156,キューバから見たピックス湾①~来るべき戦いへの準備~
アメリカ編で描いたアメリカから見たピックス湾事件をキューバ側から描きます。
キューバ側は資料が少ないので、いくつかの事実を元に作者の推論でつなぎ合わせます。
キューバはアメリカの攻撃をかなりの精度で察知していたという立場で話を進めます。根拠はあまりにも出来すぎたキューバの勝利の手際のよさです。
1961年の春、ハバナの夜は、海の匂いを含んでいた。
アメリカ合衆国フロリダから流れる亡命キューバ人のラジオは、以前に増して革命政権を批判する熱を帯びてきた。利権を摂取され亡命した以前の利権を失った亡命者は革命政権の打倒を叫んでいる。
窓を閉めていても、湿った風はどこかから入り込む。紙の端をわずかに持ち上げ、灰皿に置かれた葉巻の匂いを薄く広げる。
執務室に二人、ゲバラとカストロは近く来るべきアメリカの攻撃の雰囲気を察知し、議論を白熱させていた。
机の上には、キューバの地図が広げられていた。
フロリダ半島。ハバナ。ピックス湾。ピナール・デル・リオ。カマグエイ。サンティアゴ。そして島の東端に、別の印があった。
グアンタナモ。
カストロは、その名の上に指を置いていた。
革命はハバナを取った。バチスタを追い出した。外国資本に握られていた土地と砂糖と歓楽の街に、キューバ人自身の名を取り戻そうとしていた。
だが、島の東端には、まだアメリカの基地が残っている。
古い取り決めと租借の紙によって、キューバの国土の一角に、アメリカ海軍の足場が残されていた。革命が勝っても、そこだけは消えなかった。星条旗はハバナから遠く離れた湾にあり、それでもキューバの中にあった。
アメリカは、海の向こうにいるだけではない。
島の内側にも、影を持っている。
ゲバラは窓際に立ち、火のついていない煙草を指先で転がしていた。吸うためではない。考えるとき、彼は時々そうした。喘息持ちの肺に煙草がよくないことは、医者である彼が一番知っていた。
カストロは、グアンタナモから指を離さなかった。
「この島は近すぎる。フロリダから見れば、海を一枚挟んだだけだ。しかも東には、彼らの基地がまだある。われわれは革命に勝ったが、地図の上ではまだ完全には勝っていない。」
ゲバラは、窓の外に目を向けたまま答えた。
「完全に勝てる革命などない。勝ったあとに、どこに未完が残るかを見ない指導者が負ける。」
カストロは短く息を吐いた。笑ったわけではない。
机の上には、沿岸警備の報告、港湾労働者からの聞き取り、マイアミから流れてくる言葉、ラジオの記録、破壊工作の報告が重なっていた。一枚ずつ見れば、どれも噂にすぎない。だが、重ねると形になる。
形になれば、それはもう噂ではない。
作戦の影だった。
「守るだけでは、次は守れない。」
カストロは言った。
「彼らは一度で諦める国じゃない。こちらが勝った場所へ、同じやり方では来ないかもしれない。だが、来る。海から、空から、経済から、外交から、あるいは誰かの銃口から来る。われわれが第三極のような顔をして立っていられる時間は、もう長くない。」
ゲバラは、煙草を机の灰皿に置いた。
「ソ連か。」
その名は、部屋の空気を少し重くした。
カストロは答えを急がなかった。窓の外には、夜のハバナがある。まだ眠りきらない街。革命で変わり始めた街。そこには、学校へ行き始めた子どもがいる。地主のものだった土地を耕す農民がいる。病院へ入れるようになった家族がいる。砂糖を作りながら、ようやく砂糖の国を自分たちのものだと思い始めた者たちがいる。
その生活を守るために、どの旗を掲げるのか。
それは、思想だけの問題ではなかった。
「俺は、モスクワが理想郷だとは思っていない。」
カストロは低く言った。
