12,南の行進【3/25大幅改稿】
【3/25日内容を大幅改稿しました!】
無謀な作戦の背後に勝てるという確信がフィデルにはありました。
この章では主人公のフィデル・カストロをフィデル。弟をラウルと表記してますのでご注意ください。
朝になっても、山は明るくならなかった。
ただ、黒が緑に変わるだけだった。
夜は闇で足を奪った。
朝は色で目を奪う。
濡れた葉、ぬかるんだ土、靴を取る根、どこまでも似たような斜面。
昨夜は何も見えないことが恐ろしかったが、朝になると逆に、見えるものが多すぎて歩きにくい。
ジャングルは、歩く人間から少しずつ体力を削るためにあるみたいだった。
ラウルは膝を引きずっていた。
昨夜よりはましだ。だが、ましというだけだ。
前をゲバラが歩く。
少しだけ前だ。
横につかない。振り返らない。
振り返れば、ラウルが患者になるからだ、とラウルは思った。
「膝、固めるな。腫れる。」
ゲバラが言った。
「痛いんだ。」
ラウルが言う。
「知ってる。でも、歩けなくなる方が困る。」
ラウルは舌打ちしかけて、やめた。
腹は立つ。だが、この男の言うことはあとで当たる。
それがまた腹立たしい。
後ろからフィデルが来る。
先頭でも最後尾でもない。
全体が見える位置を歩いている。
ラウルには、それがもう兄の歩き方には見えなかった。
※※※※※※※※※※
山は、逃げ場である前に、選別の場所だった。
歩ける者と歩けない者。
黙って進める者と、恐怖を声にしてしまう者。
飢えに耐える者と、飢えで苛立ちを撒き散らす者。
十二人という数字は少なすぎた。
だが、山に消えるには、まだ多かった。
荷を分けられる。
見張りを交代できる。
怪我人を引きずれる。
命令が届く。
そして何より、村に着いた時、まだ“隊”の形をしていられる。
正面から軍に勝つ数ではない。
だが、山で消えずに次の日を迎えるには、まだ十分な数だった。
キューバ革命の初期に、山岳農村が意味を持つのはそのためだった。
政府軍は道路と町と兵営の論理で動く。
だが、山の中では道より先に人間があり、命令より先に土地の記憶がある。
どの斜面が滑るか。
どこに水が溜まるか。
どの家が口を閉ざし、どの家が兵隊を通報するか。
そういうものは地図には載らない。
ゲリラにとって村は、食料庫である前に、耳であり、目であり、病院であり、そして恐怖の源でもあった。
※※※※※※※※※※
しばらく歩いて、フィデルが手を上げた。
「止まれ。」
十二人が散ったまま止まる。
ばらばらでも、まだ止まれる。
それだけで壊走ではないと分かる。
フィデルは木々の切れ目を見た。
風と傾斜を読み、南を確かめる。
「このまま南へ行く。」
ラウルは木に手をついた。
膝が熱い。腹も減っている。喉も乾いている。
それでも、聞きたいことが先に出た。
「どこまでだ。都市じゃだめなのか。町なら食い物も水もあるだろ。」
フィデルは弟を見た。
説明の目だった。
「都市は向こうの国だ。
警察、兵隊、名簿、密告。今の俺たちが行けば、入口で終わる。」
ラウルは黙った。
そこを誤魔化さないのは、少しだけ救いだった。
「じゃあ、なぜ農村なんだ。」
フィデルは少しだけ前を見たまま言う。
「バチスタの国家は、民衆のための国家じゃない。
体制を守るための国家だ。」
山の斜面を風が抜けた。
その音に重ねるように、フィデルの声が続く。
「だから都市の警察や軍には金が回る。だが奥地の農村には、道も、学校も、医者も、ろくに来ない。来るのは徴発と命令だけだ。
そういう場所では、生きるのに必要な人間が強い。」
ラウルは眉をひそめる。
「必要な人間。」
「そうだ。
力で押さえる側じゃない。必要に応える側だ。
道を作る。井戸を掘る。病人を診る。読み書きを教える。壊れた暮らしを少しでも立て直す。そういう側が、ただ銃を持ってるだけの連中より強い。
革命ってのは、奪うだけの連中が上に座ることじゃない。要求によって統治することだ。民衆が必要とするものを持ち込める側が、最後に残る。」
そこでゲバラが短く言った。
「医者がいる。
熱を下げられる。怪我を診られる。子どもを死なせずに済むかもしれない。」
短い。
だが、それで十分だった。
ラウルはそこでようやく分かった。
フィデルはゲバラを便利な医者として見ていたんじゃない。
農村へ入る最初の資格として見ていたのだ。
フィデルはゲバラを見た。
その視線には、昨夜の答え合わせがあった。
海岸で、ゲバラは医療品ではなく武器を残した。
医者として見れば間違っている。
