141,人々の中の死神
暗殺未遂後ウォレスは発言や行動、政治的な姿勢が少しずつ変わっていきます。
一九七二年五月 メリーランド州
目を開けた時、ジョージ・ウォレスは最初、自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が白い。薬品の匂いがする。誰かの足音が近くで止まり、低い声がまた遠ざかっていく。身体を動かそうとすると、腹の底から鈍い痛みが上がってきた。
銃声は、もう聞こえなかった。
だが、身体の中に残っていた。
彼は息を吸い、右手を少し動かした。指は動いた。肩も動く。喉も、かすれてはいるが声を出せそうだった。
足を動かそうとした。
何も返ってこなかった。
もう一度、動かそうとした。
やはり、何も返ってこない。
医師の説明は、言葉としては聞こえていた。脊髄。損傷。麻痺。歩行。回復の見込み。どれも、法律の文書のように整っていた。整っているからこそ、逃げ場がなかった。
彼は、すぐには怒らなかった。
怒りは相手がいる時に出る。連邦政府。北部の新聞。大学の若者。テレビの司会者。自分を罵る者たち。そういう相手なら、彼はいくらでも言葉を返せた。
だが、動かない足には言い返せなかった。
自分の身体が、自分の命令に従わない。
それは、彼がこれまで信じてきたものの一番深い場所を壊す出来事だった。
拳を握れば前へ出られる。努力すれば身体は応える。呼ばれたなら逃げずに立つ。連邦に押されても、群衆の前では自分の足で立つ。アラバマはアラバマのことを決める。自分の道は、自分で選ぶ。
そう信じてきた男が、自分の足ひとつ動かせなくなっていた。
病室の窓の外では、どこか遠くの空が明るかった。
ウォレスは目を閉じた。
生きている。
周りの人々は、そう言った。
だが、その時の彼には、生き残ったという言葉が、勝利のようには聞こえなかった。
※※※※※※※※※※
病室には、次々と人が来た。
家族。側近。支持者。古い友人。教会の者。花も届いた。手紙も届いた。祈っています、という言葉が何度も読まれた。
彼らは、ウォレスを見捨てなかった。
むしろ以前より優しかった。
「知事、あなたはまだ私たちの人です。あの日、あなたは私たちのために前へ出てくれた。今度は、私たちが祈る番です。どうか、気を落とさないでください。」
「神があなたを生かしたんです。まだ、あなたにはやることがあるんです。」
「まだ、私たちにはあなたが必要なんです。」
その言葉に嘘はなかった。
だからこそ、ウォレスは傷ついた。
彼らの目には、以前と同じ熱だけではなく、痛ましさが混じっていた。自分たちの前に立つ男を見る目ではない。倒れた男を見下ろす目が混じっている。
敵意なら、受け止め方を知っていた。
同情は違った。
北部の新聞に罵られれば怒れる。連邦政府に押し切られれば、州の権利を叫べる。反対派が叫べば、その声より大きく言い返せる。
だが、優しい手には拳を振り上げられない。
責められないものに傷つけられることが、いちばん苦しかった。
「私は、まだ終わっていない。」
見舞いに来た古い支持者の前で、ウォレスはそう言った。
声はかすれていたが、言葉はいつもの形をしていた。支持者は目を潤ませてうなずいた。
「もちろんです。あなたはまだ戦えます。私たちは、ずっと待っています。」
ウォレスはその顔を見た。
相手は本気でそう言っている。励ましている。自分を支えようとしている。だが、その優しさの奥にあるものを、ウォレスはもう見てしまっていた。
彼は、慰められる側になっていた。
群衆の怒りを引き受ける男ではなく、群衆に祈られる男になっていた。
それが、彼には惨めだった。
※※※※※※※※※※
一九七二年夏 アラバマ州
家へ戻った時、そこにルリーンはいなかった。
そのことは、初めから分かっていた。
分かっていたはずなのに、車椅子で廊下を進んだ時、彼はまた彼女がいないことを知り直した。
