第5話 焼き印
チェは、“それ”の固有名詞を出す前に少しだけ迷った。
迷ったのは、怖いからではない。固有名詞は、責任を伴う。口にした瞬間に、世界に釘が打たれる。そういう種類の重さがある。
「森に見える場所だった。」
チェは言う。
「でも森じゃない。木が揃ってる。揃えた木だ。
……自然の間隔じゃない。」
並んでいることの暴力。
チェはそれを、説明ではなく“違和感”として差し出す。俺はその違和感を受け取ってしまう。
「綺麗だった。綺麗すぎた。」
綺麗すぎる場所は、誰かが掃除している。掃除しているのが誰か、は大抵見なくていいことにされる。
チェはそこを見てしまう人間だ。
「銃があった。撃たないための銃だ。撃たなくても効く。」
「決めるのための銃じゃないのか?」
俺が言うと、チェは頷いた。
頷き方が短い。肯定が短いとき、怒りは深い。
「帳簿があった。配給があった。前借りがあった。」
紙が鎖になる。
チェは鎖という言葉を言わない。言わないから、鎖が見える。
「支配はそのまま、箱だけが出ていく。」
チェが言う。声が少し低くなる。
「果物を運んでるんじゃない。人の時間を運んでる。」
そして、ようやく固有名詞が落ちた。
「UNITED FRUIT (ユナイテッドフルーツ)」
その言い方は、怒鳴りでも吐き捨てでもない。
ただの報告に近い。報告の形を取っているのが怖い。怒りで壊れたくないから、形に入れている。
「焼き印を見た。」
チェは言った。
「箱にじゃない。人にだ。」
それ以上は語らない。語らないまま、十分すぎる。
俺は一拍だけ黙ってから、問いを置いた。置く、としか言いようがない。投げると乱暴になる。
「チェ。お前はそれを見て、どうしたい?」
チェは俺を見た。目が真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、逃げたくなる。逃げない。
「負けたくない... 」
彼は言う。理想ではなく、負けたくない。
その言葉が、俺の中の別の場所を叩いた。そこはずっと、叩かれたがっていた場所だ。
「カストロ――」
チェが俺の名を呼ぶ。今度は迷わず呼び捨てにした。
呼び捨ては距離を詰める。詰めた距離を戻すのは難しい。分かっていて詰める。詰めるだけの理由がある。
「お前は何に腹を立てた?」
俺は、短く答えるしかなかった。長くなると嘘が混ざる。
「おれもだ。やつらに、やられた。」
チェは頷いた。頷き方がゆっくりだ。受け入れたというより、決めたという頷き。
俺は水差しを寄せた。さっきより、ほんの少しだけ近い。気づかれたい寄せ方になったのを自覚して、少しだけ腹が立つ。
チェは礼を言わない。
かわりに、グラスを引き寄せて水を飲む。飲み方が慎重だ。慎重なのに、逃げない。
沈黙が落ちる。
ラジオの音が、やけに遠い。皿の音も、笑い声も、どこか別の国の出来事みたいだ。
「眠れなくなるな... 」
俺が言うと、チェは一度だけ口角を上げた。
合図だ。笑いじゃない。
「最初から眠れてない。」
その言い方が、少しだけ俺を救った。救われたのが悔しい。
悔しいから、俺は視線を逸らさずに言った。
「なら、起きてろ。
俺の敗北を聞け。」
命令じゃない。約束でもない。
ただ、逃げ道を塞ぐ言葉。
チェは咳を畳み、グラスを置いた。
そして、小さく頷いた。返事の代わりに。
次回から
新節
歴史は俺に無罪を証明するだろう!
が始まります。
内に秘めた情熱のゲバラに対する、カストロの過去とは?
私はカストロがタイプです。
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私のメイン作品、ゲームチェンジャーが絶賛連載中です。
本日更新なので、プロフィールから覗いていただければ大変嬉しいです!




