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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
引き裂かれる星条旗【後編】~肌とベトナム~
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135/214

134,1968年のクリスマス

1968年。

大統領選挙もあり、また冷戦のレジュームが変化していく象徴的な年。


メアリーは連邦を去ります。

一九六八年のクリスマス、メアリーはバージニアの実家に帰っていた。


休暇ではなかった。


もう連邦の仕事は辞めていた。ワシントンを離れたわけではない。いずれ新聞社の記者として、またあの街の議会や官庁の廊下を歩くことになるかもしれない。大統領の会見を聞き、国防総省や国務省の言葉を追い、連邦の建物の前で誰かの答えを待つ日も来るだろう。


けれど、国家の言葉を選ぶ側には、もう戻らない。


そのことだけは、はっきりしていた。


家には、毎年と同じクリスマスがあった。


母は台所で料理を温め、父は暖炉のそばの椅子に座っていた。父のそばには杖があり、膝には毛布がかかっている。義足の先は、椅子の前でまっすぐそろえられていた。壁には昔から変わらない家族写真があり、棚には聖書が置かれている。


二年前に帰ってきた時と、家の形はほとんど変わっていなかった。


けれど、メアリーは同じ気持ちでは座っていなかった。


あの時の自分は、ワシントンへ戻る娘だった。父の愛国心も、広場で見た怒りも、この家の祈りも、すべてを持ってまた連邦の中へ戻っていった。


今は違う。


戻るためではなく、去ったあとで帰ってきている。


母はそのことに気づいていた。けれど、何も聞かなかった。料理の皿を出し、ナプキンを整え、台所から居間へ顔を出すたびに、いつものクリスマスを壊さないようにしていた。


父も聞かなかった。


ただ、メアリーを見る目が、二年前とは少し違っていた。


驚いてはいない。


たぶん、いつかこういう日が来ると分かっていたのだ。


※※※※※※※※※※


ロバート・マクナマラが国防総省を去った時から、メアリーの中では、すでに何かが決まり始めていた。


あの人は、数字で戦争を見ようとした。


敵の損耗。

爆撃の効果。

補給。

兵力。

国内世論。

財政。

ドルの信用。


数字は冷たいものだった。だが、冷たさそのものが悪だったわけではない。数字がなければ、国家は自分のしていることを測れない。数字を捨てれば、戦争はもっと無責任になる。


メアリーはそれを知っていた。


だからこそ、自分も事実を見抜くことを大切にしてきた。


会議室で、誰がどの言葉を避けたのか。

報告書から、どの数字が落とされたのか。

大統領の怒りが、どこまで怒りで、どこから恐怖だったのか。

長官の沈黙が、服従ではなく限界だったこと。


そういうものなら、見抜けると思っていた。


事実を分析し、隠された構図を読み取り、そこから最適な答えを探す。それが正義に近づく方法だと、メアリーは長いあいだ信じていた。


だが、一九六八年の春以降、その信じ方が少しずつ変わっていった。


四月、キング牧師が撃たれた。


事実としては、一人の牧師がメンフィスのモーテルで暗殺された事件だった。だが、その事実を受け取った人々の物語は一つではなかった。


ある人には、祈りと非暴力が撃たれた日だった。

ある人には、ようやく法が届き始めた国で、なお黒人の命が守られないことを知らされた日だった。

ある人には、都市が燃え、秩序が壊れ、自分たちの暮らしが脅かされる日だった。


同じ銃声だった。


けれど、その銃声が人々の中で作った物語は違っていた。


六月、ロバート・ケネディも撃たれた。


彼は聖人ではなかった。兄の政権の影があり、キューバをめぐる工作の記憶もあった。冷戦の強硬な言葉とも無関係ではなかった。


それでも彼は、遅れて痛みのそばへ近づこうとしていた。


黒人、貧しい白人、移民、反戦の若者、戦争に疲れた家族。連邦の書類では別々に分類される人々を、彼は一つの国の傷として見ようとしていた。


その男が、カリフォルニア予備選の勝利演説のあと、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルの厨房通路で撃たれた。


撃ったのは、パレスチナに生まれた青年だった。


彼にとって、ロバート・ケネディは単なるアメリカの上院議員ではなかった。イスラエルへの支援を語るケネディの姿に、自分たちの土地を失った者の怒りと、遠い戦争の記憶を重ねていた。