家具は昔と同じ場所にある。写真もある。食卓もある。窓から入る光も変わらない。だが、そこに彼女の気配はなかった。
彼を支える人間はいた。
秘書もいる。家族もいる。手を貸す者もいる。車椅子を押す者もいる。彼は一人ではなかった。
それでも、最も近くで彼の虚勢を見抜いた女は、もういなかった。
彼は、あの夜のルリーンの言葉を思い出した。
「私の名前を使うということは、私の身体も使うということ。」
その意味を、彼は今になって少しだけ分かり始めていた。
政治は、言葉だけを使うわけではない。
身体を使う。
立つ身体。手を振る身体。笑う身体。病を抱えながら人前に出る身体。銃弾を受ける身体。そして、車椅子の上で人の手を待つ身体。
彼は、ずっと家庭を守ると言ってきた。学校を守り、子供を守り、教会を守り、州の暮らしを守ると言ってきた。
だが、自分の家に政治を入れていたのは誰だったのか。
その問いは、すぐには言葉にならなかった。
言葉にしてしまえば、立ち止まらなければならない。
だからウォレスは、また前を向こうとした。
車椅子の上で。
※※※※※※※※※※
一九七〇年代半ば アラバマ州
銃撃後も、彼は政治をやめなかった。
車椅子で集会に出た。支持者の前で話した。昔のように壇上を歩き回ることはできない。だが、声は残っている。言葉も残っている。群衆もまだ彼を待っていた。
彼が現れると、拍手が起きた。
かつてとは違う拍手だった。
怒りの拍手だけではない。敬意と同情と、失われたものへの惜しみが混じっていた。
ウォレスは、それを浴びながら笑った。
笑うことはできた。
だが、演説のあとで一人になると、その笑いは長く残らなかった。
自分に必要なのは何なのか。
虚勢なのか。
まだ戦えるという言葉なのか。
それとも、これまで通り民衆の物語を聞き、その声を返すことなのか。
彼には分からなかった。
なぜなら、彼が聞くべき民衆の声も変わり始めていたからだ。
アラバマは、彼がかつて叫んだ時代のままではない。学校は変わり、町は変わり、黒人の有権者も増えた。若い世代は、昔の言葉を同じ熱では受け取らない。かつて彼を押し上げた白人の怒りも、時間の中で形を変え始めていた。
それでも、彼は聞くことをやめなかった。
理髪店へ行った。
教会へ行った。
集会所へ行った。
車椅子で、かつての支持者たちの前に出た。
彼らは今も彼を愛していた。昔の演説を懐かしむ者もいた。もっと強く言ってほしいと願う者もいた。けれど、その一方で、別の声も聞こえ始めていた。
「知事、町は変わりました。」
ある老人が、教会の外でそう言った。
「昔のことが全部よかったわけじゃない。でも、あの頃の私たちは、自分たちが悪人にされることに耐えられなかった。あなたは、それを言ってくれた。だから私たちはあなたを信じたんです。」
ウォレスは、黙って聞いていた。
老人は続けた。
「けれど、今の子供たちは、昔と同じじゃない。黒人の子も白人の子も、同じ学校へ行っている。全部がうまくいってるとは言わない。でも、もう戻れないところまで来たんでしょうな。」
それは裏切りの言葉ではなかった。
年を取った男の、静かな事実だった。
ウォレスはその時、自分がずっと代弁してきた民衆もまた、時間の中にいるのだと知った。
民衆の声は、石に刻まれているわけではない。
変わる。
迷う。
忘れる。
そして時には、自分がかつて求めた言葉からも離れていく。
そのことが、彼にはひどく寂しかった。
※※※※※※※※※※
一九七〇年代後半 アラバマ州
別の日、彼は黒人の教会へ行った。
最初は、歓迎というより緊張だった。
当然だった。
そこには、彼の言葉で傷ついた者がいた。彼の政治で扉の前に立たされた者がいた。彼の名前を聞くだけで、古い恐怖や怒りを思い出す者がいた。
ウォレスは、車椅子の上でその視線を受けた。
かつてなら、言い返したかもしれない。
時代がそうだった。
私は民衆の声を聞いただけだった。
連邦の押しつけに抵抗しただけだった。
私は一人で歴史を作ったわけではない。