「大国は大国だ。アメリカであれ、ソ連であれ、自分の都合を持つ。俺たちの革命を、俺たち以上に愛してくれる国などない。だが、アメリカに対抗できる盾は必要だ。砂糖を買い、石油を送り、兵器を送り、国際政治の場でこの島を簡単には潰せないものにする盾がいる。」
ゲバラはうなずいた。
「俺も、ソ連を信仰するつもりはない。社会主義を名乗る国家にも、官僚がいる。大国の都合がある。東欧にも、中東にも、革命の名前を借りた国家の計算はある。俺が信じるのは、モスクワの役所ではない。人間が、自分の土地と労働を取り戻せるという思想だ。」
彼は灰皿の煙草を指で押した。火はついていないので、灰は出なかった。
「だが、盾として使えるなら使う。信じる必要はない。使えばいい。ただし、盾の陰で革命が眠れば、それは別の敗北だ。」
カストロは地図へ視線を戻した。
「国民が取り戻したものを守るには、言葉も必要になる。土地を取り戻す。砂糖を取り戻す。学校と病院を作る。それを、海の向こうの資本から切り離す言葉だ。俺が欲しいのは教義じゃない。国を守る形だ。」
「資本に好き勝手搾取されない仕組みという形か。」
「そうなる。」
カストロは、地図の上のピックス湾に指を移した。
「敵が“自由キューバ”の名で来るなら、こちらは直ちに名乗る。これは海の向こうの資本へ戻るための政権交代ではない。人民が取り戻したものを守る革命だ、と。」
ゲバラは、そこで初めてカストロを見た。
「アメリカの攻撃を受けると、死者の前で言うつもりか。」
カストロは顔を上げなかった。
「死者を隠せば、敗北に見える。死者を前に立てば、怒りになる。敵が内部反乱に見せたいなら、こちらは外敵の攻撃として国中に見せる。敵が“自由”の名を奪いに来るなら、こちらは革命の名を先に決める。」
ゲバラはしばらく黙った。
その沈黙には、賛成だけがあったわけではない。死者を政治の場に置くことへの重さもあった。だが、彼はその重さを避ける男ではなかった。
「対外的には、社会主義宣言。国内的には、バチスタ時代に戻さないという決意。」
ゲバラは、ゆっくり言葉を置いた。
「そして軍事的には、上陸までの時間稼ぎだな。」
カストロは頷いた。
「追悼式典と演説で、国民の感情をつなぎ止める。攻撃で動揺した国を、その次の攻撃まで割らせない。そして、勝利すれば、本当の高揚が来る。アメリカが敵として現れ、それを自分たちの手で退けたという物語が、この国を一つにする。」
ゲバラは、灰皿の煙草を見た。
「その勝利は、ソ連にも見える。」
カストロの指が、ピックス湾の上で止まった。
「見せる。アメリカの喉元にある島が、社会主義を名乗り、そのうえでアメリカの侵攻を退ける。そんな島を、モスクワは無視しにくい。」
「支援を求める小国ではなく、支える価値のある楔か。」
「そうだ。」
カストロは、ようやく少しだけ口元を動かした。
「われわれは、アメリカを追い払うだけじゃない。この島の値段を上げる。」
ゲバラは、カストロの言葉をすぐには笑わなかった。
「危険な商売だ。値段が上がれば、買い手は口も出す。」
「分かっている。」
「ならいい。盾は、持つ者の腕も縛る。」
カストロは葉巻を手に取った。
やはり火はつけなかった。
「方針は決まった。会議を始める。」
※※※※※※※※※※
会議室には、海の地図が広げられていた。
フロリダ半島から南へ伸びる海。ハバナの位置。グアンタナモの湾。島の南岸。ピックス湾へ通じる細い道。湿地。港。空港。ラジオ局。通信施設。
机の上の地図は静かだった。
だが、その上に置かれた赤い鉛筆の印は、すべてが動き出す前の血のようにも見えた。
カストロの秘書のセリア・サンチェスが、報告書を机の端に置いた。彼女はただの秘書ではなかった。グランマ号上陸の準備から、シエラの連絡、補給、記録までを支え、カストロのそばで革命の実務を見てきた女だった。
セリアは余計なことを言わない。
