第6話 カストロの語り
◆ゲバラの話の後の酒場
「野球が好きだった」
俺がそう言った瞬間、ゲバラの目がほんの少しだけ動いた。驚きじゃない。否定でもない。
ただ、“続きを待つ”目だ。
この男は、話の飾りを嫌う。飾りを嫌うから、こちらも飾らないで済む。
「高校の頃は、努力すれば結果が変わると信じられた。」
そう言いながら、俺は自分の掌を見る。掌は、思っていたより硬い。
硬いのは筋肉じゃない。癖だ。握りしめる癖。歯を食いしばる癖。負けたくない癖。
「悔しさが、まだ清潔だったんだ。」
清潔。
その言葉は似合わないのに、今夜は必要だった。
あの頃の悔しさは、殴り返せる悔しさだった。勝てば終わる。負ければ次がある。次があるというだけで、人は走れる。
「負けても、次があると思えた。次があるってだけで、呼吸は楽になる。」
ゲバラが小さく頷いた。
頷くたびに、咳を一つだけ飲み込む。
飲み込むのが上手い。上手すぎて、こっちが腹を立てる。痛いなら痛いと言えばいいのに、と。
だが言わないのがこの男だ。弱さを見世物にしない。だから俺も見世物にしない。
「それで法学に行った。拳じゃなく、言葉で殴れると思った。」
俺は笑わない。笑うと軽くなる。軽い話じゃない。
「ルールは武器になる。……武器は持つ者を選ばない。」
武器は、誰が持つかで意味が変わる。
だが、武器そのものは冷たい。冷たいからこそ、正しい顔をして人を刺せる。
ゲバラは言葉を挟まない。
挟まないから、俺は続けられる。
「弁護士になって最初に分かったのは、国の中に国があるってことだ。」
国の中の国。
それは法律の外側にある。法律の外側にあるのに、法律を利用できる。
矛盾だ。矛盾は、いつも金の匂いがする。
「“この国のこと”なのに、決めるのは向こうだ。金で線を引く。線の外の人間は、呼吸が苦しくなる。」
呼吸。
俺が呼吸という言葉を使うと、ゲバラの視線が一瞬だけこちらに来た。
気づいたのだろう。俺も呼吸の苦しさを知っている。
――別の意味で。
「やつらは国境を持ってない」と俺は言った。
「だが線を引ける。
線を引けるってだけで、国は作れる。
……嫌な話だろ。」
ゲバラが小さく頷く。
頷きが、肯定じゃなく“同意”に見える。
同意は、孤独を薄める。孤独が薄まると、人間は立てる。
俺はグラスに触れる。冷たい。
冷たさは、熱を誤魔化す。
誤魔化さないと、今夜は壊れる。
「で、お前は動いた?」
とゲバラが言う。
その声は問いじゃない。確認だ。
“お前は、見てしまった側だな”という確認。
「動いた。」
俺は頷いた。
「―― 一度、早すぎた。」
ゲバラは短く言う。
「モンカダか?」
「そうだ。」
固有名詞を言うだけで、胃の奥が重くなる。
モンカダの夜は湿気が多かった。湿気が多い夜は血の匂いが残る。残る匂いは、あとから人間を刺す。
「俺は、正しい順番を選べると思ってた。」
正しい順番。
法律は順番が好きだ。書類は順番が好きだ。
だが現実は、順番を裏切る。
「選挙だの、議会だの、裁判だの。順番を踏めば変えられる、と……。
でも、踏めない順番がある。踏んだ瞬間に、踏み潰される順番がある。」
俺はゲバラの手元を見る。吸い口。薬。
医者は順番を守る。症状、診断、治療。
だが病気を生む“距離”は順番を守らない。ゲバラがそれを知っているのが分かる。
「俺は順番を飛ばした。
飛ばしたから、失敗した。
失敗したから、捕まった。
捕まったから、紙の上で裁かれた。」
ゲバラが咳を一つだけ飲み込む。
俺は何も言わずに水を彼の前に寄せる。
彼は礼を言わない。礼を言わないまま、指先だけでグラスを引き寄せた。
その指先の動きが、妙に“同じ側”の動きだった。
それだけで、今夜ここに来た意味が少しだけ確かになる。
「……お前は、怖くなかったのか?」
ゲバラが言った。
声が低い。低いから、冗談じゃない。
俺は答える前に、少しだけ間を置いた。
間を置くのは飾るためじゃない。嘘を混ぜないためだ。
「怖かった。」
そう言うと、ゲバラは瞬きを一回だけした。
驚いたわけじゃない。
“怖いと言える男”を、確認しただけだ。
「でも、腹が立った。」
と俺は続ける。
「腹が立つと、怖さは後ろに押しやられる。怖さが後ろに下がると、足が前に出る。」
ゲバラは小さく頷き、言った。
「……分かる。」
その二文字が、妙に重かった。
分かる、は簡単に言える。
だがこの男の“分かる”は、見てしまった者の分かるだ。
俺は言う。
「今夜、お前の話を聞いて
――確信した。敵は共産とか自由とか、そんな看板じゃない。
帝国主義者だ。支配の側だ。
……あいつらだ」
ゲバラは笑わない。
ただ、呼吸を整える。整える呼吸の音が、俺の鼓膜を打つ。
「だから俺は、次は順番を間違えない。順番を間違えないために、まず仲間が要る。仲間を集めるために、言葉が要る。」
ゲバラがじっと俺を見る。
その視線は医者の診察じゃない。
“人間を見る”視線だ。
「……それで、お前は何を言うつもりだ。」
とゲバラが聞いた。
俺は即答しなかった。
言葉は軽い。軽い言葉は裏切る。
裏切らない言葉を選ぶには、少しだけ沈黙が要る。
そして俺は、言葉を探しにいく。
この夜の最後に、あの合言葉へ繋げるために。
本日から、新章『歴史は俺に無罪を証明する!』が始まります。意志ゲバラに対して、弁護士カストロが気がついた、こ世界の仕組み。そのために彼は行動する。
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私のメイン作品、ゲームチェンジャーが絶賛連載中です。
本日更新なので、プロフィールから覗いていただければ大変嬉しいです!