そう言うことはできた。
どれも、ある程度は事実だった。
だが、その言葉はもう彼を救わなかった。
彼は初めて、反論ではなく沈黙を選んだ。
一人の黒人牧師が、静かに言った。
「知事、私たちはあなたが痛みを知ったことを聞いています。けれど、あなたの痛みが、私たちの痛みを消すわけではありません。」
ウォレスは顔を上げた。
牧師は責めるようには言わなかった。だからこそ、言葉は深く入った。
「あなたは立てなくなった。お気の毒です。しかし、私たちは長いあいだ、立つ場所そのものを奪われてきました。投票所の前で、学校の前で、店の入口で、裁判所で。あなたの苦しみと私たちの苦しみは同じではありません。」
同じではない。
その一言を、ウォレスは胸の中でくり返した。
彼は、自分が弱い側になったことで、すべてを理解したとは言えない。
車椅子の痛みと、黒人が受けてきた差別の歴史は同じではない。
だが、痛みを持たない時には見えなかったものが、少しだけ見えた。扉の前で止められること。人の手を待つこと。自分の意思だけでは前へ進めないこと。それを、彼は身体で知り始めていた。
牧師は言った。
「それでも、来たことは受け止めます。あなたが何を言うかは、あなた自身の問題です。」
ウォレスは、長いあいだ黙っていた。
その沈黙の中で、彼は気づいた。
これまでは、誰かの声を言葉にしてきた。
床屋の声。教会の声。母親の不安。工場の怒り。南部の屈辱。全米の口に出しにくい本音。
だが、ここでは代弁できない。
懺悔は、誰かの声ではできない。
自分の言葉でしかできない。
※※※※※※※※※※
夜になると、ウォレスは眠れなかった。
足は動かない。痛みは消えない。眠りが浅くなると、銃声の記憶が戻ってくる。群衆の手。床の低さ。遠ざかる声。
彼は聖書を開いた。
若い頃から信仰を知らなかったわけではない。南部で生きる者にとって、教会は生活の一部だった。だが、彼が本当に聖書の前に一人で座ったのは、ずっと後のことだったのかもしれない。
かつて彼は、信仰の言葉を政治の力として聞いた。
神のない自由は自由ではない。家庭を守れ。子供を守れ。町を守れ。
その言葉は、人々を動かした。
だが今、彼が必要としているのは、人を動かす言葉ではなかった。
自分を小さくする言葉だった。
負けを認める言葉。
傷つけたことを認める言葉。
赦してほしいと願う言葉。
それは、彼が最も苦手な言葉だった。
彼はずっと、勝つために話してきた。相手より強く、相手より分かりやすく、相手より群衆の近くで話してきた。
だが、祈りは勝ち負けではなかった。
祈る時、人は誰かの代弁者ではいられない。
ウォレスは、初めて自分の中から出てくる言葉を探した。
ふるさととは何だったのか。
守るべき家や教会や学校のことだったのか。それとも、自分の言葉で誰かを締め出してでも守るべき旗のことだったのか。
国家とは何だったのか。
遠い連邦の命令から人々を守るものなのか。それとも、自分たちの町の外にいる人間も同じ国民として数えるためのものなのか。
政治とは何だったのか。
民衆の声を大きくすることだけでよかったのか。その声が誰かを押し潰す時、政治家はそれでも拍手に応え続ければよかったのか。
答えは、すぐには出なかった。
だが、問いから逃げることも、もうできなかった。
※※※※※※※※※※
一九七〇年代の終わり頃、ウォレスは自分が新しく生まれたクリスチャンだと語るようになった。
その言葉を信じない者もいた。
当然だった。
政治家の悔い改めほど、疑いやすいものはない。しかも相手はジョージ・ウォレスである。遅すぎる。選挙のためだ。年を取って弱くなったからだ。そう言う者はいたし、その疑いには理由があった。
ウォレス自身も、疑われることを完全には拒めなかった。
それでも、彼は言葉を探し続けた。
昔なら、反論しただろう。
私は変わった。
私は本気だ。
なぜ信じないのか。
そう言いたくなる自分もいた。
だが、赦しは要求できない。