報告書を置く。必要な紙を前へ出す。誰が何を言い、誰が沈黙したかを見ている。革命の表舞台で声を張る人物ではないが、革命がどの紙に残り、どの沈黙に沈むかを知っている。
会議には、ラウル・カストロがいた。軍の配置図を前に、鉛筆を握っている。彼は弟としてではなく、軍を預かる者としてそこに座っていた。
ゲバラは窓際ではなく、今回は机の横に立っていた。地図を見るためだった。火のついていない煙草は、灰皿の縁に置かれている。
士官たちは、まだ会議の議題を知らなかった。
カストロは、しばらく全員の顔を見ていた。誰も急かさない。誰も冗談を言わない。カミロがいれば、ここで何かを言って空気を動かしたかもしれない。だが、その声はもうなかった。
カストロは口を開いた。
「まもなく空襲が来る。」
部屋の空気が止まった。
椅子の脚が床をかすかに鳴らした。若い士官の一人が、思わずラウルを見た。ラウルは顔を動かさなかったが、鉛筆を握る指に力が入った。
カストロは続けた。
「敵は、アメリカ軍の顔では来ない。機体を塗り替え、キューバ軍内部の反乱に見せる。空港を焼き、われわれの空を潰したと世界に思わせる。そのあと、亡命者部隊を海から入れる。」
彼は、地図の一点に指を置いた。
「候補は、ピックス湾だ。」
今度は、ざわめきがはっきり起きた。
ある士官が小さく何かを言いかけ、やめた。別の士官はピックス湾の位置を確認するように身を乗り出した。会議室には、信じたい者より、疑う者の方が多かった。
それでよかった。
疑わない軍隊は弱い。
ラウルが、最初に口を開いた。
「そこまで決めていいのか。グアンタナモがある。東から圧力をかけることもできる。上陸が一か所とも限らない。空襲が来るとして、こちらが場所を読み違えれば、島の反対側が空く。」
その問いは、弟としての反論ではなかった。
軍を預かる者として、最初に潰しておかなければならない穴だった。
カストロは頷いた。
「だから全島を空けない。ゲバラを西へ置く。ラウル、お前は軍の配置を締める。俺は中央で全体を見る。グアンタナモは忘れない。あそこは、われわれの国土の中にあるアメリカの足場だ。直接そこから出てこなくても、存在しているだけで圧力になる。だが今回、彼らが前面に出すのは星条旗ではない。亡命者だ。」
ラウルは、地図へ視線を戻した。
「なぜ今だ。」
カストロは、フロリダの南端を指で押さえた。
「大統領が変わった。だが、CIAは変わっていない。計画を作った官僚たちは残っている。訓練された亡命者も残っている。グアテマラで勝った記憶も残っている。新しい大統領が慎重になり、計画を見直し始めれば、彼らにとっては危険だ。やるなら早い。若い大統領に、最初の勝利を渡せる時期に来る。」
士官たちの視線が、地図からカストロへ移った。
若い大統領。
ジョン・F・ケネディ。
その名は、まだこの部屋では敵の顔として定まりきっていなかった。だが、海の向こうで権力の椅子に座った若い男の存在は、確かにこの島の地図に影を落としていた。
ゲバラが、そこで補助線を引いた。
「彼らは、キューバを人間の集まりとして見ていない。手順として見ている。亡命者を鍛える。空から恐怖を落とす。ラジオで政権の弱さを叫ぶ。民衆が強い側へなびくのを待つ。グアテマラでそれは成功した。だから、同じ手順をもう一度使う。」
ゲバラは、火のついていない煙草を指で持ち上げた。
「だが、この島には、彼らが計算に入れていないものがある。土地を取り戻した農民がいる。学校へ行き始めた子どもがいる。病院に並ぶ家族がいる。彼らは紙の上の民衆ではない。自分の暮らしを守る人間だ。」
ラウルは、ピックス湾の周囲を指でなぞった。
「なぜここだ。」
カストロは、地図を少し回した。士官たちからも見える角度にする。
