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第1話 月下の粗相と奇縁

 ――ああ!やってしまいましたわ……!


 ドレスの裾を抱え、リュリアは必死に廊下を駆け抜けた。

 帝国の第1王子セヴェリオの婚約者探しを名目に開かれた舞踏会。帝国の王子には興味などなかったが、あまりにも婚約者が見つからないリュリアに両親が泣きつき、仕方なく参加しただけだった。


 壁の花として静かにやり過ごすつもりだったのに――。

 背後から馴れ馴れしい声が響き、振り返れば丸太のような腕に突き出た腹、油でぬらりと光る顔のバルドン公爵。

 その醜悪さとベタベタした手つきに、思わず袖を振り払い、思わず声を荒げ、思わず叫んでしまった。


「触らないで!」


 やってしまった。

 これでもうアルヴァニアの面目は地に落ちた。

 民が泣き、両親が青ざめ、ここオルディス帝国の噂好きな貴婦人たちが面白おかしく広める未来が、はっきりと目に浮かぶ。

 ――いや、まだ名乗ってはいない。だから、希望はある……はず。


 どうにか人の目を避けて辿り着いたのは、人気のないバルコニーだった。

 夜風がひやりと頬を撫でるが、胸の奥の心臓は「どんどんどんどん」と暴れまわっている。


「わたくしとしたことが……!あれだけお父様に言われていたのに……!」


 両手で顔を覆い、欄干に額をゴンッとぶつけて小さな呻きを漏らす。

 リュリアは両親に愛されて育った小国アルヴァニアのお姫様。その姿はゆりの花のように可憐だが、性格は真逆で、カッとなると思ったことをズバッと言ってしまうやんちゃ娘。

 両親が何度も「粗相のないように」と言い含めたのも当然だった。――のに。


「これでは婚約者探しどころではございません……!むしろ“変な女”と噂が広まってしまうではありませんか!」


 民の顔が脳裏に浮かぶ。涙ぐみながら送り出してくれた人々。

 その期待を思えば思うほど、胃がきゅうっと縮む。


「ごめんなさい……!もう帰りたい……!今すぐ布団に潜って寝たい……!」


 欄干に額をゴンッ、ゴンッとぶつける動作が二回、三回。

 そんなリュリアの肩が震えていた、その時。


「……ずいぶんと賑やかな後悔ですね」


 ふいに低い声が響き、リュリアは跳ねるように顔を上げた。

 そこには、漆黒の礼服に身を包んだ青年が凭れるように佇んでいた。

 整えられた前髪の隙間からのぞく琥珀の瞳は、月明かりを受けて淡く光り、静かな夜に不思議な熱を落とす。


 誰かは分からない。だが、そんなことは問題ではなかった。


 問題は――見られたという事実である。


「あ、あぁぁ……!聞かれて……いましたの……?」


 頬が一気に真っ赤に染まる。

 欄干に額をぶつけて呻いていた姿も、布団に潜りたいと泣き言を漏らしていた声も、ぜんぶ、この人に聞かれてしまった。


 これではもう「姫」ではなく、ただの残念なお嬢様。

 帝都に広まる未来のあだ名は決まった――「粗相姫」。


 ――お、終わりましたわ……!


