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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
二人の英雄の友情と別れ(前編)
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155/214

154,空に消えたカリスマ

思想ではなく人柄で革命政権を支えたカミロは、革命の同士マトスの辞意を説得に向かいます。

革命後初期の最大の悲劇が始まります。

カミロ行動は、カストロの期待を超えた。


彼はマトスを怒鳴りつけなかった。脅しもしなかった。革命を裏切った男として扱うこともなかった。


カマグエイに着いたカミロは、まず兵士たちの顔を見た。


兵舎の空気は、銃声の前にだけ生まれる静けさを含んでいた。誰も撃っていない。誰も命令していない。だが、誰かの一言で、全員が動き出すかもしれなかった。


それが危険だった。


マトスの辞表は、すでに紙ではなくなっていた。兵士の目に入り、地方幹部の耳に入り、ハバナの机を硬くし、フロリダの岸にいる者たちの想像を刺激している。マトス本人が望むかどうかとは別に、その名は旗になりかけていた。


カミロは、その旗を燃やしに来たのではない。


旗になる前に、布へ戻しに来た。


同じ革命軍の男として、マトスにそれを分からせるために来た。


※※※※※※※※※※


カマグエイの部屋は乾いていた。


窓の外には兵士の足音があり、遠くで車のエンジン音がした。机の上には、辞表の写しが置かれている。紙は薄い。だが、部屋にいる誰よりも重かった。


マトスは疲れていた。


裏切り者の顔ではなかった。勝利後の椅子にうまく座れない男の顔だった。自分が信じた革命が、自分の手の中で別の形へ変わっていく。その変化に耐えられない者の顔だった。


カミロは、すぐに責めなかった。


帽子を取って、椅子の背にかける。銃を置く。マトスに見えるように、両手を机の上に出した。


「俺は、君を敵として見に来たわけじゃない。」


マトスは苦く笑った。


「なら、友人として来たのか。」


「友人なら、こんな部屋では会わない。酒のある場所で会う。」


マトスは少しだけ目を細めた。


「君は変わらないな。」


「変わっているさ。前より少し偉そうになった。」


「それは前からだ。」


短い笑いが、部屋の中に落ちた。だが、すぐに消えた。


マトスは辞表に目を落とした。


「俺は革命を売るために辞めるんじゃない。このまま残れば、俺が信じた革命とは違うものに同意したことになる。俺はバチスタを倒すために戦った。キューバをキューバ人の手に戻すために戦った。だが今、政府の中で強くなっているものは、俺には別の支配に見える。」


カミロは遮らなかった。


マトスの言葉には、嘘だけではない。恐れも、誇りも、誠実さも混じっていた。だから厄介だった。


「ゲバラやラウルの言っている国が、まったく分からないわけじゃない。」


マトスは低く続けた。


「国民のための政権を作る。土地を戻す。学校を作る。病院を開く。富を分け直す。そういう言葉が必要なのは分かる。だが、俺たちはその前に、命がけで戦ったんだ。山で、泥の中で、何度も死にかけた。仲間が死んだ。その仲間たちが、勝った途端に、賢い言葉で国を語り始める。俺には、それがうまく飲み込めない。」


カミロは笑わなかった。


マトスは、拳をゆっくり開いた。


「俺には、国民への愛とか、外国資本への怒りとか、バチスタへの憎しみとか、そういう言葉しかない。人間を作り替えるだの、社会を根から変えるだの、そういう大きな言葉を持っていない。だから俺は、ここにいられない。」


カミロは帽子のつばに指をかけた。


「それで辞表か。」


「ほかに、どうしろと言う。」


カミロは、机の上の紙を指で押さえた。


「君の辞表を読むのは、君の味方だけじゃない。敵も読む。迷っている兵士も読む。フロリダへ行った連中も読む。紙は、一度机を離れると、書いた男のものではなくなる。」


マトスは黙った。


カミロは、窓の外へ視線を向けた。


「国民は、お前が反革命の旗になると噂している。」


マトスは顔を上げた。


「馬鹿な。」


「そうだよな。俺だって、あんな頭のネジが外れた連中と内紛なんてやりたくない。カストロとゲバラを相手に喧嘩を始めたら、命がいくつあっても足りないぞ。それに、命がなくなれば笑えなくなる。俺としては、そこが一番困る。」


