128,マクナマラのメモ
1967年後半にはベトナムの泥沼は深刻になっていきます。
伝えられるベトナムと真実のベトナムの乖離はますます大きくなっていきます。
十一月一日、長官室の机の上には、ひどく静かな紙が置かれていた。
それは怒りの紙ではなかった。告発の紙でもなかった。まして、反戦運動の演説でもない。そこに並んでいるのは、いつものロバート・マクナマラらしい言葉だった。
爆撃の効果、増兵の限界、南ベトナム政府の持続力、国内世論、徴兵制の負担、同盟国への影響、財政への圧力、交渉の可能性。現行方針を続ける危険と、方針を修正する危険。
どの文も声を荒げていない。だからこそ、私は怖かった。
感情なら、感情として退けられる。怒りなら、怒りとして処理される。だが、この紙はそうではない。熱を取り除いたぶんだけ、逃げ道を一つずつ塞いでいく。
長官は椅子に座ったまま、最後の文面を見直していた。赤鉛筆で一語を消し、別の語へ置き換える。その動作に迷いはない。だが、軽さもなかった。
私は机の向こうに立ち、文書の端を見ていた。
「長官。」
「はい。」
「これを出せば、もう戻れません。」
長官は、すぐには顔を上げなかった。文の終わりに小さな点を打ち、それから静かに言った。
「戻る場所があるなら、もっと早く戻っていました。」
私は何も言えなかった。
その答えは強がりではなかった。諦めでもなかった。ただ、そこまで歩いてきた人間の言葉だった。
長官は紙をそろえた。
「これは勝つための紙ではありません。」
「はい。」
「負けを認めるための紙でもありません。」
「では、何のためですか。」
長官は、そこで初めて私を見た。
「知らなかったことにしないためです。」
その一言で、胸の奥が冷たくなった。
知らなかった。そう言えれば、人は少しだけ救われる。見えなかった。そう言えれば、責任は少しだけ遠くなる。だが、この紙が置かれた瞬間、大統領はもう知らなかったとは言えなくなる。
続けるにしても、変えるにしても、比較した上で選ぶことになる。
それが、この紙の本当の重さだった。
※※※※※※※※※※
文書は、最後まで穏やかだった。
現行方針の継続には利点がある。アメリカがすぐに弱さを見せずに済む。南ベトナム政府を急に見捨てた形にはならない。同盟国への動揺を一時的に抑えられる。軍事的圧力を維持できる。
だが、その利点は代償を伴う。
爆撃は、北ベトナムの政治意思を折る決定打になっていない。増兵は、戦場を短期的に支えるかもしれないが、出口を近づけていない。南ベトナム政府の基盤は薄く、アメリカの兵力と資金で支え続ける限り、それを政治的勝利とは呼べない。国内では支持が摩耗し、徴兵制の傷はさらに深くなる。同盟国は、アメリカの強さだけでなく、持続力を見始めている。そして、戦費はドルと西側信用にも負担をかけ続ける。
一方で、方針修正にも危険がある。
敵は勝利を語る。軍は反発する。共和党は攻撃する。同盟国は不安を抱く。南ベトナム政府は揺れる。
どちらにも傷がある。どちらにも損失がある。
だから長官は、どちらが正義かとは書かなかった。どちらが、これ以上悪い形で壊れない道なのか。その比較だけを書いた。
私はそれが、かえって残酷に思えた。
「長官は、大統領を追い詰めるおつもりですか。」
思わず、そう聞いていた。
長官は少しだけ目を伏せた。
「追い詰めるつもりはありません。」
「でも、この紙は逃げ道を狭めます。」
「ええ。」
彼は否定しなかった。
「それが、必要なのです。」
「大統領も、苦しい立場です。」
「分かっています。」
その返事は早かった。
「大統領は愚かではありません。彼は、政治の穴を嗅ぎ取る人です。この紙が何を意味するか、私以上に早く感じるでしょう。」
「なら、なおさら。」
「だからこそ、です。」
長官は、紙の上に手を置いた。
「感情で訴えれば、感情として退けられます。道徳で訴えれば、理想論として扱われる。ですが、比較として置けば、読まなければならない。」
「読んでも、受け入れるとは限りません。」
「もちろんです。」
「それでも出すのですか。」
長官は小さくうなずいた。
「それでもです。」
以前にも聞いた言葉だった。だが、今は少し違って聞こえた。
あのときは記録のためだった。今は提出のためだった。けれど根は同じだった。
知らなかったことにしない。誤りの形を失わせない。そして、まだ届くかもしれない場所へ、最後の紙を置く。
それが、この人にできる行動だった。
※※※※※※※※※※
ホワイトハウスへ向かう車の中で、長官はほとんど話さなかった。