赦しを求めることはできる。
赦されるかどうかは、相手が決める。
その当たり前のことを、彼は車椅子の上で少しずつ覚えていった。
※※※※※※※※※※
一九七九年 モンゴメリー
デクスター・アベニュー・バプテスト教会へ向かう日、空は高かった。
かつてマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが牧師を務めた教会である。アラバマの歴史の中で、その名前は重かった。ウォレスにとっても、軽い場所ではない。
車椅子が通路を進むと、人々の視線が集まった。
すべてが温かいわけではなかった。
泣いている者もいた。黙っている者もいた。目を伏せる者もいれば、じっと彼を見つめる者もいた。その沈黙は、拍手より重かった。
ウォレスは、用意してきた言葉を持っていた。
だが、教会の中に入ると、その言葉だけでは足りない気がした。
彼は、群衆を沸かせるために来たのではない。自分を正当化するために来たのでもない。自分が変わったことを証明して、赦しを勝ち取るために来たのでもない。
ただ、言わなければならない言葉があった。
ウォレスは、少しだけ目を伏せた。
若い頃、彼はただ強くなりたかった。
拳を握り、走り、打たれ、倒れ、それでも立ち上がる。努力は身体に残る。昨日より速くなり、昨日より強くなり、昨日より痛みに耐えられるようになる。その単純さを、彼は信じていた。
それは、嘘ではなかった。
だが、いつからか彼の周りには観衆がいた。
観衆は、強い男を見たがった。倒れない男を見たがった。相手より大きな声で言い返し、相手より前へ出て、相手を退かせる男を見たがった。
ウォレスは、その視線に応えた。
最初は、強くなるためだった。
しかしいつのまにか、強く見せることを、強くなることだと思い始めていた。
拍手が起きる。
歓声が上がる。
人々が、自分の言葉にうなずく。
そのたびに、自分は正しい場所に立っているのだと思った。
けれど、政治のリングで倒れるのは、目の前の相手だけではなかった。
自分の言葉で、扉の前に立ち止まらされた者がいた。
自分の言葉で、学校へ入ることを恐れた者がいた。
自分の言葉で、この国に居場所がないと感じた者がいた。
強くなりたかっただけだった。
だが、その強さを誰に向けるのかを、彼は長いあいだ考えなかった。
ウォレスは顔を上げた。
「私は、間違っていました。」
その声は、昔の演説ほど強くはなかった。
けれど、彼自身の声だった。
「私は、強くあろうとしました。人に負けまいとし、前に立とうとし、私を信じてくれた人々の声を届けようとしました。けれど、いつのまにか私は、強くあることではなく、強く見えることにしがみついていました。」
教会は静かだった。
ウォレスは続けた。
「拍手が起きるたびに、私は自分の言葉が正しいのだと思いました。人々が立ち上がるたびに、自分がこの土地の声を語っているのだと思いました。けれど、その言葉で開くべき扉を閉ざされた人たちがいました。私の声で、傷ついた人たちがいました。」
彼は、膝の上に置いた自分の手を見た。
「私は、長いあいだ、本当の言葉で語ることができませんでした。人々が聞きたがる言葉を語り、敵に勝つための言葉を語り、自分を強く見せるための言葉を語ってきました。」
それから、ゆっくり息を吸った。
「今日、私は勝つためにここへ来たのではありません。赦されるために来た、と言うことさえ、傲慢なのかもしれません。ただ、赦してほしいと願うために来ました。」
会衆の反応は一つではなかった。
すぐにうなずく者もいた。顔をこわばらせたままの者もいた。涙を拭う者も、腕を組んだまま動かない者もいた。
それでよかった。
赦しは、拍手のように一斉に起きるものではない。
ウォレスはその日、それを知った。
※※※※※※※※※※
教会を出る時、車椅子が入口の段差で少し止まった。
小さな段差だった。
昔のウォレスなら、気にも留めなかった高さだ。拳を握り、前へ出て、誰より先に立つ。それが彼の生き方だった。