もちろん、それは殺人を正当化する理由にはならない。


だが、メアリーはそこでまた見せつけられた。


アメリカの選挙の通路に、別の土地の喪失が入り込んでくる。ある人にとっての希望の候補が、別の人にとっては、自分の傷を踏みつける大国の顔に見える。


事実は一つだった。


けれど、その事実の中で衝突していた物語は、一つではなかった。


秋になると、ジョージ・ウォレスの声が大きくなった。


メアリーは彼の言葉を危険だと思っていた。乱暴で、狭く、怒りを敵の名前へ変える言葉だった。


だが、それを支持した人々が全員、ただの悪人だったわけではない。


置き去りにされたと感じた白人労働者がいた。連邦政府に生活を踏み荒らされると感じた家庭があった。都市暴動に怯える人々がいた。南部の誇りが、北部の新聞や大学に笑われていると感じる者たちがいた。


ウォレスは、その怒りに名前を与えた。


怒りは、名前を与えられると票になる。


十一月、ニクソンが勝った。


法と秩序。

名誉ある平和。


それらは政策の言葉である前に、疲れた国民がすがれる物語だった。


ジョンソンの偉大な社会は、ベトナムの泥の中で声を弱めていた。ロバート・ケネディのやり直しの物語は、銃声で止まった。ウォレスの怒りは勝たなかったが、消えもしなかった。


その隙間に、ニクソンの言葉が入った。


この国をもう一度落ち着かせる。

戦争を、名誉を失わずに終わらせる。

街に秩序を戻す。


メアリーは、その結果を連邦の中で見ていた。


選挙結果を分析することはできた。州ごとの票も、南部の動きも、白人労働者の反応も、都市部の不安も、数字にできた。だが、数字にした瞬間に、そこから落ちるものがあることも、もう分かっていた。


人は、事実だけで動いているのではない。


事実を、自分の背景で受け取る。

背景が、意味を変える。

意味が、物語になる。

そして人は、その物語の中で投票し、祈り、怒り、戦場へ向かい、誰かを撃つ。


メアリーは、連邦の中でそれを見てきた。


けれど、連邦の中では最後に分類されてしまう。


世論。

治安。

人種問題。

反戦運動。

南部票。

白人労働者。

福音派。

外交。

軍事。


分類は必要だった。


だが、分類だけでは届かない場所があった。


メアリーはそこへ行きたいと思った。


事実を捨てたいのではない。むしろ、事実は前よりも大切になった。けれど、事実が人の中でどんな物語になり、その物語がどう現実を作っていくのかを見なければ、歴史が動く瞬間は分からない。


選挙のあと、メアリーは退職の意思を伝えた。


引き止める者もいた。惜しむ者もいた。黙って書類だけを処理した者もいた。


机の引き出しを空にした時、思ったよりも軽かった。


国防総省の廊下を出る時、メアリーは一度だけ振り返った。


あの中で、自分は多くの事実を見た。


だが、これから見たいものは、その外にある。


そう思った。


※※※※※※※※※※


クリスマスの夕方、バージニアの家には料理の匂いが満ちていた。


母はローストの焼き加減を見て、皿を温め、台所と食堂を何度も行き来している。父は暖炉の前で聖書を閉じ、眼鏡を外したところだった。


外は冷えていた。窓の向こうに見える庭は、薄い霜をまとっている。遠くの教会の尖塔が、暮れかけた空の下に静かに立っていた。


メアリーは、父の向かいの椅子に座っていた。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


沈黙は気まずいものではなかった。二年前の帰省で、父とは一度、長い話をしている。硫黄島のこと、信仰のこと、広場での怒りのこと。あれ以来、沈黙は以前ほど怖くなくなっていた。


それでも今夜の沈黙は、少し違った。


父は、先に口を開いた。


「辞めてきたんだな。」


短い言葉だった。


けれど、確認だけではなかった。


メアリーはうなずいた。


「うん。辞めてきたわ。」


「連邦の仕事をか。」


「そう。もう、あの中で国家の言葉を選ぶ側にはいない。」


父はその言葉をすぐには受け取らなかった。暖炉の火を見てから、ゆっくりメアリーへ目を戻した。


「前に帰ってきた時、お前はワシントンへ戻ると言った。危なっかしいとは思ったが、まだ分かりやすかった。国の中にいる娘を送り出すのだと思えば、私もどうにか祈ることができた。だが、今のお前は、戻ってきたというより、別の場所へ行く前にこの家へ寄った顔をしている。」