窓の外では、冬に近づくワシントンの街路樹が葉を落とし始めていた。通りは整っている。建物も、旗も、警備の制服も、いつものように首都の顔を保っている。
だが、鞄の中にある紙だけが、その整った風景の下に沈む重りのように思えた。
紙は軽い。けれど、その紙が大統領の机に置かれた瞬間、何かが少し沈む。
政権の床。戦争の言葉。勝利の物語。そして、長官自身の居場所。
私は、隣に座る長官の横顔を見た。
彼は落ち着いていた。少なくとも、そう見えた。それが、怖かった。
「長官。」
「はい。」
「怖くはないのですか。」
長官は少しだけこちらを見た。
「怖いですよ。」
あまりに静かな返事だった。
「ですが、怖くなくなるのを待っていたら、何もできません。」
私は窓の外へ視線を戻した。
大統領へ出す紙。それは、ただの政策文書のはずだった。だが、私にはもう、そうは見えなかった。
それは、長官が自分の名前と地位と責任を載せた、薄い橋のように見えた。
渡れるかどうかは分からない。向こう岸に届くかどうかも分からない。けれど、置かなければ、誰も渡れない。
※※※※※※※※※※
リンドン・ジョンソン大統領の部屋は、国防総省とは違う熱を持っていた。
国防総省には、数字と地図の乾いた重さがある。ホワイトハウスには、人の顔と票と怒りの湿った重さがあった。
ジョンソンは、最初から機嫌がよくなかった。
彼はマクナマラが持ってきたものを、読む前から知っているようだった。内容を知っているのではない。紙の種類を嗅ぎ取っているのだ。
「また数字か、ボブ。」
大統領はそう言った。
マクナマラは表情を変えなかった。
「数字だけではありません。比較です。」
「同じことだ。」
ジョンソンは椅子に深く座ったまま、紙を受け取った。
「数字はいつも、責任を取らない顔をして部屋に入ってくる。」
長官は答えなかった。
大統領は文書に目を落とした。最初は早く、途中から少し遅くなった。読んでいないわけではない。むしろ、よく読んでいる。だからこそ、部屋の空気が重くなっていった。
「爆撃の抑制。」
ジョンソンがつぶやいた。
「兵力増強の再検討。」
頁をめくる音がした。
「交渉の余地。国内支持の摩耗。同盟への影響。」
彼は顔を上げた。
「つまり、負けを上品な言葉で包めということか。」
「違います。」
マクナマラの声は静かだった。
「負けを認めるための提案ではありません。」
「では何だ。」
「戦争を、こちらがまだ選べる大きさへ戻すための提案です。」
ジョンソンは目を細めた。
「選べる大きさ。」
「はい。」
「それは、手を引くという意味か。」
「制御不能になる前に、方針を変えるという意味です。」
「政治の言葉では何と言うか、分かっているだろう。」
マクナマラは黙っていた。
ジョンソンは紙を机に置いた。
「弱さだ。」
その言葉は短かった。
「共和党はそう言う。軍もそう言う。南部もそう言う。母親たちは、ならば息子は何のために死んだのかと聞く。同盟国は、アメリカは最後まで守らないのかと疑う。」
マクナマラは、静かに答えた。
「弱さではありません。まだ選べるうちに、選ぶということです。」
大統領の眉が動いた。
「兵力をこれ以上増やさず、爆撃を交渉の障害にしない。南ベトナム側へ負担を移し、こちらの損耗を抑え、交渉へ持ち込む。押し流されてからでは、撤退は計画ではなく処理になります。」
「処理。」
「はい。」
マクナマラは続けた。
「敵がいつ、どこで、大きな力を見せてくるかは分かりません。ですが、こちらが勝利に近づいていると語り続けるほど、一度でもその言葉を疑わせる出来事が起きた時の傷は深くなる。軍事的に押し返せても、政治的には説明できなくなる。」
ジョンソンは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は、理解していない沈黙ではなかった。
理解したからこそ生まれる沈黙だった。
「君は俺に、逃げ道を作れと言っているのか。」
「違います。」
「では。」
「崩れる前に、出口を作るべきだと言っています。」
ジョンソンは低く息を吐いた。
「君は簡単に言う。」
「簡単だとは思っていません。」
「思っていないだけでは足りない。」
大統領は指で紙を叩いた。
「君は損失を比較しているつもりだろう。だが、これは俺の足元に穴を開ける紙だ。」
私は息を止めた。
穴。
その言葉が、部屋の中で妙に重く響いた。
マクナマラは、静かに答えた。
「穴があるなら、見ないまま歩く方が危険です。」
ジョンソンの目が鋭くなった。
「大統領の仕事は、穴を見つめて立ち止まることじゃない。」
「存じています。」
「なら、分かるはずだ。」
「だからこそ、申し上げています。」