マトスは、思わず短く笑った。


だが、その笑いはすぐに消えた。


「俺は、ここにはいられない。」


「なら、ハバナへ来い。」


「連れて行くのか。」


「収監されればいい。」


マトスの目が細くなった。


カミロは、軽く肩をすくめた。


「怒るな。英雄をぞんざいに扱うような不義理なやつはいない。少なくとも、俺がそうはさせない。カストロも、君を売った男だとは思っていない。ゲバラだって、君の不安を馬鹿にはしていない。ただ、ここに残れば駄目だ。君が望まなくても、誰かが君を旗にする。」


マトスは窓の外を見た。


兵士たちがいた。


彼が一言命じれば、動くかもしれない者たちだった。


「俺が収監されれば、革命は割れないのか。」


「少なくとも、君の名で銃声は始まらない。」


「それで、国は作れるのか。」


カミロは、少しだけ考えた。


「カストロがいる。ゲバラがいる。俺もいる。三人もいれば、たいていの厄介事はどうにかなる。まあ、ゲバラが二人いたら国は燃えるが、一人なら使い道はある。」


マトスは今度こそ笑った。


苦い笑いだった。


「君は、本当に変わらないな。」


「変わっているさ。前より少し偉くなった。」


「それは前からだ。」


しばらく、二人は黙った。


やがてマトスは、机の上の辞表を見た。自分が書いた紙だった。だが、もう自分のものではなかった。


「分かった。」


カミロは何も言わなかった。


「歩いて出る。引きずられるのは御免だ。」


カミロは静かに頷いた。


「それでいい。」


マトスは帽子を手に取った。


「カミロ。」


「何だ。」


「約束しろ。この革命を、俺たちが戦った革命から遠ざけすぎるな。」


カミロは、少しだけ笑った。


「それは俺一人に言うな。帰ったら、カストロとゲバラにも同じことを言ってやる。」


マトスは、その言葉を信じた。


少なくとも、そのときは信じることができた。


カミロがいる革命なら、まだ信じられる。


カストロがいて、ゲバラがいて、カミロがいるなら、この国は極端へ落ちきらずに済むかもしれない。そう思えた。


だからマトスは、自分の足で部屋を出た。


負けたのではない。


自分を旗にさせないことを選んだ。


※※※※※※※※※※


外へ出ると、兵士たちの視線が集まった。


空気が張りつめた。誰かが小さく息をのむ音がした。銃声はなかった。命令もなかった。ただ、マトスが歩いていた。


それがすべてだった。


マトスは引きずられていない。罵られてもいない。カミロは彼の横を歩いている。距離は近すぎず、遠すぎなかった。部下に見せるための距離だった。


司令官は逃げていない。


司令官は反乱を命じていない。


司令官は、自分の足で歩いている。


カミロは、それを兵士たちに見せた。


若い兵士の一人が、何かを言いかけた。隣の兵士がその袖をつかんだ。誰も動かなかった。カマグエイの兵舎には、銃声の代わりに靴音だけが響いた。


車の前で、マトスは一度だけ振り返った。


自分の部下たちがいた。彼らの顔には、怒りも、不安も、戸惑いもあった。だが、銃を構える者はいなかった。


マトスは短く頷いた。


それは別れではなかった。命令でもなかった。ただ、動くな、という彼なりの言葉だった。


カミロはそれを見届けた。


彼はカストロの期待を超えた。


マトスを拘束しただけではない。マトスの誇りを残し、兵士たちの銃を眠らせ、辞表を反乱の旗にしなかった。


カミロは、国家の命令を人間の言葉に変えた。


※※※※※※※※※※


任務を終えたカミロは、ハバナへ戻る飛行機に乗った。


一九五九年十月二十八日。


夜の飛行だった。


機体は小さく、空は暗く、海はさらに暗かった。滑走路の灯りが後ろへ流れ、カマグエイの地上の光が少しずつ遠ざかる。島の輪郭は夜に溶け、やがて窓の下には、黒い海が広がった。


