09
「すみません……」
「まあ今回は仕方ないです。とりあえずは書庫に入らないように。ドアも施錠してありますので」
友利さんが山内さんに頭を下げているのを僕はボーっと眺めていたところで、ポケットの中のスマホが振動する。確認してみると尾形教授からのメッセージだった。
『八角くん 来れるようだったら誰でもいいので事情を知っている図書館の人を連れて研究室に来てください。インクの無力化に対する有効な手段が見つかったかもしれません』
――事情を知っていれば誰でもって……そんなんでいいのかな。
僕から声を掛けられそうなのは山内さんと友利さんくらいしかいない。どちらにしよう。
***
「あの、山内さん。少しいいですか?」
スマホの画面をすこし眺めたあと、八角さんは山内さんに声を掛けた。
「どうしましたか? 尾形教授からなにか連絡がありましたか?」
「ええ、なんでも無力化に対する手段が見つかったかもしれない、ということで呼ばれたのですが誰か連れてきて欲しいそうで。もしよろしければ来てもらえますか?」
八角さんがそう言うと、山内さんはこちらを見る。なんか気を遣っているのだろうか?
「山内さん、私は大丈夫です。書庫を開けなければいいんですよね? 待ってる間カウンターにいますんで、なんかあったら連絡ください」
「あ、ああ……そうですね、お願いします。なんかあったら連絡してください、戻りますので」
「では行きましょうか、棟が離れているので少し歩きますが」
そう言って八角さんと山内さんはカウンター前の階段を降りていった。その際、八角さんが一瞬振り返って、こっちを見つめた気がしたがきっと気のせいだろう。書庫の扉を見たのだろう。きっとそうだ。
「しかしカウンターにいるって言っちゃったけど……なんか今日は人が少ないなあ」
八角さんと山内さんが研究室に向かって五分ほど経つが、図書館にはほとんど人がいない。いつもはもう少しはいるはずなんだけど。まあ人が多くてもそれはそれで困るか……。
***
「ああ、八角くん。呼び出して悪いね。もしかして例の友利さんとお話途中だった?」
「いえいえ、大丈夫です。あ、こちら図書館の職員の山内さんです。山内さん、こちらはインクの開発者の尾形教授です」
格闘家のような体格で強面こわもての山内さんを見るや否や尾形教授の身体がこわばるのがわかった。
「どうも、山内昇です」
山内さんは会釈をする。尾形教授は緊張した様子でそれに合わせる。
「尾形春美です。この度はご迷惑をおかけしまして……」
「いえいえ。起きてしまったことは仕方ないです。被害が書庫の本だけなのも不幸中の幸いでしょう」
そう言って山内さんは笑う。尾形教授はそれを見て少し緊張がほぐれたようだ。僕もそれを見て少しだけ安心した。
「教授、コーヒー淹れますか? インスタントですけど」
「ああ、ありがとね。山内さんも飲みます?」
「ありがとうございます。砂糖多めでお願いします」
山内さんは苦いの苦手なのかな。少し意外だと思いながら砂糖を探していたら山内さんが話を始めた。
「で、無力化する方法というのはどういったモノなのでしょうか?」
「結論から言うとインクの純度を下げることですね。薄めてしまうんです」
「薄める手段は何でもいいんですか?」
尾形教授は頷いた。
「とりあえず水が無難でしょうね、入手性やら扱いやすさとかから考えると」
実際にやってみましょうか、そう言って尾形教授は例のインク入った試験管二つと紙を取り出して、つけペンにインク染み込ませて紙に円を描いた。インクは例によって動きだす。
「本当に動くんですね。まあアレを見てからだと驚きも少ないですが」
「まあそうなりますよね。じゃあ今度は動くインクに水を混ぜてみます」
尾形教授はもう一つのインクの入った試験管に水を混ぜて、違うつけペンで同じようにした。するとどうだろうか。薄墨のようになったインクは動かない。
「本当に動きませんね」
「尾形さん、これはどういうことなんです? このインクはいわゆる死んだ状態なんですか?」
すると尾形教授は首を振る。
「いえ、生きています。ただ動けなくなったんです。このインクは粘度が大きいんですよ。ねばっこいってことですね。例えるならその分子たちが筋肉みたいに動くわけですね。でもそれに水、つまり不純物が混じって、腱を切られたような状態になって動けなくなったと推測できます」
「泥団子に水を混ぜすぎて固まらなくなった感じですかね」
「え、泥団子って水混ぜるんですか?」
すると山内さんは驚いたような表情を見せる。
「八角さん、泥団子作ったことないんですか?」
「ないです、外で遊ぶの嫌いだったんで」