だが今は、その段差が彼の前にある。
後ろから、若い手が車椅子の背に添えられた。
「押します。」
黒人の青年だった。
ウォレスは振り返った。
青年は、特別なことをした顔をしていなかった。ただ、そこに段差があり、車椅子の男が止まっていたから押した。それだけのことだった。
それだけのことが、ウォレスには重かった。
かつて彼は、黒人の若者が大学の扉を通るのを止めようとした。
今、自分は黒人の若者の手で、扉を越えている。
ウォレスは何かを言おうとした。
演説なら、いくらでもしてきた。群衆の怒りを言葉にすることも、新聞を相手に言い返すことも、連邦の前で州の権利を語ることもできた。
だが、その時出てきた言葉は、どれとも違っていた。
「ありがとう。」
それだけだった。
青年は小さくうなずき、車椅子を押した。
扉の向こうに、アラバマの午後の光があった。
※※※※※※※※※※
一九八二年秋 アラバマ州
ウォレスの変化は、少しずつアラバマに受け止められていった。
もちろん、すべての人が信じたわけではない。
昔のウォレスを求める白人もいた。赦せない黒人もいた。遅すぎると考える者も、選挙のためだと考える者もいた。
それでも、アラバマという土地は変わっていた。
急に変わったわけではない。
北の新聞が望む速度でも、ワシントンが決めた速度でもなかった。畑が季節を越えるように、教会の席順が少しずつ変わるように、学校へ通う子供たちの顔ぶれが変わっていくように、ゆっくりと変わっていた。
銃弾は、ウォレスから足を奪った。
だが同時に、彼に時間を与えた。
立って叫び続けていたなら、見ることのなかった時間だった。勝つための言葉を探し、群衆の熱に押され、相手より強く言い返すだけでは、たどり着けなかった時間だった。
車椅子の上で、彼は待つしかなかった。押してもらうしかなかった。そして、聞くしかなかった。
その時間の中で、アラバマもまた少しずつ変わっていった。
かつて彼の言葉で傷つけられた人々が、もう投票所の外に立たされるだけの存在ではなくなっていた。かつて彼を押し上げた人々も、昔と同じ怒りだけでは生きていなかった。子供たちは同じ校舎へ通い、町の景色は、彼が守ろうとした頃とは違うものになっていた。
ウォレスは、その変わったアラバマに向かって、もう一度語ることになる。
その言葉は、昔のような叫びではなかった。
連邦に勝つための言葉でもない。北の新聞を黙らせるための言葉でもない。床屋や教会の裏で聞いた怒りを、そのまま返す言葉でもない。
もっと小さく、もっと遅く、もっと自分の身体に近い言葉だった。
「私は、昔と同じ男として戻ってきたのではありません。」
彼は、そう言った。
「私は多くの間違いをしました。そのために傷ついた人たちがいることを、今は分かっています。すべてをやり直せるとは言いません。赦しを求めたからといって、すぐに赦されるとも思っていません。」
会場は静かだった。
かつてなら、そこで拍手を求める言葉を重ねただろう。誰かの怒りを呼び起こし、敵の名を挙げ、歓声を待っただろう。
だが、その日のウォレスは違った。
「それでも、私はこの州を愛しています。昔のように、自分だけがこの州の声を知っているとは言いません。アラバマには、私が聞かなかった声がありました。聞こうとしなかった声がありました。今度は、その声も聞きたい。」
誰かが、小さく息を吸った。
「私は立って、あなたがたの前に戻ることはできません。」
ウォレスは、自分の膝の上に置いた手を見た。
「けれど、聞くために戻ることはできます。間違えたまま終わらないために、もう一度、この州に仕えたい。」
それは、群衆を焼くような言葉ではなかった。
だが、届いた。
昔のウォレスを知る者には、弱く聞こえたかもしれない。彼を赦せない者には、遅すぎる言葉だったかもしれない。
それでも、その言葉は、誰かの怒りを借りたものではなかった。
ウォレス自身の言葉だった。