短い飛行のはずだった。


カミロは、戻るはずだった。


ハバナには報告を待つ者がいる。カストロは次の判断をしなければならない。ゲバラも、マトスの辞表が軍に与えた意味を考えている。兵士たちは、カミロが戻れば何かが決まると思っていた。


カミロが戻るということそのものが、まだ革命は割れていないという印のように感じられていた。


だが、飛行機はハバナに着かなかった。


最初は、遅れているだけだと思われた。


通信の問題かもしれない。天候の問題かもしれない。どこかへ着陸したのかもしれない。誰もが、そう考えようとした。戻るはずの男が戻らないという現実は、すぐには受け入れられない。


捜索が始まった。


海を探した。


沿岸を探した。


空から探し、船で探し、人に聞いた。


誰かが音を聞いたと言った。誰かが光を見たと言った。別の誰かは、何も見ていないと言った。報告は増えていく。紙は増えていく。だが、答えは増えなかった。


機体は見つからなかった。


遺体も見つからなかった。


事故として語られた。


だが、何も返さない事故は、人々の胸でただの事故としては終わらない。そこには、祈りが入り込む。噂が入り込む。否定したい気持ちが入り込む。まだどこかにいるのではないかという声が、どこからともなく生まれる。


カストロは報告を受け取った。


一枚目。


二枚目。


三枚目。


見つからない。


まだ見つからない。


彼は葉巻に火をつけようとして、途中でやめた。机の端に置いた葉巻は、しばらくそのままになった。周囲は彼の顔色を見たが、誰も不用意な言葉をかけなかった。


ゲバラも黙っていた。


カミロは、マトスの火種を血に変えなかった。


だが、そのカミロ自身が消えた。


※※※※※※※※※※


マトスがカミロの消息を知ったのは、収監されたあとだった。


最初、彼は聞き違いだと思った。


カミロが戻っていない。


その言葉は、意味を結ばなかった。あの男が戻らないはずがない。帽子を傾け、軽口を言い、戻ってきたぞと扉を開けるはずだった。マトスはそう思おうとした。


だが、日が経つにつれて、言葉は別の重さを持ち始めた。


戻っていない。


まだ見つからない。


海が返さない。


マトスは、壁の近くに座ったまま、長く黙っていた。


彼はカミロに従った。カストロに屈服したからではない。ゲバラの言葉を受け入れたからでもない。自分の名で革命軍同士が撃ち合うことを避けたかったからだ。そして、カミロがいたからだ。


カストロがいる。


ゲバラがいる。


カミロがいる。


そう思えたから、彼は歩いて部屋を出た。


だが、その三人のうち一人が、もう戻ってこない。


新しい政権にカミロがいない。


その事実は、どんな判決よりも静かに彼の胸へ落ちた。


それでも、マトスは約束を破らなかった。自分の名で兵士を動かそうとはしなかった。少なくとも、あのときカミロに見せた顔を、裏切りたくはなかった。


自分を旗にしない。


それは彼が選んだ、最後の自由だった。


※※※※※※※※※※


ゲバラは、カミロの不在をすぐには言葉にしなかった。


言葉にすれば、その不在が確定してしまう気がした。


彼は机の上の地図を見ていた。カマグエイからハバナへ伸びる短い線。短い線だからこそ、余計に信じがたかった。遠い戦場で死んだなら、まだ理解できたかもしれない。敵の銃弾に倒れたなら、怒りの置き場所があったかもしれない。


