プロローグ
ドリームライド
プロローグ
「カイ! 右!」
声が飛んだ。
その瞬間、海は走り出した。
乾いたグラウンドを強く蹴り、相手ディフェンダーの背後へ一気に抜ける。
神谷海、十五歳。
朝凪市立青葉南中学校に通う中学三年生で、身長百七十五センチ、体重六十キロ。
細身ながら、毎日のサッカーで鍛えられた身体はしなやかで、特に瞬発力と加速力には自信がある。
少し長めの黒髪に、日に焼けた肌。
じっとしていることが苦手で、考え込むより先に身体が動く。
そして何より、サッカーが好きだった。
青葉南中学校サッカー部。
ポジションはフォワード。
チームのエースストライカー。
今も海の視線は、ゴールしか見ていない。
「行かせんな!」
相手ディフェンダーが慌てて身体を寄せてくる。
だが、一歩遅い。
中盤でボールを持った高橋悠斗が顔を上げた。
短く整えた黒髪に、海より少し小柄な身体つき。小学生の頃から一緒にボールを蹴ってきた、海の一番の相棒だ。
派手なプレーをするタイプではないが、周りを見る力は部内でも抜けている。
そして何より、海がどこへ走るのかをよく知っていた。
悠斗の視線が一瞬だけ右へ動く。
それだけで十分だった。
右足から放たれたボールが、二人のディフェンダーの間を抜けてくる。
海は速度を落とさない。
右足で一度だけ触った。
ボールが前へ転がる。
ゴールキーパーが飛び出してくる。
近い。
右か。
左か。
考えるより先に身体が動いた。
海は右足を振り抜く。
ボールはキーパーの脇を抜け、そのままゴール左隅へ吸い込まれた。
ネットが揺れる。
「っしゃあ!」
海は勢いのまま右手を突き上げた。
「ナイス、カイ!」
後ろから悠斗が走ってくる。
海は笑いながら振り返り、悠斗と手を叩いた。
「今のパス完璧じゃん」
「お前がちゃんと走ったからだろ」
「俺なら走るって分かってたくせに」
「まあな」
二人が笑っていると、少し離れたところから笛が鳴った。
「集合!」
低くよく通る声がグラウンドに響く。
声の主は、サッカー部顧問の黒田修司だった。
三十五歳の体育教師で、短く刈った髪と日に焼けた顔のせいか、黙って立っているだけでも少し怖く見える。
ただ、怒鳴って選手を動かすタイプではない。
むしろ黒田がよく口にするのは、
「今、何を見てた?」
「なんでそうした?」
そんな質問ばかりだった。
海が苦手としている種類の質問だ。
部員たちがグラウンド中央へ集まっていく。
六月。
午後六時を過ぎても、空にはまだ明るさが残っていた。
湿った風がグラウンドを抜けていく。
海はユニフォームの裾で額の汗を拭った。
「今日ここまで」
黒田が部員たちを見渡す。
「大会まで一か月切ってる。明日から紅白戦を増やすぞ」
「はい!」
部員たちの声が重なる。
中学最後の夏の大会。
青葉南中サッカー部にとって、海たち三年生にとっても大きな目標だった。
今年のチームは強い。
市内では優勝候補の一つに挙げられている。
その先の県大会も、決して届かない場所ではない。
海も当然、勝つつもりでいた。
「あと、神谷」
突然名前を呼ばれ、海が顔を上げた。
「はい?」
黒田は腕を組んだまま海を見る。
「最後のゴール。なんであそこに走った?」
「え?」
「悠斗がボール持った時だ」
海は少し考えた。
「いや……空いてたから?」
「どこが?」
「どこって……右?」
何人かの部員が吹き出した。
黒田が小さく息を吐く。
「お前な」
「でも点入りましたよ」
「そういう話してない」
海は首を傾げた。
黒田が続ける。
「相手のセンターバックが一歩前に出た。サイドバックは悠斗を見てた。だから二人の間が空いた。違うか?」
「あー……」
言われてみれば、そんな気もする。
ただ海自身は、そこまで考えて走ったわけではない。
「多分」
「多分じゃない」
再び笑いが起きる。
海も苦笑いした。
「お前は感覚でできる。それは才能だ」
黒田は自分のこめかみを指で叩いた。
「でもな。なんでできたか分かるようになったら、お前はもっと上手くなる」
海は少しだけ口を尖らせる。
「点取れればよくないですか?」
「中学まではな」
その一言に、海は黙った。
高校でもサッカーを続けたい。
できれば強い学校で。
その程度には考えている。
けれど、その先のこととなると、まだよく分からない。
「はい、解散」
黒田が手を叩く。
部員たちは一斉に動き始めた。
海が水筒を取りに行こうとしたところで、後ろから声が飛んできた。