 両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。

 裾が広がり、まるで撃ち抜かれた兵士のような有様。心はすっかり灰となり、もういっそこのまま消えてしまいたい。

 リュリアはよろよろと立ち上がり、震える手でスカートを摘んでカーテシーをした。


「大変お見苦しいところを……どなたか存じ上げませんが、今宵のことは見なかったことに……」


 うふふ、とカチコチの笑みを作りながら、リュリアは青年の横を通り過ぎようとした。

  あちらが名乗ればこちらも名乗るのが常識。

 もし彼が名を告げれば、自分も応じざるを得ない――そうなれば小国アルヴァニアの姫であることが露見してしまう。


 それだけは避けたい。

 名乗られる前に、一刻も早く退散を――。


「……待って」


 呼び止める声に振り返ると、青年は気まずそうに目を逸らしながらリュリアを見ていた。

 何事かと首を傾げると、彼はわずかにためらいながら、リュリアのスカートの裾を指差す。


「その……レースが……」

「レース……?」


 視線を落としたリュリアの目に飛び込んできたのは――ぱっくりと大胆に裂けたドレスの裾だった。


 民が今日のために心を込めて仕立ててくれた、大切な淡桃色のドレス。

 刺繍は可憐で、古風で、彼女にとっては国の誇りそのもの。

 その誇りが、見事に破れていた。


 ――終わりましたわ(二度目)!!


