13,(幕間)葉巻と野営(3/25大幅改稿)
【3/25大幅改稿】
野営は、有名なカストロの禁煙宣言からの回想で始まります。
虫除けに葉巻をしていたとか、特産品のイメージのたなのどカストロと葉巻はセットで語られることおおいですね。
1986年。
机の上の葉巻の箱が、今日はやけに近い。
いつもそこにある。
だが、近く見える日というのがある。
体のどこかが、もうやめろと先に決めている日だ。
医者は淡々と言った。
「フィデル、肺が弱っている。このまま吸えば、あなたの方が先に倒れる。」
先に、という言い方が気に入らなかった。
人は順番で傷つくことがある。
俺は笑いそうになって、咳になった。
咳は止まらない。
止まると胸が痛い。
胸が痛いと、昔が戻る。
「禁煙する。」
自分で言ってみると、思ったより声が軽かった。
軽いのが腹立たしい。
もっと大きな決断みたいに響いてほしいのに、言葉にすると、ただの生活の整理みたいに聞こえる。
医者が少しだけ目を丸くし、ただいたずらげに、
「禁煙宣言をしてみたらどうだ?喫煙なんか百害あって一利なし。首長がみずから、禁煙を宣言する。俺達の仕事も楽になる。」
俺は箱を見た。
指先で、角をなぞる。
煙を吐くたびに、あいつを思い出す。
いつの間にか喫煙は癖じゃなく、会話の残りみたいなものになっていた。
ゲバラだ。
窓の外の静けさが、別の夜の音に変わる。
湿った葉の匂い。
泥の匂い。
弱い火の煙。
若い男たちの、眠れない気配。
ジャングルの野営だ。
※※※※※※※※※※
野営地の火は小さかった。
小さくないと見つかる。だが小さいと寒い。
寒いと眠れない。眠れないと、腹の奥にある考えごとが勝手に大きくなる。
十二人は木の影に沈んでいた。
壊れかけてはいたが、まだ壊れきってはいない。
そういう夜だった。
ラウルは膝を抱えて座っていた。
抱き方で分かる。痛みをごまかしているのだ。
見せた瞬間に負けると思い込むところが、弟にはあった。
「……大丈夫だ。」
誰も聞いていないのに、先にそう言う。
そういう言い方は危ない。大丈夫じゃないやつの言い方だ。
フィデルは返事をせず、薪を一本足した。
返事をすると、兄になる。
今夜は兄でいるより、指揮官でいたかった。
少し離れた木の下で、ゲバラが背中を預けていた。
吸い口を握っている。
出せば楽になるのに、出さない。
弱さを見せない。弱さを見せないまま、弱い。
その危うさが、フィデルには妙に気に入っていた。
当時の彼らはまだ知らなかった。
その危うい火が、こんなにも早く燃え尽きることを。
だからこそ、この夜のくだらないやりとりは、ただのくだらなさのまま笑えた。
「吸うのか。」
ゲバラが言った。
フィデルは葉巻を一本出した。
上等なやつではない。
匂いが強いだけの、雑なやつだ。
「虫が来る。蚊ってのは、兵隊よりしつこい。」
ラウルが小さく笑って、すぐ顔をしかめた。
膝が痛んだのだろう。
だが、笑えたならまだ折れていない。
ゲバラは吸い口に指を添えたまま、フィデルを見た。
目だけが冷えている。
冷えているのに、人を突き放さない。
そこが面倒で、そこがいい。
「喘息だろ。」
フィデルが言うと、ゲバラは短く返した。
「知ってる。」
知っているだけで終わらせるのが、この男だ。
フィデルは葉巻を一本、そっちへ差し出した。
押しつけない。引っ込めない。
触れるか触れないかの距離に置く。
ゲバラはすぐ取らない。
取らないで、フィデルの指を見た。
医者の視線ではない。人間を見る視線だった。
「……虫にはこれが一番だ。」
軽く言って、ゲバラは葉巻を取った。
火を貸す。
火が移る。
ゲバラが一口だけ吸って、すぐ咳を飲み込む。
出さない。出せない。出さない。
その煙が、焚き火の煙と混ざる。
薬の煙ではない。
慰めの煙でもない。
野営の煙だ。
まだ死んでいない人間の煙だった。
「どうだ。」
フィデルが聞く。
ゲバラは煙を細く吐いてから言った。
「まずい。」
「だろうな。」
「だが、虫には効く。」
ラウルが吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
「なんだよ、それ。医者の感想か。」
「患者の感想だ。」
「お前、患者なのかよ。」