「また怒られてんじゃん」
同じ三年生で、同じフォワードの三浦陸だった。
海より少し小柄だが、鍛えられた脚と足元の技術は部内でもトップクラス。
海が感覚と勢いでプレーするのに対して、陸は何度も同じ動きを繰り返して身につける努力型だ。
同じポジションということもあり、何かにつけて海に張り合ってくる。
「怒られてねえし」
「毎回同じこと言われてるだろ」
「でも俺、今日三点」
「練習だろ」
「リクは?」
「二点」
「じゃあ俺の勝ち」
「うぜえ」
陸が海の背中を軽く叩く。
海は笑った。
いつものやり取りだった。
海にとって、サッカーは難しいものではなかった。
もちろん練習はする。
毎日走る。
ボールも蹴る。
シュート練習もする。
けれど試合になれば、どこへ走ればいいのかなんとなく分かった。
ボールがどこへ来るのかも、なんとなく感じ取れた。
どうして分かるのか。
そんなことを深く考えたことはない。
今までは、それで困ったことがなかった。
⸻
「腹減った」
校門を出たところで、海が言った。
「お前、それ毎日言ってんな」
悠斗が呆れたように笑う。
二人の横を歩いていた小林蒼太が、スマートフォンから顔を上げた。
蒼太は海と同じ三年二組のクラスメイトだ。
サッカー部ではなく、放課後はだいたいゲームかネット。
人懐っこくよく喋る性格で、海や悠斗とは部活がない日にもよく遊んでいる。
「コンビニ寄ろうぜ」
「今日無理」
海が即答する。
「なんで?」
「誕生日」
蒼太が目を丸くした。
「今日だっけ?」
「ひどくね?」
「あー、六月三日だっけ」
「六月五日」
「惜しい」
「全然惜しくねえよ」
悠斗が吹き出した。
「十五?」
「十五」
「おっさんじゃん」
「お前も来月だろ」
三人で笑う。
朝凪市の夕方。
駅へ向かう道路には、部活帰りの中高生や仕事帰りの人たちが行き交っていた。
車が走る。
信号が変わる。
コンビニの自動ドアが開く。
遠くから電車の走る音が聞こえる。
海にとっては、生まれた時から見慣れた景色だった。
特別なものなんて、何一つない。
少なくとも、この時の海はそう思っていた。
「じゃ、また明日」
海が自転車にまたがる。
「おう」
「誕生日プレゼント期待しとけよ」
蒼太が言った。
「マジ?」
「俺の熱い友情」
「いらね」
「ひでえ!」
三人は交差点で別れた。
⸻
「ただいまー」
玄関を開けると、すぐに料理の匂いがした。
「おかえり!」
母親の彩の声がキッチンから聞こえる。
神谷彩、四十一歳。
明るく世話好きで、特にサッカーばかりしている息子の食事と体調には口うるさい。
海が気づかないような小さな変化にも、なぜかすぐ気づく。
「手洗ってきなさいよ」
「分かってる」
「そのまま冷蔵庫開けないでよ」
「まだ何もしてないじゃん」
「どうせ開けるでしょ」
図星だった。
海はサッカーバッグを自分の部屋へ置き、汗で張りついたシャツを脱いで着替えた。
洗面所で手と顔を洗い、リビングへ戻る。
テーブルの上には、海の好きな料理が並んでいた。
唐揚げ。
ポテト。
サラダ。
大皿のパスタ。
中央には、まだ箱に入ったままのケーキが置かれている。
「父さんは?」
「もうすぐ帰るって」
「今日早いじゃん」
「息子の誕生日ですから」
彩が笑う。
「十五歳かあ」
「何?」
「いや。大きくなったなと思って」
「急に何だよ」
海は冷蔵庫を開き、冷えた水を取り出した。
「もう高校受験なんだからね」
「誕生日にその話する?」
「現実です」
「聞こえませーん」
水を飲みながら、海はリビングを出ようとする。
「海」
「ん?」
「ちゃんと考えてる?」
「何を?」
「高校」
海は少しだけ足を止めた。
「サッカーできるとこ」
「それだけ?」
「だってまだ中三だよ?」
「もう中三なの」
「はいはい」
「はい、は一回」
「はーい」
自分でも適当だとは思う。
でも、本当にまだよく分からなかった。
高校。
大学。
仕事。
将来。
大人はすぐに将来の話をしたがる。
海にとっては、一か月後に迫った大会の方がずっと大事だった。
中学最後の夏。
県大会。
勝ちたい。
今は、それで十分だった。
⸻
夜八時を少し過ぎた頃、父親の匠が帰ってきた。
神谷匠、四十三歳。
ごく普通の会社員だが、休日になると庭の物置から工具を引っ張り出し、棚を作ったり家のちょっとした修理をしたりしている。
海に言わせれば、
「休みの日までよくやるよな」
という人だった。
「お、主役」
リビングに入ってきた匠が海を見る。