 リュリアは羞恥で頬を赤く染め、その場にしゃがみ込んだ。

 バルコニーではしたなく嘆いていた姿を晒し、さらに大切なドレスの裾は無惨に裂けている。不幸が重なり、胸はもう泣き出しそうに痛む。


 ーーもう、嫌……。


 これ以上、何かが起きたら心が壊れてしまいそうだった。


 項垂れるリュリアの前に、青年は静かに屈んだ。

 そしてそっと手を差し伸べる。


「私に……あなたの手助けをさせて頂けませんか?」


 柔らかに響く声。

 その優しさに、リュリアは涙ぐみながら震える手を伸ばし、そっと彼の手を取った。


 程なくして運ばれてきたのは、サイズがぴったりの淡い色のドレス。宝石が上品に散りばめられ、薄いレースで編まれたケープショールまで添えられている。

 丁寧に靴まで揃えられており、さらに青年は侍女を呼びましょうかと提案してきた。


「じ、自分で着られますので!お構いなく!!」


 リュリアは慌てて首を振り、個室に駆け込んで着替えた。

 新しい装いを身に纏った自分の姿に、申し訳なさで胸が詰まる。これほど立派なものを借りてしまって、本当にいいのだろうか。


 バルコニーに戻り、青年に深く頭を下げた。


「必ず……必ず綺麗にしてお返し致しますわ」


 しかし青年は穏やかに微笑み、首を振る。


「いいえ。これはあなたに差し上げます」


 リュリアはさらに萎縮し、どう応じればいいか分からないまま立ち尽くした。

 その時、青年の視線が彼女の背に向かう。


「……失礼、ボタンが」


 不意に肩を引き寄せられ、リュリアは心臓が跳ね上がる。

 青年の手が背中に回り、抱きしめられるような形で近づけられる。


「え…っ、あ、あの!わ、わたくしはもう帰るだけですので、このままでも……!」

「……やらせてください」


 青年は短く答えると、器用に後ろのボタンを一つ留めていった。

 カチリと音がした瞬間、リュリアは勢いよく彼から離れ、シュッと距離を置いた。


 顔は真っ赤、背筋はカチコチ。けれどなんとか礼を口にする。


「……あ、あの……あ、ありがとうございました!いつか必ず……必ずお礼をさせていただきますわ!」


 青年は楽しげに目を細め、軽やかに応じた。


「でしたら――少し、私の話し相手になってくれませんか?」


 リュリアの心は一気にざわつく。

 帰りたい気持ち。申し訳なさ。見知らぬ青年に対する羞恥心。全部がぐるぐると回り、逃げ出したい衝動に駆られる。


 けれど結局、リュリアは小さく息を吐き――頷いてしまった。


 二人、バルコニーに並ぶ。

 夜はすでに更け、雲ひとつない空には丸い月が煌々と輝いていた。

 白銀の光は二人の肩をそっと照らし、夜風が揺らすレースのケープを淡く浮かび上がらせる。


 リュリアはその端を指先で押さえ、なんとも居た堪れない気持ちを隠すように俯いた。

 遠くではまだ舞踏会の演奏が続いており、華やかな旋律がかすかに風に乗って届く。

 けれど、この小さなバルコニーだけは別の世界のように静かで、二人きりの時間が流れていた。


 青年はそんな彼女の様子を見て、優しい声で口を開いた。


「……あなたは、なぜ今夜の舞踏会に?」


 問われ、リュリアは顔を上げる。

 ごまかそうとしたが、相手の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、結局は観念して口を開いた。


「わたくし……両親から、婚約者を探すようにと、ずっと言われておりまして。今日もそのために……」


 唇を噛む。

 本当は口にしたくなかった。けれど、今の自分を見られてしまったこの人には、もう取り繕っても仕方がない。


「ですが……正直に申しますと、まるで乗り気ではございませんの」


 笑みを作ろうとしたが、うまくいかず、声は小さく震えていた。


「私の住まう所は小さな国です。豊かでもなく、帝国から見れば貧しいのでしょう。でも……わたくしにとっては、かけがえのない故郷です。

 だから、もし結婚をするのなら――富や名誉に縛られず、その国を共に支え、分かち合ってくれる方が良いのです……」


 語り終えたリュリアは自分でも気恥ずかしくなり、ちらりと視線を上げた瞬間、青年の瞳が映った。

 冗談めかすでも、退屈そうにするでもなく、まっすぐに彼女の言葉を受け止めている。

 その真剣な眼差しに、リュリアは胸を突かれたようにハッとし、思わず息を呑んで慌てて扇子で口元を隠す。


「……ふふ、失礼を……。少々、柄にもなく語ってしまいましたわ」


 すると、青年は小さく笑った。


「……素敵です」


 青年の一言に、リュリアの頬が一気に熱を帯びる。

 続いて、青年が語り出す。


「実は私も婚約者を探しているのです。けれど……あの舞踏会は窮屈で、どうにも耐えられず抜け出してきました」


 あまりに率直な物言いに、リュリアは思わず目を瞬かせる。

 青年は少し肩をすくめ、夜風を少し浴びながら少し間を置いて、青年が口を開いた。


「あなたは――婚約者の階級などは、気にされませんか?」

「……階級?」


 思いがけない問いに、リュリアは瞬きを繰り返す。

 なぜそんなことを聞くのだろう。だが問われた以上、答えないわけにもいかない。


「……はい。わたくしは気に致しません。お金や地位などはなくても、なんとかなりますわ」


 答える自分の声に、少しだけ勇気が混じる。

 青年はその言葉を静かに受け止め、しばし考える素振りを見せる。

 そして、ゆっくりとリュリアへと向き直った。


「……でしたら」


 琥珀の瞳が、月明かりに照らされながら真っ直ぐにリュリアを射抜く。


「――私と婚約していただけませんか?」

「えっ……!」


 ーーこ、ここ、婚約……!?


 突然の申し出に、リュリアの心臓は大きく跳ね上がった。

 扇子を胸に押し当て、困惑で声が裏返る。


「な、なぜ……わたくしに……!?」


 リュリアの声は戸惑いに溢れ、扇子の向こうで瞳が揺れる。

 青年は微笑を崩さず、静かに答えた。


「理由は単純です。互いにとって都合がよいからです」

「……都合……?」


 リュリアはきょとんと瞬きを繰り返す。

 青年は夜風に肩をゆだねるようにしながらも、その瞳は真剣だった。


「私には婚約者を望まれる声があり、あなたにも両親の期待がある。ならば――義務を果たしつつ自由を保てる関係も一つの形でしょう」


「……たしかに都合は良いけれど……」


 扇子を胸に抱えたまま、リュリアは視線を落とした。

 婚約に乗り気でない自分と、同じく義務感に縛られる青年。理屈は確かに通っている。


 そう思った矢先、青年は一歩踏み出し、琥珀の瞳で真っ直ぐに彼女を射抜いた。


「それに――」


 夜風が二人の間をかすめる。


「私はあなたの、その国を思う考えが、とても気に入りました」

「……っ」


 胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 都合だけの提案のはずが、その一言は不思議な熱を帯びて響いた。