だが、カミロは任務を果たし、帰る途中で消えた。


ゲバラは、灰皿に置いた煙草を長く見ていた。


カミロとは、思想が違った。


それでも、革命には彼が必要だった。論理だけでは人は歩かない。規律だけでは、明日の朝に立ち上がれない。人間を動かすには、愛がいる。そのことを、ゲバラはカミロを見て知っていた。


カミロは、その愛を難しい言葉にしなかった。


兵士の靴を直し、湿った煙草で笑い、疲れた隊列を歩かせた。死を知っているから笑わせた。重さを知っているから軽口を言った。


その男がいない。


ゲバラは、ようやく煙草に火をつけた。


煙は、肺に悪かった。


だが、その夜、彼はそれを気にしなかった。


カミロが教えたものは、失われたからこそ、ゲバラの中で硬く残った。革命には論理がいる。だが、論理だけでは足りない。人間を愛せない革命は、いつか人間を踏みつける。


その理解は、彼の中で消えなかった。


※※※※※※※※※※


カストロは、マトスの収監を覆さなかった。


覆せなかった、と言った方が近い。


カミロが戻らないからといって、マトスを戻せば、カミロが止めたドミノがまた動く。カマグエイの辞表は、再び地方軍の迷いになる。フロリダの岸にいる者たちは、それを読んで笑う。まだ国家になりきっていない革命政府は、友を失った悲しみのまま、政治の亀裂を広げることになる。


カストロには、それができなかった。


彼は、カミロを失った悲しみを、判断の取り消しには使わなかった。


そこに冷たさがあった。


そして、その冷たさこそが、国家を背負う者の最初の顔だった。


カストロはマトスを憎んでいたわけではない。カミロが命をかけて流血を避けたことも分かっていた。だからこそ、収監を覆せなかった。マトスを戻すことは、カミロの任務を否定することにもなる。


カミロは、革命軍同士の亀裂を血に変えずに済ませた。


だが、そのカミロは帰ってこなかった。


カストロは、飛行計画の紙を前にして、長い時間動かなかった。


もしカミロが戻っていれば。


その問いは、政治家が口にすべきものではない。歴史に対して、もし、を言っても国は動かない。港の荷は降りない。砂糖は売れない。軍は整わない。敵は待ってくれない。


それでも、その問いは消えなかった。


もしカミロが戻っていれば、革命の中心は三角形だったかもしれない。


カストロの声。


ゲバラの倫理。


カミロの明るさ。


国家へ向かう声と、世界へ向かう理想と、民衆のそばに立つ笑い。その三つが並んでいれば、革命はもう少し違う硬さを持てたかもしれない。誰かが熱くなりすぎたとき、誰かが笑わせたかもしれない。誰かが遠くを見すぎたとき、誰かが兵士の靴を指さしたかもしれない。誰かが国家の椅子に縛られたとき、誰かが広場の空気を思い出させたかもしれない。


だが、三角形はできなかった。


ウルティアの椅子は空いた。


ディアス・ランスは百五マイル先の岸へ去った。


マトスは辞表を書き、そしてその後収監された。


カミロは、夜の海から帰ってこなかった。


残ったのは、二つの重心だった。


カストロとゲバラ。


二人は強くなった。必要になった。誰も代わりになれなくなっていった。だが、代わりがいないということは、祝福ではない。国家にとっては危うさでもある。


カストロは、飛行計画の紙をファイルへ戻した。


海は何も返さなかった。


ただ、島の上には、二人の影が残った。


そして北の海から、別の圧力が近づいていた。


フロリダの岸は、まだそこにある。亡命者たちも、まだそこにいる。海の向こうでは、革命を終わらせるための言葉が少しずつ形を取り始めていた。


キューバに残された時間は多くなかった。


ピックス湾の海は、もう遠くなかった。

思想の出発点が違う革命政権のメンバーを人柄で支えたカミロは消え、マトスも収監されます。

革命政権のバランスは大きく変わっていきます。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。


次回は、今夜投稿予定です。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しました。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿です!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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