21,首輪はいらない【3/37大幅改稿】
【3/27大幅改稿】
反骨精神でもなく打算でもないカストロは決断します。
【1959年4月 ワシントンD.C.】
猫は、まだベルベットの上で眠っていた。
その無関心を見つめているところへ、扉が静かに開いた。
リチャード・ニクソンは、礼儀正しい足取りで部屋に入ってきた。
ニクソンは礼儀正しかった。
笑顔もある。
言葉も滑らかだ。
声は抑えられていて、決して無礼ではない。
だが、その丁寧さが、かえって冷たかった。
相手を軽く扱う人間ほど、怒鳴らない。
礼を守ったまま、どこまで従うかを測る。
ニクソンは、そういう種類の男に見えた。
挨拶が終わる。
通訳が位置を取る。
短い沈黙のあと、ニクソンが先に口を開いた。
「カストロ首相。キューバには安定が必要です。」
通訳の声が追いかける。
カストロは黙って聞いていた。
「革命の熱気は理解します。ですが、国を経営するには熱気だけでは足りない。投資、秩序、信頼。そういうものも必要です。」
必要。
その言葉に、カストロは少しだけ目を細めた。
ニクソンは続ける。
「我々は敵対を望んでいません。キューバが現実的な道を選ぶなら、協力の余地はあります。ただし、急進的すぎる改革は国の安定を損ねる。外国資産の扱いも慎重であるべきです。」
そこまで聞いて、カストロはようやく口を開いた。
「副大統領。あなたの言う安定とは、誰にとっての安定ですか。」
ニクソンはすぐには答えなかった。
答えなくてもよい問いだと思っている顔だった。
カストロは続ける。
「キューバの農民は、長い間、土地を耕してきた。汗を流した。だが、その土地の多くは、彼らのものではなかった。」
部屋は静かだった。
窓の外は明るい。
猫は眠っている。
「私は思想の話をしているんじゃない。もっと単純な話だ。キューバの土地は、誰のものかという話です。」
ニクソンがわずかに身を動かす。
カストロは止まらない。
「帳簿の上で所有している者のものか。そこで生まれ、そこで耕し、そこで飢えてきた者のものか。革命は、その問いから始まった。」
ニクソンは穏やかに返す。
「所有権は文明の基盤です。感情で解体すべきものではない。」
カストロは、そこで初めて笑った。
楽しそうな笑いではなかった。
「感情。あなたにはそう見えるのか。」
彼の声は低かった。
だが、怒鳴らない。
怒鳴らない方が、かえって硬い。
「私は感情で言ってるんじゃない。国の骨組みの話をしている。」
カストロは椅子の肘に手を置いた。
「バティスタの時代、キューバには法律があった。秩序もあった。だが、あれは誰のための秩序だった。誰のための法律だった。汗を流した者が、土地に対して権利を持たないなら、それは秩序じゃない。ただの服従です。」
ニクソンの顔から笑みが消える。
消えるが、まだ礼儀は残っている。
「国家は感傷では動きません、首相。」
「だから、私は国家の話をしている。農民に土地を返す。祖国の土地を、祖国の側へ戻す。それは感傷じゃない。独立です。」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。
ニクソンはなおも食い下がる。
「だが、急ぎすぎれば、あなたの国は孤立する。市場も、資本も、信用も失うかもしれない。」
カストロは、そこで短く息を吐いた。
「失う。我々はもう、ずいぶん失ってきた。仲間も、時間も、若さも。」
キャットの顔が、ふいに浮かぶ。
ベルベットの上で眠るこの猫とは、あまりにも違う生き方だった。
だが、カストロは怒りで言葉を選ばなかった。
ここで必要なのは、怒りではなく確信だった。
「あなたたちは、革命を一時の熱だと思っている。少し譲歩させ、少し飢えさせ、少し怖がらせれば、また扱いやすい国に戻ると思っている。」
ニクソンは否定しない。
否定する代わりに、ただ見ている。
その目の静けさが、逆に答えだった。
「違う。キューバは、もうバティスタの国ではない。土地の論理が変われば、国の論理も変わる。それを戻せと言うなら、革命そのものを無意味にしろと言うのと同じだ。」
猫が、そこで一度だけ目を開けた。
そして、またすぐ閉じた。
その無関心を見た時、カストロの中で何かがはっきりした。
悔しさはある。
もちろんある。
だが、それ以上に危ない。
この国は、こちらの誇りを理解しない。
理解しないまま、従わせられると思っている。
それなら、緩やかに頼る道はない。
頼った瞬間、首輪になる。
ニクソンが言う。
「我々は、現実的な関係を望んでいます。」
カストロは、その言葉をしばらく黙って見た。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「現実的。いい言葉だ。」
彼は窓の外を一度だけ見た。
磨かれた芝生。
何も失わずに済む者たちの国。
「だが、我々にとって現実とは、もっと泥の匂いのするものです。」
ニクソンは何も言わない。
カストロは続ける。
「我々は、あなたたちの慈悲で生き延びたわけじゃない。祖国を取り戻したんだ。なら、その土地も、その決定も、まず我々のものでなければならない。」
部屋は静かだった。
猫は眠っている。
この静けさの向こうで、もう別の道が決まりつつあるのを、カストロだけが知っていた。
「金はいらない、とは言わん。関係も切りたいわけじゃない。だが、首輪はいらない。」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。
むしろ静かだった。
だからこそ、戻らなかった。
ニクソンの顔には、はっきりした表情は出なかった。
だが、その沈黙で十分だった。
この男は、まだ分かっていない。
いや、分かる必要すら感じていない。
それでいい、とカストロは思った。
相手が分からないからこそ、こちらが決めなければならない。
キューバの土地は誰のものか。
祖国の決定は誰のものか。
その問いに、もう答えは出ていた。
会談を終えて部屋を出る時、猫はまだ眠っていた。
ベルベットの上で眠る猫には、それは分からない。
だが、泥の中を走って死んだキャットは、たぶん最初から知っていた。
国は、首輪をつけられた瞬間に、敗けるのだ。
次回幕間を挟み日本編です。
物語の中心はチェ・ゲバラに。
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