「遅い」
「これでも早く帰ってきたんだぞ」
「お疲れ」
「軽いな」
匠は笑いながらネクタイを緩めた。
三人で夕食を食べた後、彩がケーキをテーブルへ出した。
箱を開けると、苺の乗ったホールケーキが姿を見せる。
その隣には、細い蝋燭が十五本。
「さすがにこれ全部立てる?」
海が聞いた。
「十五本買ったから」
「マジかよ」
「せっかくだろ」
匠が楽しそうに一本ずつ蝋燭を刺していく。
「父さんがやりたいだけじゃん」
「バレたか」
部屋の電気が消える。
十五本の炎が小さく揺れた。
「はい、海」
「歌うの?」
「歌うよ」
「もういいって」
そう言いながらも、海は笑っていた。
十五歳。
自分では、昨日までと何も変わった気がしない。
蝋燭を一息で吹き消す。
拍手。
写真。
そしてプレゼント。
海が包装を剥がして箱を開けた瞬間、表情が変わった。
「うわ!」
中に入っていたのは、新しいサッカースパイクだった。
ちょうど海が欲しがっていたモデル。
「これ欲しかったやつ!」
「高かったんだから大事に使えよ」
匠が言う。
「父さん最高」
「それ選んだの私なんだけど」
「母さん最高」
「調子いいなあ」
三人の笑い声がリビングに響いた。
ごく普通の誕生日だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
海自身も、この日のことを特別なものとして覚えておくつもりなどなかった。
⸻
午後十一時四十七分。
海はベッドに横になっていた。
机の上には、箱から出したばかりのスパイクが置いてある。
早速明日の練習で履くつもりだった。
スマートフォンには、友達から届いた誕生日メッセージが並んでいる。
悠斗。
陸。
蒼太。
サッカー部の仲間。
クラスメイト。
その中に、桜井美緒からのメッセージもあった。
美緒は海と同じ三年二組で、小学校の頃から顔を合わせているクラスメイトだ。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめていることが多く、誰とでも自然に話せる。
海とも普通に話す間柄だった。
『誕生日おめでとう! 15歳もサッカーばっかりやってそう笑』
海は少し笑って、
『当たり前笑』
と返した。
すぐに既読がつく。
『受験も忘れないようにね』
「母さんみたいなこと言ってるし」
小さく呟く。
『うるさい笑』
そう返してから、スマートフォンを充電器につないだ。
部屋の電気を消す。
暗くなった天井を見る。
十五歳か。
何か変わるのかな。
ほんの一瞬だけ、そんなことを考えた。
けれど、すぐにどうでもよくなる。
明日も学校。
その後は部活。
紅白戦。
新しいスパイク。
できれば今日みたいに三点くらい決めたい。
そんなことを考えているうちに、まぶたが重くなっていった。
やがて、
海は眠った。
⸻
最初に感じたのは、
硬さだった。
背中が痛い。
「……ん」
海は眉を寄せた。
寝返りを打とうとして、身体の下にあるものの感触に違和感を覚える。
硬い。
ベッドが硬い。
いや。
違う。
海はゆっくり目を開いた。
眩しい。
反射的に目を細める。
視界に入ってきたのは、
見慣れた自室の白い天井ではなかった。
青い空。
「……え?」
数秒。
海はそのまま空を見つめていた。
何が起きているのか、頭が追いつかない。
身体を起こす。
手をついた。
ざらりとした感触。
海は自分の手を見る。
砂。
小さな石。
乾いた土。
「何……?」
周りを見る。
草すらほとんど生えていない。
海はゆっくり立ち上がった。
「……ここ、どこだよ」
右を見る。
何もない。
左を見る。
何もない。
振り返る。
やはり何もない。
家がない。
道路がない。
電柱がない。
車もない。
人もいない。
遠くまで続く、乾いた大地。
その先には一本の線のような地平線が見えている。
風が吹いた。
寝る前に着ていたTシャツが揺れる。
ハーフパンツもそのままだ。
海は自分の身体を見下ろした。
裸足ではない。
いつも家で履いているサンダルを履いている。
「……は?」
もう一度、辺りを見回す。
理解できない。
つい数分前まで、自分の部屋にいたはずだ。
少なくとも、海にはそう思えた。
夢。
頭に浮かんだのは、その言葉だった。
「……夢だよな?」
声に出してみる。
返事はない。
風の音だけが聞こえる。
海はしばらく、その場から動けなかった。
果てのない荒野。
どこを見ても、
朝凪市はなかった。