「たまにそうなる。」
「たまにじゃないだろ。見てて危なっかしい。」
フィデルが言うと、ゲバラの口元が少しだけ動いた。
笑った、というほどではない。だが、たしかに火の向こうで表情がゆるんだ。
「それでも、お前は俺を連れてきた。」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
前の夜の続きだった。
フィデルは葉巻を指で転がしながら答えた。
「そうだ。薬箱より先に銃を掴む医者なんて、そういない。」
ラウルが呆れたように言う。
「やっぱりだめだー……。」
ゲバラが肩をすくめた。
「暗闇で全部は持てない。どちらか選ぶなら、そっちだっただけだ。」
「それを普通に言うなよ。医者として終わってる。」
そこでフィデルは、ほんの少しだけ笑った。
この夜に笑うなら、こういう時しかないと思った。
「いや。むしろ、それでよかった。」
ゲバラは返事をしなかった。
ただ、火の先だけを見た。
その沈黙には、前の夜までとは違う柔らかさがあった。
ただの戦友ではない。
それでも恋人ではない。
だが、そのどちらよりも深く死を共有できる相手というものがある。
あの夜、ふたりのあいだに生まれたのは、たぶんそういう種類の親密さだった。
ラウルがそれに気づいたかどうかは分からない。
だが弟は弟なりに、空気の変化だけは感じたらしい。
「なんか気持ち悪いな。兄貴らしくない。」
「うるさい。」
フィデルが言うと、ゲバラが今度ははっきり笑った。
小さい笑いだった。だが、確かに笑った。
火のそばでは、煙が虫を遠ざけていた。
ほんの少しだけ。
山の夜を相手に、たかが煙草一本で勝てるわけがない。
それでも、そういう小さな工夫を笑いながら試せるあいだは、人間はまだ壊れきっていない。
次の夜もあると思っていた。
次の会話もあると思っていた。
そう思っている時のくだらない会話ほど、あとで胸に残る。
ラウルが膝を押さえたまま、低く言った。
「明日、村へ入るのか。」
「入る。」
フィデルは言った。
「撃たれたら。」
「撃たれないように入る。そのために、今夜ここで止まってる。」
ゲバラが短く言う。
「まず見る。それから入る。」
「村も、こっちを見る。」
ラウルが言った。
「そうだ。だから、見られ方を間違えるな。」
その会話が終わると、また沈黙が戻った。
だが最初の沈黙とは違う。
さっきまでの沈黙は絶望の沈黙だった。
いまの沈黙は、順番を待つ沈黙だった。
葉巻の先が小さく赤い。
焚き火も小さい。
小さい火が二つあるだけで、人間は少しだけ壊れずに済む。
ゲバラはそのうち葉巻を返した。
短くなっていた。
短くなっても、まだ吸える長さだ。
フィデルはそれを受け取り、もう一度だけ吸った。
まずい。たしかにまずい。
だが、あの夜のまずさは、あとになって別の味になる。
その時はまだ、誰も知らない。
このどうでもいいやりとりが、のちに胸を刺す記憶になることを。
終わりを知ってしまった後では、くだらない会話ほど残酷に愛おしくなることを。
※※※※※※※※※※
1986年。
俺は箱から手を離した。
「禁煙する。おまえのいう、禁煙宣言にも乗ろうじゃないか?明日の新聞は、葉巻のカストロ葉巻を止める――。実にくだらない紙面だ。」
そう決めた時、手放すのは葉巻だけじゃないのだと分かった。
最後に残っていた、あいつとのくだらない会話の残り香まで手放すのだと。
だが、やめるしかない。
生き残った側には、生き残った側の順番がある。
それでも、あの夜の煙だけは消えない。
村の匂いが風に乗ってきて、
十二人が木々の影に沈み、
まだ若いゲバラが葉巻を一口だけ吸って、
「まずい。」と言いながら火を返してきた。
あの、どうでもいいやりとり。
あまりにもくだらなくて、
だからこそ失いたくなかったやりとり。
終わりが見えてしまった今では、
あれがほとんど愛そのものに思える。
そして夜は、あの時と同じように少しずつ深くなる。
【3/25大幅改稿】
初めての街に到着します。
ゲリラ時代の記録はあまり残っていませんが、どんな戦術で革命を成し遂げたかったをできるだけ忠実に描きます。でも、こういうパートは自由な登場人物も手的ますのでご留意ください。