だが、フィデルはそこでこの男を見切っていた。
ただの医者ではない。
ただの兵士でもない。
治し、歩かせ、必要なら撃つ。
しかも、その全部を考えて選べる男だ。
「だから、お前がいる。」
ゲバラは少しだけ目を細めた。
その一言は昨夜の続きだった。
“お前でよかった。”の、もっと深い意味の続きだと分かった。
ここで初めて、ゲバラの中で何かが静かにずれた。
ここへ来るまで、カストロもまた自分と同じ種類の男だと思っていた。
大きな言葉を抱き、どこかで死に場所を探している革命家。
自分と同じように、勝算なんてどうでもいいとどこかで思っている男。
だが違った。
この男は、民衆の中へ入る順番を知っている。
死ぬ場所ではなく、勝つ場所を見ている。
そのことが分かった瞬間、ゲバラの中に初めて別の熱が生まれた。
勝算に興味が湧いたのではない。
その先に、この男が何を見ているのかを知りたくなったのだ。
「……それで、お前はどこまで行く。バチスタを倒して終わりじゃないんだろ。」
問いは短かった。
だが、重かった。
ラウルも顔を上げた。
風が一度止まったように感じられた。
フィデルはすぐには答えなかった。
それから言った。
「バチスタを倒して終わりじゃない。
あいつは奴隷の王様だ。椅子に座った番人にすぎない。」
ラウルは黙って聞く。
こういう時の兄は長い。だが長いから、少し安心できる。
「鎖の先がある。
会社。諜報。ワシントン。
そして、その机の向こうにダレスがいる。」
その名だけで、空気が少し硬くなった。
フィデルは続ける。
「CIA長官アレン・ダレス。
姿を見せなくても国を動かせると思っている男だ。
自分では畑を耕さず、人を並べ替え、線を引き、必要なら国ひとつ番人に預ける。
CIAは、そのための手だ。
見えないまま支配を動かす。転ばせたい国を転ばせ、立たせたい番人を立たせる。
バチスタはその椅子に座ってるだけだ。」
ゲバラは黙った。
だが、その沈黙は拒絶ではなかった。
むしろ、答えを測っている沈黙だった。
フィデルはさらに言う。
「だから俺たちの敵は、バチスタひとりじゃない。
鎖だ。
キューバを、誰かの秩序に繋いだままにしている鎖そのものだ。」
ゲバラが短く言った。
「鎖を切る。」
「そうだ。
だから最初の一歩は、バチスタを撃つことじゃない。民衆と一体になることだ。
農村に入り、生きるのに必要な側へ回る。そこから増える。
民衆の必要に応えられない革命は、ただの武装集団だ。俺はそんなものを作りたいんじゃない。」
その答えで、ゲバラの中の何かが決まった。
この男は夢想家ではない。
叫ぶだけの革命家でもない。
どう勝つかを知っている。
何を最初の一歩にすべきかを知っている。
敵の顔と、その向こうの机の冷たさまで見ている。
こいつなら、命を賭けられる。
そう決めたことを、ゲバラは口にはしなかった。
だが、その沈黙の質だけが変わった。
フィデルもまた、それを感じていた。
自分が選んだ医者は、医者としてだけここにいるのではない。
考える男として、戦う男として、もう隣に立っている。
※※※※※※※※※※
十二人はまた歩き出した。
景色が少しずつ変わる。
斜面がゆるみ、下草の間に人の手の入った空白が見えた。
切り株。踏みならされた土。
水の跡ではなく、人の往復の跡。
そして匂いが変わった。
焼けた油。
古い汗。
家畜。
腹の空いた人間の匂い。
ラウルが顔を上げる。
「村か。」
「近い。」
フィデルが言った。
ゲバラはしゃがみ込み、地面を見た。
裸足の小さな跡がある。
子どもの足跡だった。
「新しい。」
フィデルは手を上げて、全員を止めた。
「ここから先は急ぐな。そのまま入るな。」
ラウルが聞く。
「何でだ。近いんだろ。」
「近いからだ。
近い時ほど、相手に考える時間をやるな。だが、怯えさせるな。村へ入る前に、まずこっちを整える。」
ラウルは黙った。
つまり、ここで一度止まるということだ。
ゲバラが村の方を見たまま言う。
「野営にする。」
フィデルが頷いた。
「そうだ。ここで夜を待つ。村へ入るのは明日だ。」
ラウルは木の根に背を預けた。
膝は痛い。腹も減っている。
だが、昨夜の海よりはましだと思えた。
村の匂いが風に乗ってくる。
生きている人間の匂いだった。
十二人は声を潜め、木々の影へ沈んだ。
夜が来る。
次の話は、そこから始まる。
次回、すこし時間を巻き戻し1986年愛煙家カストロの、場面から始まります。
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