第53話:ロイドの被害者
王都の片隅――かつて華やかだった通りの一角に、今は人もまばらな古びた酒場があった。その奥の席、煤けた壁にもたれるようにして、ひとりの女性がグラスを弄んでいた。
エミリア。
その名を、かつてギルドで知らぬ者はいなかった。
だが今の彼女は、誰も気づかないように身を隠し、ただ酒の苦味に身を沈めていた。
そこへ、ユナが静かに腰を下ろす。
「私、ユナ……少しだけ話を聞かせてもらえない?」
エミリアは返事もせず、グラスの縁をなぞり続けていた。
しばらくの沈黙のあと、ふいに声を漏らす。
「……何が聞きたいのさ?」
ユナは慎重に言葉を繋げた。
「ロイド王の事を知りたくて」
その一言に、エミリアの指が止まり肩が小さく震えた。
「……なぜ、それを私に聞く?」
「情報屋から聞いたの。あなたの過去が不自然だってね」
エミリアはグラスを握りしめながら話だした。
「――あの人に、私のすべてを壊されたわ」
ユナは黙って続きを待つ。
「……昔、私はギルドの遠征部隊にいた。小さな班だったけど、みんな仲が良くてね。中でもリサって子がいたの。明るくて、いつも笑ってて……私にとっては、仲間であり、大切な人だった」
ユナは静かに頷く。
エミリアの声は、過去を手繰るように続いていく。
「でもある日、ロイドが遠征に同行してきた。最初は紳士的で、笑顔も柔らかくて……みんな、彼を警戒しなかった。でも……リサが、変わり始めたのはその数日後から」
「変わった?」
「表情がね、少しずつ硬くなって、笑い方がぎこちなくなって……ある日突然、もう一緒にはいられないって言われたの。理由もなく。ただ、それだけを残してロイドのもとに行った」
ユナは息を呑んだ。
「それ……」
エミリアの目には、悔しさでも憎しみでもない、深く沈んだ諦めの色があった。
「彼女を責められなかった。ただ、私が無力だっただけだから」
ユナはしっかりと彼女を見つめた。
その声には、何度も何度も繰り返した自己否定の重みがにじんでいた。
過去と向き合う勇気を持てず、でも忘れたくはなかった想いが、そこにあった。
ユナは、そんな彼女を真正面から見つめる。
迷いも、気遣いもない、まっすぐなまなざしで。
「……エミリア。だったら、せめて今は自分を責めるのはやめて」
「……え?」
「あなたは、その人を失いたくなかったって、ちゃんと心から想ってた。
それだけで、もう十分じゃない。後悔を抱えて生きてきた分、今からは、自分を癒してあげて」
エミリアは、そのまなざしに戸惑ったようにまばたきをする。
ユナはふっと柔らかく微笑んだ。
「私が勤めてる料理屋があるの。ちょっと、変わった場所だけど……氣がほぐれる料理と、いい酒を出してる。そこに来てほしいの。言葉で癒せないなら、せめて味で、心を休めてほしい」
「……料理、で?」
「うん。信じられないかもしれないけど、そこの料理は、心の奥に触れてくるの。
無理に答えを出さなくていい。ただ、席について、少し息を吐いてくれるだけでいいの」
エミリアは目を伏せ、しばらく沈黙した。
けれど、ふっと口元をゆるめて、静かに頷いた。
「……そんな風に言ってくれたの、久しぶり。
……じゃあ、お邪魔してもいい?」
「もちろん」
ユナは微笑みながら立ち上がり、そっとエミリアの手を取った。
その手は冷たく、少し震えていたが、それでも、未来に向かって動き出そうとしていた。
王都の片隅にある小さな料理屋の扉が、静かに開いた。
「いらっしゃいませ」
レオンの声が、穏やかに空間に満ちる。
カウンターの向こうで鍋の音が優しく響き、暖かな湯気が漂っていた。
扉をくぐったユナは、そっとレオンに耳打ちした。
「連れてきたわ。……協力者になりうる人」
エミリアは俯きがちに入ってきた。
馴染みのない空気に戸惑いながらも一歩ずつ足を運ぶ。
レオンは目を細め、彼女の顔をじっと見つめる。
「……見覚えがある。治療班……魔導士でしたね?」
エミリアは、驚いたように顔を上げた。
「……どうして、私を知ってるの?」
「料理人は、よく人を見ている。一度会った人の事は忘れませんよ」
その言葉に、エミリアの胸が一瞬だけ波立った。
ユナが間に入るように言った。
「レオン。彼女はスキルの影響を受けてるかもしれない。
ロイドによって、大切な人を奪われたの。……けれど、まだ本人の中に揺らぎが残ってる」
レオンはゆっくりと頷いた。
「女性を連れてきたのは意外だったよ。奪われた者は男性だと思いこんでいた」
「レオン。お願い。スキル解除の料理を彼女に出してあげて。
……もし、違っていたら、それはそれで構わない。また、別の人を探しに行くだけだから」
レオンはエミリアをまっすぐ見た。
「自分の中に納得できていないことがあるなら、ぜひ、僕の料理を食べてみてほしい」
エミリアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……私の中で、何かが止まったままなんです。
彼女のことを奪ったロイドのことを、本当に自分の意思で受け入れていたのか……わからなくて」
「なら、確かめよう。料理は真実を偽れないから」
レオンは言い、ゆっくりと厨房へ向かった。
静かな時間が流れる中、鍋の音、包丁の音、火の跳ねる音が、少しずつ重なり合っていく。
それはまるで、止まっていた記憶の歯車を、ひとつひとつ動かすような、静かな調律だった。