メアリーは、すぐには答えられなかった。


父は当てていた。


「いつか、こういう日が来るとは思っていた。」


父は続けた。


「あの教会の帰りに、お前がワシントンへ戻ると言った時からだ。父親というのは、娘の言葉を全部理解できるわけじゃない。だが、顔つきが変わったことくらいは分かる。あの日のお前は、もう家の中だけで生きる顔ではなかった。」


「お父さん。」


「責めているんじゃない。ただ、分かっていたというだけだ。」


その声に、怒りはなかった。


寂しさがあった。


メアリーは、膝の上で手を重ねた。


「前は、事実を見抜くことが大事だと思っていたの。報告書の言葉が何を隠しているのか、数字の裏で何が落ちているのか、政治家の怒りがどこから恐怖に変わるのか。そういうことを見抜ければ、世界に近づけると思っていた。」


父は黙って聞いていた。


「でも、今年の春から、少し違うと思うようになった。キング牧師が撃たれたことも、ロバート・ケネディが撃たれたことも、ウォレスが南部を取ったことも、ニクソンが勝ったことも、事実としては一つよ。でも、その事実を人がどう受け取ったかは一つじゃなかった。」


メアリーは言葉を探しながら続けた。


「ある人には、祈りが撃たれた日だった。ある人には、秩序が壊れた日だった。ある人には、自分たちの怒りが初めて票になった年だった。ある人には、ようやく国が落ち着くかもしれないと思えた選挙だった。」


父は、暖炉の火を見ていた。


「私は、事実を捨てたいわけじゃない。むしろ、事実はもっと大事になると思う。でも、事実だけを見抜いても、人がなぜその道を選ぶのかまでは分からない。その人がどこから来たのか、何を信じてきたのか、何を失うのを恐れているのか。そこを見たいの。」


「新聞記者になる人間が、事実より物語を見たいと言うのは、少し危なっかしいな。」


父の声には、責める響きはなかった。


ただ、戦場を知る人間の警戒があった。


「物語は、人を立たせる。だが、人を間違った場所へも連れていく。硫黄島でそれを見た。国のため、仲間のため、神のため。言葉はどれも立派だった。だが、死ぬ時はみな同じように泥の中だった。」


メアリーはうなずいた。


「分かってる。だから怖いの。物語が人を救うこともあれば、誰かを殺すこともある。だからこそ、それを見たい。誰かがどんな物語に自分を預けているのかを見ないまま、正しいとか間違っているとか言いたくないの。」


父はしばらく何も言わなかった。


暖炉の火が、小さく鳴った。


「お前は、真実だと思ったら無茶をする。」


父はやがて言った。


「昔からそうだ。自分では慎重なつもりでも、納得できないものがあると足を止めない。人の物語に踏み込むと言うが、その物語の中には、傷も怒りも恥もある。踏み込まれたくないものを抱えた人間もいる。お前はそこへ入っていくつもりなんだろう。」


メアリーは、少しだけ目を伏せた。


「そうなると思う。」


「止めても行くだろうな。」


「たぶん。」


父は苦く笑った。


「そこは、昔から変わらんな。」


その言葉で、空気が少しだけ緩んだ。


けれど、父の顔から寂しさは消えなかった。


「私はな、メアリー。お前が連邦を辞めて帰ってきたと聞いた時、少しだけ安心した。」


メアリーは顔を上げた。


父は続けた。


「正直に言えば、これで近くに戻ってくるのではないかと思った。教会へ戻り、母さんを手伝い、いずれ家庭を持つ。そういう道もあるのではないかと、ほんの少し考えた。」


父はそこで、自分を笑うように息を吐いた。


「お前には腹が立つかもしれんが、私は今でもそう願っている。よき妻になり、よき母になり、クリスマスには子供を連れて帰ってくる。そういう娘の姿を、何度も考えた。」


メアリーは何も言わなかった。


父の声は、いつもより少し低かった。


「硫黄島から帰ってきた男には、食卓が続くことが奇跡に見えるんだ。妻がいて、娘がいて、日曜には教会へ行き、クリスマスには同じ家で食事をする。そういう日々があることを、私は平和だと思ってきた。だから、自分の娘にもその中にいてほしいと思ってしまう。」


父はメアリーを見た。


「これは、私の本音だ。」


「怒らないわ。」


メアリーは静かに言った。


「前なら、少し怒ったかもしれない。でも今は分かる。お父さんが私を小さく見ているわけじゃないことくらい、分かってる。」


父は首を振った。


「分かったようなことを言うな。私はそんなに立派な父親じゃない。お前を心配しているし、できれば危ない場所へ行かせたくない。家庭に入ってほしいと思う気持ちも、今でも変わらん。親というのは、自分の願いを子供の幸せと取り違えることがある。私はたぶん、今も少し取り違えている。」


