第60章 血を渡す理由
第5部 灰の向こう
赤い灯が近づいてくる。
まだ遠い。
けれど、止まってはいない。
イロハはクルムの脇腹を見た。
服に染みた血は、さっきより広がっている。
「次は私が決める」
クルムの目が細くなる。
「何を」
イロハは腕を押さえたまま、クルムを見る。
「クルムが生きる方」
「やめろ」
すぐに返ってきた。
「まだ何も言ってない」
「分かる」
「じゃあ話が早い」
「断る」
「何で」
「お前も血を失う」
「少しでしょ」
「量の問題ではない」
「量の問題でもあるでしょ」
クルムが黙る。
イロハは腕の包帯へ手をかけた。
「前にもやった」
「だからだ」
手が止まる。
「何が?」
「一度やったからといって、何度でも差し出していいわけではない」
イロハはクルムを見る。
「じゃあ、クルムは?」
「何だ」
「血が足りなくても、何度でも黙ってていいの?」
「それとは違う」
「同じ」
「違う」
「同じだよ」
赤い灯が、崩れた壁の向こうを横切った。
二人とも声を落とす。
*
『――危険対象――』
遠くから機械の声が聞こえる。
イロハは周囲を見た。
ここに長くはいられない。
でも、このままクルムを走らせる方が危ない。
「どれくらい必要?」
「答えん」
「じゃあ私が決める」
「勝手に決めるな」
「クルムが教えないから」
「イロハ」
「ちょっとだけ」
イロハは自分の腕を差し出した。
「傷が閉じるくらい」
「戻せ」
「嫌」
「命令だ」
「聞かない」
クルムの眉がわずかに動いた。
「お前はいつから、そんなに聞き分けが悪くなった」
「最初からじゃない?」
「……そうだったな」
「でしょ」
イロハは少し笑う。
でも、腕は下ろさなかった。
*
クルムは傷口を押さえた。
血が指の間から滲む。
それを見て、イロハの表情がまた変わる。
「これで平気って言われても信じない」
「死にはせん」
「今じゃなくて」
「何だ」
「このまままた機械に襲われたら?」
クルムは答えない。
「私を守って、また傷つくんでしょ」
「お前が前に出なければな」
「それもやるかもしれない」
「やるな」
「じゃあクルムも無茶しないで」
「無理な話だ」
「ほら」
イロハは腕を少し持ち上げる。
「お互い様」
「理屈になっていない」
「なってる」
少しの沈黙。
クルムの赤い瞳が、イロハの腕へ落ちる。
すぐに逸れた。
その動きを。
イロハは見逃さなかった。
「欲しいんでしょ」
「言い方を考えろ」
「血」
「分かっている」
「なら飲んで」
「嫌だ」
「なんで」
クルムはしばらく答えなかった。
「今のお前から飲めば」
低い声。
「止めるのが遅れるかもしれん」
イロハの表情が止まる。
「そんなに足りないの?」
「だから言わなかった」
*
遠くで。
金属が擦れる音。
機械が探している。
イロハは少し考えた。
怖くないわけではない。
クルムが血を飲むところを。
もう知らないわけでもない。
でも。
今は前とは違う。
「じゃあ」
イロハが言った。
「私が止める」
「何?」
「飲みすぎたら、止める」
「止められると思うのか」
「クルムなら止まる」
「根拠は」
「私が言うから」
クルムが黙った。
「それは根拠にならん」
「でも前も止まった」
「……」
「今も止まる」
イロハは腕を差し出したまま。
「信じてる」
その言葉に。
クルムの顔から一瞬だけ何かが消えた。
怒りでも。
呆れでもない。
もっと古い何か。
でも。
すぐに戻る。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
イロハは静かに答えた。
「怖いし」
クルムを見る。
「でも、いなくなる方が嫌」
*
クルムは何も言わなかった。
赤い灯が。
また少し近づく。
時間がない。
イロハは腕を引かない。
しばらくして。
クルムが手を伸ばした。
イロハの手首を取る。
「少しだけだ」
イロハが息を吐く。
「うん」
「痛ければ言え」
「うん」
「眩暈がしたら、すぐ離す」
「うん」
「無理に立つな」
「クルム」
「何だ」
「分かったから」
「なら黙っていろ」
「はいはい」