「……少し、考えさせてくださいませ」


 リュリアは胸元の扇子を強く握りしめ、震える声を押し出した。


「あまりにも唐突すぎますわ。それに……わたくし、あなたのお名前すら存じ上げませんのよ」


 青年はわずかに目を細め、髪を揺らしながら考え込むように沈黙した。

 そして、ゆるやかに口を開く。


「……では、私のことは――カル、とお呼びください」


 名を告げる声音は落ち着いていて、それでいてどこか秘密を匂わせる。

 リュリアは驚きと戸惑いを隠せず、思わず息を呑んだ。


「後日、改めてお会いできませんか。その時に……私のことをお話しします」


 琥珀の瞳は真摯に輝き、軽い冗談や気まぐれではないことを告げていた。

 リュリアはその視線から逃げられず、扇子の陰で小さく頷いた。

 頷いたものの、胸の奥はまだざわついていてうるさい。


 ――カル。


 呼ぶだけで、胸の奥がかすかに熱を帯びそうになる。

 リュリアはぶんぶんと頭を振り、頬の熱をどうにか冷まそうと必死になった。

 ふぅと長く息を吐く。


 それでも胸の奥のざわめきは収まらない。

 思わず視線を上げ、目の前の青年――カルと名乗った彼へ向ける。

 戸惑いを含みながらも、唇は自然とその名を紡いでいた。


「……では、カル様」


 恐る恐るそう呼ぶと、青年は柔らかに微笑んだ。

 その微笑みが舞踏会の華やかさとは不釣り合いに静かで、リュリアの胸に妙な余韻を残した。


 やがて、彼は自然な所作で彼女の手を取った。


「お送りいたします」


 拒む間もなく導かれるままに歩けば、煌めくシャンデリアの明かりから遠ざかり、夜の静けさが満ちる回廊を抜けた。

 大理石の柱が月光を受けて白く光り、二人の影を長く石畳に落とす。

 並んで歩むその影は、ともすれば寄り添う恋人のようにも見え、リュリアの胸をいっそうざわつかせた。


 これといった会話はなかったが、不思議と気まずくはなかった。

 むしろ、うるさいくらいに胸うつ鼓動が聞こえてしまわないだろうか。そんな考えが頭を占める。


 靴音が静かに重なり合い、宮殿の門をくぐった先――そこに、待ち構えるように馬車が佇んでいた。

 月光を映す白塗りの車体は夜に溶け込み、扉の金具だけが燦然と輝いている。

 御者が恭しく頭を垂れ、静かな所作で扉を開いた。


 リュリアがドレスの裾を整えて馬車に乗り込もうとしたその時、青年の声が追いかけてきた。


「おやすみなさい、リュリア姫」


 扉が静かに閉じられ、御者の合図で馬車はゆっくりと動き出す。

 石畳を叩く蹄の音が規則正しく響く中、リュリアは胸元を押さえた。


 ほんの少し前までのやり取りが、次々と思い出される。

 ――唐突すぎる求婚。

 ――都合の良い関係という、前代未聞の提案。

 ――そして、妙に真剣な眼差し。


「~~~っ!!な、なんでしたのあれはっ!?!」


 堪えきれず声を上げ、すぐに口を押さえる。

 もはや先ほどのバルドンとの騒動など頭の片隅にもなく、胸の内を支配しているのはあの青年とのやり取りばかりだった。

 御者に聞こえたらどうしよう、と窓越しにちらちら確認するが、もちろん返事はない。


「か、考えれば考えるほど……ますます訳が分からなくなってまいりますわ…」


 座席に沈み込んでクッションをぎゅっと抱きしめ、足をばたつかせる。

 顔は熱く、心臓は暴れ馬のように騒ぎ続けている。


「お、落ち着きなさい、リュリア……!いいこと、淑女たるもの決して取り乱してはなりませんわ……!」


 必死に扇子で顔を扇いでも、熱は収まらず、むしろ頭の中は先ほどの青年の笑みでいっぱいになるのだった。


 だがふと、リュリアは首を傾げた。


「……あら。そういえばわたくし、名乗りましたっけ?」


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