その正直さに、メアリーは胸の奥をつかまれたような気がした。


父は娘を縛ろうとしているのではない。


自分の願いを、願いとして認めようとしているのだ。


「二年前、教会で牧師が読んだ言葉を覚えているか。」


父が言った。


「ヨハネの手紙だ。」


メアリーは、はっとした。


「覚えてるわ。」


「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを追い出す。」


父はゆっくりと言った。


「あの時、牧師は、愛とは安心している人間の余裕ではないと言った。恐れの中で、なお相手を人として扱うことだと。」


メアリーの中に、二年前の礼拝堂の空気がよみがえった。


古い木の長椅子。

色ガラスから落ちる淡い光。

牧師の低い声。

そして教会の外で、父が広場の怒りの前に立った姿。


父は、自分の名誉を守るために叫ばなかった。


ただ、女房と娘に石を向けるなと言った。


あの時、メアリーは父の強さを見た。


「私は、あの言葉をよく覚えている。」


父は続けた。


「あの日、広場で怒っていた連中に対してできたことが、娘にはできないというのでは、信仰にならん。私は今、お前を失うのが怖い。危ない場所へ行くのが怖い。私の知っている幸せから、お前が遠ざかっていくのが怖い。」


父の手が、膝の上でゆっくり組まれた。


「だが、その恐れでお前を扱ってはいけないのだろう。娘としてだけではなく、神の前に立つ一人の人間として扱わなければならんのだろう。」


メアリーは何も言えなかった。


父は、現代の言葉で娘を理解しようとしているのではなかった。


女性の自立や、記者としての使命や、社会の変化を語っているわけではない。父にあるのは、バージニアの価値観であり、海兵隊の誇りであり、家庭への願いであり、プロテスタントの信仰だった。


父は、その枠組みの外へ出られない。


でも、その中で最大限に誠実であろうとしていた。


「願いと祈りは違う。」


父は言った。


「願いは、私の望む形を求めることだ。お前に近くにいてほしい。家庭を持ってほしい。孫の顔を見たい。そういうものは、今でも消えん。」


父はそこで、一度言葉を切った。


「だが、祈りは、それを神に委ねることだ。神がお前に別の道を与えたのなら、私はその道を自分の願いで塞ぐべきではないのだろう。」


「納得してるの。」


メアリーは小さく聞いた。


父は首を振った。


「していない。たぶん、これからも完全にはできん。」


それから、少しだけ笑った。


「だが、認めることと、納得することは違う。親は時々、その違いを覚えなければならんのだろう。」


その言葉は、静かだった。


けれど、メアリーには、それが父の精一杯の別れの言葉に聞こえた。


父は娘を送り出そうとしているのではない。


自分の願いを手放そうとしている。


その苦しさごと、信仰の言葉で受け止めようとしている。


メアリーは、ようやく口を開いた。


「私は、お父さんの願いを軽く見たりしないわ。」


父は黙っていた。


「家庭を作ることも、子供を育てることも、教会へ通うことも、古いだけのものだとは思ってない。二年前に帰ってきた時より、今はもっとそう思う。あの家や食卓が、お父さんにとって何だったのか、少しは分かってるつもり。」


