街へ逃げるぞ、盾になれ!」
戦士は俺を身代わりにしようと、すれ違いざまに俺の肩を掴んで突き飛ばそうとした。
だが、彼の動きは俺の目にはあまりにも「大雑把」に見えた。
この世界の住人は、すべての動きを「綺麗なしきたり」で行っている。
剣を振る角度は九十度、足の踏み込みはきっちり二歩。すべての武術や魔法が、割り切れる数字を基準にして組み立てられているのだ。
だから、彼らの動きは予測しやすい。
俺は戦士の腕が伸びてくる瞬間、ほんのわずかに、半歩にも満たない「中途半端な距離」だけ体を斜めに引いた。
戦士の手は空を切り、彼は勢い余って前のめりに転がった。
「なっ……!?」
戦士が驚愕の声を上げる暇もなく、今度は大イノシシが時速五十キロを超える速度で俺の正面から突っ込んでくる。
まともに喰らえば骨ごと砕ける突撃だ。
普通の戦士なら、大きく右か左に飛び退いて避けるだろう。あるいは、盾を構えて真っ向から受け止める。
だが、その動きは大イノシシにも読まれている。
俺は腰のナイフを抜いた。
突進が目の前に迫る。あと三歩、あと二歩、あと一歩。
その「一歩」の瞬間、俺は一歩丸ごと動くのではなく、ほんの「三分の一歩」だけ右に足を踏み変えた。
大イノシシの横腹が、俺の鼻先をかすめて通り過ぎる。
あまりにも中途半端で、あまりにも正確な隙間の見極め。
すれ違いざま、俺は手首の角度をほんの少しだけ傾け、ナイフの刃先を大イノシシの首の皮膜に当てた。
力を入れる必要はない。相手の突進の勢いだけで、刃は深く吸い込まれていく。
「ギチチチッ!」
大イノシシは悲鳴を上げ、勢いよく地面を転がり、激しく木に激突して動かなくなった。
呆然とそれを見ていた戦士が、震える声で言う。
「お前、いま何を動いた? まるで間合いが測れなかった……。どうやってあの突撃を避けたんだ」
俺はナイフの血を拭い、鞘に収めた。
「あんたたちの動きは綺麗すぎるんだよ。二歩とか、三歩とか、四角い枠の中でしか動かない」
俺の石板に刻まれた数字。それはこの世界の誰も使っていない、終わりのない数字の並びだ。
相手が三歩で踏み込んでくるなら、俺は「三・一四一五……歩」という、相手の頭には存在しない中途半端な位置に立つだけでいい。それだけで、相手の攻撃は絶対に届かない。
「綺麗な数字で割り切れる世界だからこそ、この終わらない端数が牙になる」
俺は腰の荷物を背負い直し、驚きで固まったままの戦士を置いて、再び街道を歩き始めた。