二人の声は、どちらも大きくなかった。だが、部屋の温度は確実に下がっていた。
※※※※※※※※※※
マクナマラは、さらに説明を続けた。
爆撃を続ければ、圧力は維持できる。しかし、相手の政治意思を折る決定打にはなっていない。増兵すれば、戦場の一部は支えられる。しかし、それは出口を近づけない。南ベトナム政府を支えることは必要だ。しかし、アメリカの兵力と資金がなければ立てない政府を、勝利の根拠にはできない。
一つずつ、淡々と、逃げ道を削るように。
ジョンソンは途中で何度か遮った。
「敵はどう見る。」
「勝利宣言をするでしょう。」
「同盟は。」
「不安を抱きます。」
「軍は。」
「反発します。」
「議会は。」
「攻撃します。」
「では、全部分かっていて、これを出すのか。」
「はい。」
ジョンソンは椅子に背を預けた。
「君は冷たい男だな、ボブ。」
その言葉に、私は思わず長官を見た。
マクナマラは表情を変えなかった。
「冷たくあろうとしているだけです。」
「何のために。」
「熱を持った言葉が、これまで戦争を長引かせてきたからです。」
一瞬、沈黙が落ちた。
大統領の顔に、怒りに近いものが浮かんだ。だが彼は、まだ爆発しなかった。
「君は、自分が正しいと思っている。」
「いいえ。」
マクナマラは即座に否定した。
「私は、自分が間違ってきたことを知っています。」
その言葉は、部屋の空気を変えた。
「だから、これを出しています。」
ジョンソンは、しばらく彼を見ていた。
その目には、苛立ちだけではないものがあった。疲れ、疑い、そして、ほんのわずかな恐れ。
大統領は紙をもう一度手に取った。
「預かっておく。」
言葉だけなら、拒絶ではなかった。だが、受諾でもなかった。
マクナマラは頷いた。
「ありがとうございます。」
「礼を言う話じゃない。」
ジョンソンは低く言った。
「これは簡単な紙じゃない。」
「承知しています。」
「本当に承知しているのか、ボブ。」
その問いに、長官はすぐには答えなかった。
「しているつもりです。」
大統領は鼻で息を吐いた。
「つもり、か。」
それ以上は言わなかった。
※※※※※※※※※※
部屋を出たとき、廊下の空気は妙に乾いていた。
誰も走っていない。誰も叫んでいない。何かが決まったわけでもない。ただ、紙が一枚、大統領の机に残った。それだけだった。
けれど、私は足元の床が少しだけ違って見えた。
マクナマラは、いつも通りの歩幅で進んでいた。敗者の歩き方ではなかった。だが、勝者の歩き方でもない。
私は彼の隣を歩きながら聞いた。
「届いたのでしょうか。」
長官は前を見たまま答えた。
「置いてきました。」
「届いたのではなく。」
「ええ。」
彼は短く言った。
「置いてきました。」
その言い方に、私はこの人の覚悟を見た気がした。
届くかどうかは、もう自分だけでは決められない。受け取るかどうかも、自分では決められない。できるのは、置くことだけだった。
それでも、置いた。
※※※※※※※※※※
国防総省へ戻る車の中で、長官は一度だけ目を閉じた。
疲れているように見えた。だが、後悔しているようには見えなかった。
私は、膝の上で手を握った。
提出してほしいと思っていた。同時に、提出してほしくなかった。届けば何かが変わるかもしれない。だが、届いた瞬間に、この人はもう戻れなくなる。
そして今、戻れない場所まで来てしまった。
それは英雄的な瞬間ではなかった。拍手もない。演説もない。群衆もいない。ただ、紙が一枚、大統領の机に置かれただけだった。
それでも私は、その一枚が長官の差し出したものなのだと分かっていた。
彼は革命家ではない。山へ入ることも、銃を持つこともない。けれど、自分のいる場所で差し出せるものを差し出した。
マクナマラは敗北を提出したのではなかった。
まだ選べるうちに、戦争を選べる大きさへ戻すための計算を、最後に大統領の机へ置いたのだった。
けれど、その紙を大統領は、ただただ見つめていた。ジョンソンはその意味を理解できない訳ではなかった。しかし実行する方法がわからず苛抱いていた。
戦争は始める時より終わらせる時の方が難しいとよく言われますがまさに当時のベトナムがそうでした。ジョンソンは出口が見えないまま苛立ちだけが募っていきます。
※更新は、月・木・土曜日(朝・夜)二回の週4話です。
次回は月曜日、夜更新予定です。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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