「つもり、か。」


「うん。全部は分からないと思う。でも、軽くは見ていないわ。」


父は、しばらくメアリーを見ていた。


「それならいい。」


その返事は短かった。


けれど、十分だった。


台所から母が顔を出した。


「お料理が冷めますよ。大事なお話なら、食べながらでもできます。」


二年前と同じように、母は生活の言葉で部屋の空気を戻した。


父はゆっくり立ち上がった。


義足の音が、床に乾いて響いた。


「そうだな。祈る前に、これ以上娘を困らせるのはやめておこう。」


「困ってないわ。」


メアリーが言うと、父は少しだけ口元を動かした。


「そういう顔をしていた。」


「お父さんこそ。」


「私はいい。父親だからな。」


その言い方に、メアリーは小さく笑った。


父も少し笑った。


けれど、その笑いの奥にある寂しさを、二人とも隠しきれてはいなかった。


※※※※※※※※※※


食卓には、いつものクリスマスの料理が並んでいた。


母は椅子の位置を直し、父はいつもの席についた。メアリーも昔から変わらない椅子に座った。皿の模様も、銀のスプーンの置き方も、子どもの頃からほとんど同じだった。


だが、同じであることが、前より重く感じられた。


父は食前の祈りを始めた。


食べ物への感謝。

家族が同じ食卓にいることへの感謝。

この国が道を失わないように。

遠い戦場の兵士たちが家へ帰れるように。

そして、メアリーに与えられた道が守られるように。


父は、その言葉を大げさには言わなかった。


いつもの祈りの中に、ほんの少しだけ娘の道を入れた。


それだけだった。


けれど、メアリーには分かった。


その祈りの奥には、口に出されない願いもある。


近くにいてほしい。

危ない場所へ行かないでほしい。

家庭を持ってほしい。

いつか、この家に子供の声が戻ってきてほしい。


父はまだ、そう願っている。


たぶん、これからも願い続ける。


それでも、その願いで娘の道を塞がないために、父は祈っている。


二年前、教会で牧師が語った言葉が、メアリーの中で静かに重なった。


愛とは、安心している人間の余裕ではない。

恐れの中で、なお相手を人として扱うこと。


父は今、それをしている。


群衆に対してではない。


娘に対して。


祈りが終わると、母が料理を取り分けた。


食事は静かに始まった。


母は近所の話をした。教会の牧師が少し腰を痛めたこと、隣家の孫が帰省していること、町の店で今年は砂糖が少し高くなったこと。父は時々短く返事をし、メアリーも笑った。


世界は揺れていた。


キングはもういない。

ロバートもいない。

ウォレスの怒りは残り、ニクソンは勝ち、ベトナムはまだ続いている。


それでも、この家では料理が取り分けられ、皿が回り、祈りのあとに食事が始まる。


メアリーには、それが逃避には見えなかった。


むしろ、この小さな形を守ることもまた、一つの物語なのだと思った。


父はそれを信じてきた。


だから、娘にもそこにいてほしかった。


その願いを知ったまま、メアリーは別の道へ行く。


それは父を捨てることではなかった。


父に祈られたまま、自分の道へ出ていくことだった。


※※※※※※※※※※


食事のあと、メアリーは父と二人で玄関先に立った。


外の空気は冷たかった。庭の木々は葉を落とし、遠くの教会の尖塔は夜の中に白く沈んでいる。家の中では、母が皿を片づける音がしていた。


父は上着を羽織り、杖を片手に持っていた。


「向こうへ行っても、祈ることは忘れるな。」


父が言った。


メアリーは少し笑った。


「考えて、祈って、眠れ。そしたら明日がくる、でしょう。」


父は、少しだけ眉を上げた。


「覚えていたか。」


「忘れられないわ。」


「なら、いい。」


父はそれ以上、何も言わなかった。


けれど、メアリーには分かっていた。


それは忠告ではなかった。


父が、娘の道を自分の手から神の手へ渡すための、短い祈りだった。


「お父さん。」


「何だ。」


「ありがとう。」


父は少しだけ困った顔をした。


「礼を言われるようなことはしていない。」


「してるわ。」


「そうか。」


父はそう言って、夜の庭を見た。


「それなら、受け取っておく。」


メアリーは父の横顔を見た。


硫黄島で片足を失い、義足でこの家の床を歩き続けてきた男。戦場で国家の魔法を知り、帰ってきて家族の食卓を信じ直した男。古い価値観を持ち、なおその価値観の中で娘を一人の人間として認めようとする男。


メアリーは、その父を尊敬していた。


評価する必要はなかった。


ただ、その祈りを受け取ればよかった。


※※※※※※※※※※


一九六八年のクリスマス。


メアリーは、連邦の人間ではなくなっていた。


まだ記者として何かを書いたわけではない。まだ誰かを取材したわけでもない。けれど、その夜、彼女は自分がどこから来たのかをもう一度確かめた。


人は、事実だけで生きているのではない。


自分がどこで育ち、何を信じ、誰に祈られ、何を失うことを恐れているのか。その背景から、物語を作る。


その物語は、人を立たせる。


時には、人を引き返せなくする。


だからこそ、見たいと思った。


誰かを裁くためではない。許すためでもない。人が、なぜその道を選んだのかを見失わないために。


そして、メアリーは、記者になる。

インサイダーであり事実を分析する立場から、人々が抱える物語を追い求める記者になる決意をするメアリー。アメリカ編もあと少しです。


※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。

次回は、土曜日の朝投稿予定です


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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