「アメリカから見れば、ここは目立たない。上陸しても、首都から離れている。湿地があり、孤立して見える。彼らは、それを隠密性と読む。われわれは、袋と読む。道は限られる。補給線は細い。空を残していれば、海から来た部隊はそこで足を取られる。」
士官の一人が低く言った。
「しかし、空襲でこちらの機体が失われれば。」
カストロは、その士官を責めなかった。
「だから、空を滑走路の上だけに置かない。」
その言葉で、会議室の全員が顔を上げた。
「日付を知っているわけではない。だが、手口は分かる。亡命者部隊を上陸させるなら、彼らは最初に空を潰しに来る。ならば、こちらは機体を一か所に並べておかない。移せるものは移す。隠せるものは隠す。整備兵とパイロットは、爆撃のあとに飛べる機体を残すために動く。空港には、狙わせるための影も残す。」
ラウルは、しばらく黙っていた。
「読まれていると、敵が気づけば。」
ゲバラが答えた。
「気づかない。彼らは成功を信じている。成功体験は、疑いを鈍らせる。自分たちが最初に空を叩くと思っている者は、相手もそれを読むとは考えない。考えたとしても、キューバにそこまでの準備はできないと思う。」
カストロは、そこで葉巻を机に置いた。
「空襲は来る。死者も出る。完全には防げない。」
部屋の熱が、一度下がった。
勝利の計画ではない。
犠牲を織り込んだ計画だった。
カストロは、声を落とした。
「だが、彼らは空を潰したと思う。最小限になるだろうが犠牲は必ずでる。しかし実は機体は残っている。そして、死者の前で宣言する。」
セリアのペンが、紙の上で止まった。
ラウルの目に、隠しきれない熱が浮かんだ。
「社会主義を、か。」
何人かの士官が、わずかに顔を見合わせた。今は思想の勝利を喜ぶ場面ではない。机の上には、空港の配置、沿岸警備の報告、ピックス湾へ通じる道路の線が置かれている。
それでも、ラウルの声には高揚が混じっていた。
「とうとう、兄さんがそこまで言うのか。」
カストロは、弟の熱をそのまま受け取らなかった。
「違う、ラウル。これは信仰告白ではない。アメリカにどう見えるかを考えろ。彼らは空襲でわれわれの空を潰したと思う。その翌日、われわれが死者の前で社会主義を宣言すれば、どう読む。」
ラウルは口を閉じた。
ゲバラが、火のついていない煙草を指で転がしながら言った。
「追い詰められたカストロが、ソ連に政治的な救援信号を送った。そう読むだろうな。空は潰れた。国内は動揺している。カストロは社会主義の旗を掲げて、モスクワに助けを求めている。ならば、上陸は今だ、と。」
カストロは頷いた。
「そう読ませる。彼らがそう読みたがっているからだ。空襲は成功した。カストロは焦っている。社会主義宣言は弱さの証拠だ。そう思えば、海から来る足は速くなる。」
士官の一人が、慎重に口を挟んだ。
「しかし、実際には機体は残っている。」
「だから意味がある。」
カストロは、机の上の地図に手を置いた。
「彼らは、空と政治の両方を潰したつもりで来る。空軍を叩き、革命の旗をソ連への泣きつきに見せ、亡命者部隊を“自由キューバ”として上陸させる。だが、こちらから見れば違う。空は残した上で死者の前で旗を立てる。敵がこちらの革命の名前を奪う前に、われわれが名乗る。」
ラウルは、まだ少し興奮を残していた。
「兄さんの演説は、そういうところが厄介なんだ。長い。とにかく長い。それなのに、聞いているうちに、みんな自分が歴史の真ん中に立っている気になる。」
数人の士官が、小さく笑った。
笑いというより、張りつめた糸が一瞬だけ緩んだ音だった。
カストロは弟を見た。
「魔法ではない。必要な言葉を、必要な順番で置くだけだ。」
ゲバラは灰皿の煙草を見下ろした。
「君の場合、その順番が長すぎる。」
今度は、もう少しはっきり笑いが起きた。
セリアは笑わなかったが、ペンを再び動かした。