※※※※※※※※※※
一九八二年十一月 選挙の夜
アラバマは、彼をもう一度選んだ。
それは、過去が消えたという意味ではない。
傷が閉じたという意味でもない。
誰もが彼を赦したという意味でもない。
ただ、アラバマという土地が、長い時間をかけて変わりながら、その車椅子の男の言葉を一度だけ受け取ったということだった。
当選の知らせが届いた夜、ウォレスはマイクの前でしばらく黙っていた。
拍手は、うれしかった。
それは嘘ではない。
彼は政治家だった。民衆に選ばれることの喜びを知らない男ではない。自分の言葉が届き、自分の人生がまだ必要とされていると感じることは、老いた身体にも確かに熱を戻した。
だが、その同じ拍手が、少し怖くもあった。
教会で口にした言葉を、彼は思い出していた。
私は間違っていました。
赦してほしいと願います。
あの時の言葉は、拍手を求めるものではなかった。勝つための言葉でも、誰かの怒りを返す言葉でもない。赦される保証もない場所で、自分の内側からやっと出てきた言葉だった。
だから、本当の言葉だった。
しかし、この会場では違う。
ここで何かを言えば、それはすぐに拍手に包まれる。悔い改めも、勝利も、赦しも、アラバマの新しい物語に変えられていく。彼がどれほど慎重に話しても、人々はそこに自分たちの見たいウォレスを見るだろう。
南部の怒りとして。
連邦に屈しない身体として。
銃弾に倒れた犠牲者として。
悔い改めた老人として。
そして今は、変わったアラバマの証として。
そのどれもが、少しずつ本当だった。
けれど、どれもウォレスそのものではなかった。
彼は長いあいだ、民衆の声を聞き、それを強い言葉にして返してきた。自分が民衆を動かしていると思ったこともある。だが今は、分かっていた。
人々もまた、彼を動かしていた。
拍手があるかぎり、誰かがその拍手に応える。民主主義が続くかぎり、民衆を扇動しているようで、いつのまにか民衆の物語に操られる者はまた現れるのだろう。
ウォレスは、マイクへ顔を近づけた。
もう一度、会場を熱くすることはできた。自分の人生を、美しい赦しの物語として語ることもできた。人々が聞きたがる言葉も、分からないわけではなかった。
だが、彼はそれを言わなかった。
あの教会でようやく出てきた本当の言葉を、この拍手の中で別のものに変えたくなかった。
だから、短く言った。
「ありがとう。今度は、私が聞く番です。」
その声は大きくなかった。
それでも、会場の奥まで届いた。
拍手は、まだ続いていた。
ウォレスはそれ以上、言葉を重ねなかった。
拍手は、まだ続いていた。
ウォレスはそれ以上、言葉を重ねなかった。
ただ、聞いていた。
その音の奥で、拍手を送る民衆の中から死神が静かに歩いてきて自分を揺り動かそうとする幻想を感じた気がした。
ウォレスは、死神と目があわないように天井を少し見つめていた。
アメリカ編はこの話で最後です。
キューバ編に戻るブリッジを今執筆中です。
ウォレスは1980年代再びアラバマ州知事になります。
彼の言動や信仰は変わります。有名な車椅子のエピソードも、彼が本当に社会的弱者になり変わったかのか、別のやり方で支持を集めるための創作なのかはわかりません。
しかし、民主主義は人種隔離を訴えたウォレスを再び州知事にしたのは紛れもない事実です。
アメリカ編では意外に知ることが少ない、アメリカの自由と帝国主義の側面を描いてきました。
それをわかった上でもアメリカが好きな国であったり魅力ありますよね。
そして、歴史は何度もトレースされています。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は、木曜日夜投稿予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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