クルムが睨む。
「その返事をやめろ」
「今それ?」
*
イロハの腕へ。
クルムの顔が近づく。
少しだけ。
身体が強張る。
クルムの手が止まった。
「やめるか」
イロハは首を振る。
「やめない」
「怖いんだろう」
「怖いよ」
「なら」
「でも決めた」
イロハは。
今度は自分から腕を近づけた。
「飲んで」
クルムの牙が触れる。
短い痛み。
「っ」
イロハの指が。
クルムの服を掴む。
強く。
でも。
引き離さない。
*
最初は。
痛みだけだった。
すぐに。
熱が抜けていくような感覚へ変わる。
イロハは壁へ背をつけた。
クルムの手が。
腕を支えている。
遠く。
機械の音。
近く。
自分の呼吸。
それから。
クルム。
少しずつ。
脇腹の傷から流れる血が減っていく。
皮膚が。
ゆっくりと閉じ始める。
イロハはそれを見る。
「クルム」
反応がない。
「もういい」
まだ。
離れない。
イロハの指に力が入る。
「クルム」
少し強く。
「もういいよ」
その瞬間。
クルムが離れた。
*
イロハは。
一度だけ大きく息を吸った。
「……止まった」
クルムは顔を背ける。
「当然だ」
「ちょっと遅かった」
「二度目で止まった」
「一回目も聞いて」
「聞こえていた」
「じゃあ何で」
「黙れ」
イロハが少し笑う。
「やっぱり余裕なかったんじゃん」
「……」
「当たった?」
「黙れ」
「はいはい」
今度は。
クルムも何も言わなかった。
*
イロハが立とうとする。
身体が。
少しだけ揺れた。
すぐにクルムの手が肩を支える。
「座れ」
「平気」
「座れ」
「さっき私が言ったやつ」
「いいから座れ」
イロハは壁際へ座り直した。
「ちょっとだけ、ふわってした」
「だから言った」
「でも平気」
クルムが。
自分の服の一部を裂く。
「腕を出せ」
「何するの」
「見れば分かる」
噛み跡の上へ布を巻く。
きつすぎないように。
でも。
血が滲まない程度に。
「自分の傷は?」
「もう閉じる」
イロハが見る。
脇腹。
さっきまで開いていた傷が。
ゆっくり塞がっている。
「ほんとだ」
「ああ」
「よかった」
クルムの手が止まる。
イロハは気づかない。
「これなら走れる?」
「ああ」
「本当に?」
「今度は本当だ」
「じゃあ信じる」
*
『――対象――捜索――』
機械の声。
近い。
クルムが立ち上がる。
今度は。
身体が揺れない。
イロハも立つ。
「行けるか」
「うん」
「無理なら言え」
「クルムも」
「私は平気だ」
「そういうの禁止」
「何がだ」
「平気じゃないのに平気って言うの」
「今は平気だ」
「じゃあいい」
イロハは。
一歩進む。
それから。
止まる。
「あと」
「何だ」
「次から言って」
「何を」
「血が足りない時」
クルムの顔が。
わずかに険しくなる。
「必要ない」
「ある」
「またそれか」
「またそれ」
イロハはクルムを見る。
「知らないまま、急に倒れられる方が嫌だから」
「倒れていない」
「今日はね」
「……」
「言って」
クルムは。
答えない。
「クルム」
「しつこい」
「知ってる」
赤い灯が。
壁の向こうを通る。
二人とも。
一度黙る。
それから。
クルムが小さく息を吐いた。
「分かった」
イロハが。
目を丸くする。
「今、分かったって言った?」
「行くぞ」
「言ったよね」
「聞こえたなら聞くな」
「もう一回」
「置いていくぞ」
「それは駄目」
*
外へ出る前。
クルムが。
通路の先を確認する。
イロハは。
その後ろ。
今までと同じ位置。
でも。
少しだけ違う。
クルムの傷が。
閉じたことを知っている。
なぜ弱っていたのかも。
今は。
知っている。
イロハは。
自分の腕を見る。
新しい布。
その下。
小さな傷。
後悔はなかった。
「行けるか」
クルムが振り返る。
「うん」
「なら来い」
クルムが先へ出る。
イロハも続く。
数歩。
進んでから。
クルムの歩みが。
ほんの少しだけ遅くなる。
イロハの足に。
合わせるように。
そのことを。
イロハは何も言わなかった。
ただ。
隣まで追いついて。
そのまま。
二人で歩いた。