カストロは肩をすくめた。だが、表情はすぐに戻った。
「長くても聞かせる。社会主義という言葉は、国民に難しい教義として渡すものではない。彼らが取り戻した土地を、もう奪い返させないという約束として渡す。砂糖を作る者が砂糖の国を持つ。学校へ行けなかった子どもが学校へ行く。病院の前で追い返された家族が、医者に診てもらう。海の向こうの資本に戻るための政権交代ではなく、人民が取り戻したものを守る革命だと伝える。」
会議室は静かになった。
それは、思想の講義ではなかった。
兵士にも、農民にも、労働者にも届く言葉へ、革命の旗を翻訳する作業だった。
ゲバラが、低くまとめた。
「つまり、対外的には社会主義宣言。国内的には、バチスタ時代に戻さないという決意だな。そして上陸までのあいだ、空襲で揺れた国民の感情をつなぎ止めるための言葉でもある。」
カストロは頷いた。
「勝利が来れば、本当の結束が来る。敵が海から来て、われわれがそれを退けたという事実が、国を一つにする。それまでは、言葉でつなぎ止める。死者を隠さず、怒りを散らさず、内側へ向けさせず、海の向こうへ向ける。」
ラウルの顔から、先ほどの単純な興奮が消えた。
代わりに、軍人の顔になった。
「なら、空襲後の内側をどう押さえるかだ。」
カストロは待っていたように頷いた。
「そこが一番大事だ。敵は空を焼くだけではない。内部の反乱を狙っている。こちらが混乱すれば、亡命者部隊は“解放者”の顔で入ってくる。だから、空襲後の数時間で国を割らせない。」
ラウルは、軍の配置図を引き寄せた。
「空港、通信所、ラジオ局、港、地方司令部。そこを押さえる。空襲後に命令系統が揺れれば、噂が先に走る。」
ゲバラは、別の報告書を手に取った。
「反革命の連絡網も見る必要がある。空襲のあとに動く者が出る。敵が上陸する前に、内側で旗を立てようとする連中だ。彼らを全部敵として処理するという意味ではない。だが、通信と武器には触らせるな。」
セリアが、そこで紙を一枚前へ出した。
「ラジオの原稿と、各地方へ流す短い通達を分けておきます。長い演説は広場で聞かせるとしても、地方には短い言葉が必要です。何が起きたのか。誰が攻撃したのか。政府は崩れていないのか。それを先に出さないと、噂の方が速くなります。」
カストロはセリアを見た。
「その通りだ。死者を隠さない。被害も隠さない。だが、敗北として見せない。これは外敵の攻撃だ。人民への攻撃だ。そう伝える。」
士官たちは、もう最初のようにはざわついていなかった。
彼らは、まだすべてを信じたわけではない。空襲が本当に来るのか。ピックス湾へ本当に上陸するのか。若いアメリカ大統領が、そこまで早く賭けに出るのか。
だが、疑いの中に、別の感情が混じり始めていた。
希望だった。
カストロは未来を見ているのではない。相手の癖を読み、その癖が作る道筋を先に歩いている。士官たちは、そのことを少しずつ理解し始めていた。
予言者ではない。
だが、予言者のように見えるだけの理由が、この男にはあった。
※※※※※※※※※※
会議は、そこから具体に入った。
機体をどこへ移すか。
どの空港に何を残すか。
整備兵をどこへ置くか。
どの部隊をどの海岸線へ回すか。
ゲバラをどの方面へ置くか。
アメリカの租借地グアンタナモ基地周辺の警戒をどう厚くするか。
ピックス湾へ向かう道路を、どの時点で塞ぐか。
ラジオ局を誰が守るか。
港の労働者には何を伝えるか。
民兵にはどこまで知らせるか。
追悼式典の準備を、どの段階で始めるか。
ソ連に何を見せるか。
この最後の問いで、もう一度部屋が静かになった。
カストロは、その沈黙を避けなかった。
