第75話:姑息な手段
周囲の人々が息を呑んだ。誰も動けなかった。
ただ、二人の男が互いを睨み合っている。
一方は、この国の王。
もう一方は、かつて追放された料理人。 だが今、その場の空気を支配していたのは間違いなくレオンだった。
「……貴様。たかが料理人がこの俺に指図するというのか」
「そうだ」
レオンは一歩も引かなかった。
「お前の支配は終わった。俺が終わらせた」
ロイドの目が細くなる。
その奥に渦巻くのは怒りか。屈辱か。それとも恐怖か。群衆が固唾を呑んで見守る中、ロイドの視線がゆっくりと周囲へと流れた。
兵士たち。民衆。廷臣たち。
誰もが、疑いの目でロイドを見ていた。
かつてそこにあった絶対的な畏怖は、もはやどこにもなかった。
(ここにいるのはまずい!)
ロイドの脳裏で、何かが弾けた。
次の瞬間——
「フローラ!」
ロイドは振り返り、虚ろな目で立ち尽くすフローラの手を強引に掴んだ。
「な……!」
レオンが動くより早くロイドは走り出していた。
フローラは抵抗することもなく、人形のように引きずられていく。
その瞳は依然として空虚なまま、ただロイドに従うしかない。
「逃がすか……!」
レオンは即座に追いかけた。
群衆が咄嗟に道を開く。ロイドは城の奥へと続く廊下へ脇目も振らず駆け込んでいった。ロイドの足音が、石畳に反響して響いてくる。レオンとの距離が、じりじりと縮まっていく。 それを感じ取ったのかロイドは走りながら胸元へと手を伸ばした。
取り出したのは、小さな魔道具だった。
ロイドは振り返りざま、それを背後の地面へと叩きつけた。
刹那——
轟音が、廊下全体を揺るがした。
眩い白光が視界を塗り潰し、すべてが白に染まり爆音が鼓膜を震わせる。
「……っ!」
レオンは思わず腕で目を覆い、足を止めた。
ただの目くらましだと頭では分かっていた。だが身体が反射的に反応してしまった。
一瞬。ほんの一瞬の停止。
それで十分だった。光が薄れ視界が戻った時、廊下の先にロイドの姿はなかった。フローラもいない。
「……くそ!」
レオンは舌打ちすると、再び走り出した。
足音の残響を追って角を曲がり、やがて大きな扉の前で足を止める。
重厚な両開きの扉。
金細工が施された取っ手が、薄暗い廊下の中で鈍く光っていた。
この先にあるのは、王座の間だ。
扉の隙間から、かすかに人の気配がした。
レオンは扉に手をかけ勢いよく押し開ると重い扉が軋みながら左右に開く。
広大な空間が目の前に広がった。高い天井。左右に並ぶ石柱。赤い絨毯が奥へと一直線に伸びている。その先に玉座があった。
そして玉座の横にフローラが立っていた。
周囲を見渡す。ロイドの姿はどこにもない。
(フローラを置いて逃げたのか?)
レオンは眉をひそめた。
だがすぐに、その考えを打ち消す。
(いや、あの姑息な男がそんな簡単にあきらめるか)
どこかに隠れてこちらを狙っている。
罠の可能性がある。レオンは周囲から目を離さず一歩ずつ慎重に歩みを進めた。
視線を走らせながら、フローラとの距離を縮めていく。
フローラはこちらに背を向けたまま、ただそこに立っていた。
微動だにしない。まるで石像のように。
「フローラ」
レオンは低く、静かに呼びかけた。
返事はない。
レオンはさらに一歩、また一歩と近づく。
背後への警戒を緩めないまま、ゆっくりと手を伸ばした。
その時、フローラの肩がわずかに動いた。
ゆっくりと、彼女が振り返るとレオンは思わず息を呑んだ。
フローラの瞳が、こちらをまっすぐに見ていた。
あの虚ろな目ではない。焦点が合っている。
「……レオン」
か細い声だった。だが確かに、彼女は自分の意志で口を開いた。
「俺のことが、わかるのか?」
レオンの声が、わずかに震えた。
フローラは小さく頷いた。
(料理の効果が効いたのか?)
先ほどの料理での一口が、ロイドのスキルをこじ開けたのかもしれない。
だが、想定より早かった。長期間にわたってロイドのスキルを受け続けてきたフローラの解除には、もっと時間がかかると踏んでいた。
レオンは周囲から目を離さないまま、静かに口を開いた。
「フローラ、君はずっとロイドのスキルに操られていた。これまでの君の行動は自分の意志じゃなかったんだ」
フローラの瞳が、わずかに揺れた。
何かを思い出そうとするように、眉がかすかに寄る。
「……そう、なの?」
「ああ」
レオンは頷きながらも視線を周囲へと走らせた。
気配はない。だが、油断はできない。
「話はあとでゆっくりしよう。ロイドが、どこへ行ったか分かるかい?」
「……玉座の後ろに、隠し扉があるの。そこに入って行ったわ」
レオンは玉座へと視線を向けた。
確かにあの裏側は死角になっている。
「わかった」
レオンはフローラの肩に手を置いた。
「ここで待っていてくれ。すべて終わらせるから」
フローラが小さく頷くのを確認して、レオンは玉座へと歩み寄った。
一歩ずつ、慎重に。足音を殺しながら。
玉座の脇を抜け、裏側へと回り込むと石壁にわずかな継ぎ目が走っていた。
注意して見なければ、壁と見分けがつかない。
だが確かにそこには扉があった。
レオンは息を整え、ゆっくりと扉に手をかける。
次の瞬間。
背中に、激痛が走った。
「――――っ!」
息が詰まる。熱い。背中が焼けるように熱い。
レオンはゆっくりと振り返った。
そこにいたのは——フローラだった。
小さな手にナイフが握られており、その切っ先はレオンの背中に深々と突き立っている。フローラの瞳は、再び虚ろに濁っていた。
(やはり、まだスキルは解除されていなかったか……)
レオンは胸の内でそう呟く。
同時に、やられたという思いが静かに頭をよぎった。
「……フローラ」
レオンは、歯を食いしばった。
痛みをこらえながら、彼女の顔を見つめる。
これはフローラの意志じゃない。
ロイドが、どこかから操っているのだ。
フローラを囮に使って。
レオンが油断した瞬間を、狙っていたのだ。
「……姑息な真似を」
レオンは低く、吐き捨てた。




