9.少女は結婚したい④
無理やり押し込まれた客間のソファに沈められ、蛇に睨まれた蛙状態だ。
「さあ、リリィ。説明してもらおうか」
美形の無表情がこんなに恐ろしいことを初めて知った。
ソファに優雅に体を沈めた彼は、一見穏やかに見えるが、目が笑ってない。
「……昨日、助けていただいた恩人の方と、私結婚したいと思いたちまして」
「君は、僕と君の関係を知っているかな?」
細められた縹色の瞳が、さらに恐怖を煽る。
シルヴィエお兄様は元々頭もキレて、実力も筋金入りだが、典型的な身内に甘く他人に厳しいタイプだ。まさか彼に対してこんな恐怖を抱くとは思っていなかった。
「いとこであり、……婚約者です」
「婚約者がいる身で、他の男と結婚したいと公言するのはいかがなものかな?……結婚というのは家同士の取り決めだろう」
「シルヴィエお兄さまに対して、不誠実だったのはその通りです。……ただ、フォイエルバッハ公爵家とベヒトルスハイム侯爵家はお母さまが輿入れしたことで縁も深いですし、私たちの結婚自体に大きなメリットがないことは分かっております」
そこまで話したところで、お兄様の表情が少しだけ緩んだ気がした。その気配に背中を押されて、恐怖からずっと下げていた視線を上げた。
「でも、私と婚約してくれているのは、フォイエルバッハ公爵とお父さまが、お兄さまたちが単に私のことを守ってくれているということでしょう?」
シルヴィエお兄様は、氷の特級特殊能力を持っており、王立学園では『氷の貴公子』と呼ばれているらしい。その氷と呼ばれるのは、単に能力を指しているのではなく、お兄様が周りに対してとても冷たいことも揶揄している。
だが、公爵家という立場上、信頼の置けない人間に対して、厳しく接するのは、すなわち自分や家族を守ることに繋がる。なにも王派と王弟派の派閥争いが起きているのは王宮内だけではない。私が誘拐されたように、大人の汚い世界では子どもは弱味となる。お兄様が他人に対して厳しいのは、その分家族を愛しているからだ。
伯父様とお兄様は、私の力を隠すために盾のなってくれているのだ。社交界デビュー前の令嬢、いや社交界デビューしてからも婚約者が既にいれば、他の家への露出は極端に減らすことができる。
「そこまで理解しているならあまり口うるさくは言わないが、今すぐに婚約がなくなって損をするのは確実にリリィなんだから、もう少し賢く立ち回りなさい」
お兄様がやっと表情を崩して、呆れたように笑った。それに安心して、私も口から言い訳が溢れる。
「……私だって、家族以外に言うつもりはありませんでしたし、シルヴィエお兄さまには直接お話しするつもりでした。どうせ伝えたのはジルベールお兄さまですよね?」
シルヴィエお兄様に漏らしたのは、ジルベールお兄様に違いない。聞かなくてもわかる。というか、なぜ、本人以外から聴かされたら良くないだろうという話を平然と漏らすんだ。
「ああ、たまたまベヒトルスハイム侯爵に言伝を預かってきてな。叔父様の書斎からでたタイミングでジルに捕まった」
冗談抜きに泣いてたぞアイツ、と笑ったシルヴィエお兄様の言葉に呆れた。ジルベールお兄様のシスコンっぷりを、本気で見誤っていたらしい。
「それは、何というか……どうして、ジルベールお兄さまは、シルヴィエお兄さまと違ってちょっと残念になってしまうのでしょう」
「身内に対して残念なところがジルの良いところだから、そればっかりは仕方ないな。嘘偽りがないことが伝わるから、周りから愛されるんだろう」
ジルの話はさておき、とシルヴィエお兄様はソファから立ち上がると私のそばに歩いてきた。差し出された手は、いつものように私の手を取ると、ソファから立ち上がるのをエスコートしてくれる。
「たとえリリィがどんな道を選んだとしても、リリィのことを、家族として大切に思う気持ちはずっと変わらないよ。危険な目に遭わぬよう僕のことを上手く利用して、好きにやりなさい」
隣から聞こえる声は、優しくいつものお兄様の声だ。
こんなイケメンに、優しくされたら身内じゃなければイチコロなんだろうなぁ。……身内じゃなければ、冷たい『氷の貴公子』なのだから、それはあり得なかったわ。
「……私だって、シルヴィエお兄様が私のことうまく利用してるの知ってるんですからね。私のこと嫉妬深い婚約者って、上手いこと御令嬢からの誘いを断ってらっしゃるんでしょう?」
「ああ、公爵家の家柄に目が眩んだだけの令嬢と関係を持って何になる。婚約者がいるのだから利用しなければ」
シルヴィエお兄様とくだらない言い合いをしながら部屋を出れば、僕も混ぜろとちょっとだけ残念なジルベールお兄様がやってきた。相変わらずのその様子に呆れはしたものの、なんだかんだ私もお兄様たちが大好きなので、近くを通ったメイドに茶菓子を頼んだ。
今日は天気もいいから、2人とテラスでお茶でもしよう。