「われわれは、ただ助けを求める小島ではいけない。アメリカの喉元にあり、社会主義を宣言し、攻撃を受けても倒れない島だと見せる。もし彼らが本格介入してくるなら、われわれは山へ戻る。ゲリラ戦になれば、これはキューバだけの戦いではなくなる。ソ連は、反帝国主義を語る以上、見捨てにくくなる。」
ゲバラが続けた。
「だが、できればそこまでは行かせない。国を作り始めたばかりのわれわれにとって、山へ戻ることは勝利ではない。都市を焼かず、学校を閉じず、病院を止めずに勝つ。その方が、ソ連に対しても価値が高い。守るべき同陣営の国が実際にあると示せるからだ。」
ラウルは配置図の端に短く書き込んだ。
「勝つだけでは足りない。国を残したまま勝つ。」
カストロはその言葉を聞き、頷いた。
「そうだ。」
死者が出ることを前提にした会議は、誰にとっても楽ではなかった。だが、死者が出ないふりをする会議よりは、ずっとましだった。
カストロは、ひとつひとつを聞いた。
すべてに即答するわけではない。ラウルの軍事的な指摘には耳を傾けた。ゲバラの政治的な警告にも頷いた。セリアが記録の不足を指摘すれば、別の報告を求めた。士官が疑問を出せば、黙らせずに地図を見せた。
その姿は、預言者ではなかった。
机の上に置かれた紙、海岸線、敵の成功体験、味方の弱さ、国民の動揺、死者の怒り。それらを一つずつつなぎ、まだ起きていない出来事の形を組み立てる政治家だった。
若い士官が、最後にピックス湾の地図を見た。
そこはもう、ただの上陸地点には見えなかった。
泥。
湿地。
細い補給線。
残された空。
そして、そこへ入ってくる敵の慢心。
士官は、背筋を伸ばした。
「配置を、すぐに始めます。」
カストロは、短く頷いた。
「急げ。だが、急いでいるように見せるな。敵は、われわれがまだ気づいていないと思っている。しばらくは、そう思わせておく。」
その言葉で、会議は終わりに向かった。
セリアは報告書をまとめ、ラウルは配置図を持って立ち上がった。ゲバラは灰皿の煙草を取り、結局火をつけずにポケットへ入れた。
部屋を出る前、ラウルが一度だけ振り返った。
「兄さん。」
カストロは地図を見たまま応じた。
「何だ。」
「追悼式典で長い演説にするなら、せめて兵士たちが空腹で倒れない時間にしてくれ。」
また、小さな笑いが起きた。
今度の笑いには、少しだけ力があった。
カストロは葉巻を手に取り、ようやく火をつけた。
「約束はできない。」
ラウルは肩をすくめた。
「そう言うと思った。」
彼はそう言って、配置図を抱えて部屋を出た。
※※※※※※※※※※
ゲバラは、その後ろ姿を見送り、カストロに視線を戻した。
「疑いは残っている。」
「残っていていい。」
カストロは煙を吐いた。
「疑いのない者は、最初の銃声で崩れる。疑いながら、それでも動く者の方が強い。」
ゲバラは頷いた。
「なら、今夜の会議は悪くない。」
「悪くないどころか良かった。ただ、長かった。」
「君の演説ほどではない。」
カストロは、今度は少しだけ笑った。
部屋にはまだ地図が残っている。
ピックス湾は、紙の上で静かだった。
空襲はまだ来ていない。
追悼式典もまだ開かれていない。
社会主義宣言も、まだ声になっていない。
海からの船影も、まだ闇の向こうにあった。
だが、会議室の中で、戦争はすでに始まっていた。
ピックス湾がいつ起きると言う日時までは革命政権はわからなかったと思いますが、かなり事前に戦略を練っていたことが、史実の動きからもわかります。
次回いよいよ、アメリカの工作が始まります。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、木曜日の夜、投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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